事故
「実はあなたにお願いがあるのだけれど……聞いてもらえないかしら?」
ある日、クワロート公爵家の先代夫人であるエリーシア・クワロートに、カルセドニアは突然呼び出された。
もしや、また何かの病気なのではと慌ててカルセドニアが駆けつければ、待っていたのは先程の先代夫人の言葉。
先代夫人が病気ではないと分かってほっとするものの、今日この場に彼女を呼び出した「お願い」とやらにカルセドニアはやや警戒心を抱く。
これまでも、先代夫人が彼女を呼び出して「お願い」をする時は、カルセドニアにとってはあまりいいものではなかったからだ。
自分の血縁の男性と彼女を引き合わせたり。
知り合いの貴族の令息と見合いはどうかと勧めてきたり。
以前はやたらと縁談を持ちかけてきたエリーシア。
それらは全て、結婚適齢期の後半に差しかかったカルセドニアを心配してのことだったが、当の本人からすればやはり迷惑なものだった。
だが、エリーシアも辰巳を認めてからは、そんな縁談を勧めることはなくなっている。
となれば、縁談の類ではないだろう。
内心で首を傾げつつ、カルセドニアはエリーシアの言葉の続きを待つ。
「実はね、私の知り合いの娘さんが、とある夜会に出ることになって衣装を新調したのだけれど……寸法合わせの直前に体調を崩してしまったの」
頬に手を添え、心配そうにふぅと息を吐き出すエリーシア。
「とりあえず、夜会までには体調は戻るそうなので安心しているのだけれど、肝腎の衣装合わせが間に合いそうもないのよ。そこで──」
エリーシア先代夫人が、ちらりと意味ありげな視線でカルセドニアを見た。
「分かりました。私がその方の病気を癒せばいいのですね?」
「いえ、そうじゃないの。あなたに代りに衣装合わせをして欲しいのよ」
「え? 私が衣装合わせを……ですか?」
思わず目をぱちぱちと何度も閉じるカルセドニア。
「ええ。その娘さんとあなたは同じような背格好なのよ。だから、あなたに代りに衣装合わせをお願いしたいの」
「そ、それは構いませんが……私が代役となるより、その方を魔法で癒した方がいいのでは?」
「そ、それはそうだけれど、もう針子たちも呼んであるの。彼女たちも忙しいところをわざわざこの家まで来てもらっていることだし、ここはあなたに衣装合わせをしてもらえないかしら?」
なんだか納得できないものの、他ならぬエリーシアの頼みである。カルセドニアは浮かない表情を浮かべつつも、結局は首を縦に振った。
「じゃあ、早速今からお願いね?」
「い、今からですかっ!?」
驚くカルセドニアを余所に、エリーシアはぱんぱんと手を数回叩いた。
それに応じるように扉が叩かれ、エリーシアの許可を得て数名の女性が布や針などの裁縫用具を持って部屋へと雪崩れ込んできた。
女性──針子たちは、慣れた手付きでカルセドニアの衣服をはぎ取っていく。
そして、下着姿となった彼女にあれこれと様々な種類や色の布を押し当て、エリーシアも交えて相談する。
「カルセドニア様の髪の色なら、こちらの色の布の方が映えるのではないでしょうか?」
「そうねぇ。確かにこの色の方がいいわね」
「あ、あのー……私の髪と合わせても仕方ないのでは……?」
「あ、ああ、い、いいのよ。その娘さんも、あなたとよく似た髪の色をしているから」
「そ、そうなのですか……?」
やはり納得いかないものの、そのまま勢いに流されるカルセドニア。
その後も、針子たちはどんどんと作業を進めていく。
布地の色を決め、装飾品を選択し、細かな意匠を定めて。
身体の各所の採寸までされて、まるで自分の衣装を作っているようだとカルセドニアが思った程、各作業は彼女に合わせて行われた。
「カルセドニア様の肌は本当にすべらかですね。羨ましい限りです」
「本当。色も白くて……あら?」
針子の一人が、カルセドニアの雪のような肌──ふくよかな胸の膨らみの一部──に、鬱血したような痕が幾つもあるのを発見した。
そして、それが何なのかを一瞬後に悟り、その顔を真っ赤にする。
「し、失礼しました……っ!!」
その針子は顔を真っ赤にしたまま、あえてその鬱血を見ないように作業を進める。だが、その後もちらちらと何度もその鬱血痕を盗み見ていた。
カルセドニアもその針子に負けないぐらい真っ赤になり、恥ずかしそうに視線を泳がせていた。
「あらあら。どうやらタツミとは仲良くやっているようねぇ」
そんなカルセドニアの様子を、エリーシアはにこにこと微笑みながら見つめた。
親しくしているエリーシアにからかわれ、カルセドニアは尚更真っ赤になる。
だけど、その顔には嬉しそうな微笑みが浮かんでいることに、エリーシアを始めとした針子たちは皆気づいていた。
カルセドニアが、そんな幸福な羞恥に身を焼いていると、不意に部屋の扉がこんこんと叩かれた。
「大奥様。サヴァイヴ神殿より、ヤマガタ上級神官殿がおみえになられました」
「あら、タツミが? 何かあったのかしら?」
「はい、どうやら火急の要件のようです。クリソプレーズ司祭様に、大至急お会いしたいとのことですが」
いかが致しましょう、と続けた扉の向こうの使用人。
「そう。カルセの方はどう?」
「はい。作業は全て終了致しました」
エリーシアに問われた針子が、恭しく頭を下げなら答える。
その向こうでは、先程までどこか疲れたような顔をしていたカルセドニアが、急いで神官服を身に着けているところだった。
それまでとは打って変わり、カルセドニアは明らかに嬉しそうな表情を浮かべている。普段から一緒に暮らしているくせに辰巳に会えるのがそんなに嬉しいのかと内心で呆れつつ、エリーシアは辰巳をこの部屋に通すように使用人に告げた。
しばらく待つと、神官服姿の辰巳が部屋へと姿を現す。
辰巳の姿を見た瞬間、カルセドニアはその美しい容貌を花が咲いたように輝かせる。だが、辰巳が真剣な表情でいることに気づき、その顔を引き締めた。
「失礼します、エリーシアさん」
「いらっしゃい、タツミ。久しぶりね?」
「はい、ご無沙汰して申し訳ありません。今日は急用で……」
入室した辰巳は手短にエリーシアと挨拶を交わすと、真剣な表情でカルセドニアへと振り返った。
「カルセ。王宮の方で事故が起きたらしい。怪我人もいるとかで、ジュゼッペさんより大至急王宮へ向かうようにとのことだ」
事故が起きたと聞き、カルセドニアは驚きを浮かべる。だが、すぐに表情を引き締めると、承知しましたと辰巳に返答した。
「大奥様、申し訳ありませんが……」
「ええ、私も聞いていたわ。どうやら大きな事故のようね」
王宮では、騎士や兵士たちが訓練中に怪我を負うことはしょっちゅうである。
王宮には医師が常駐しているが、必ずしも治癒魔法が使えるというわけではない。
そのため、毎日各神殿から治癒魔法が使える神官が出向する。今日もサヴァイヴ神殿からではないが、治癒魔法の使い手が王宮には詰めているはずだ。
それなのに、他の治癒魔法の使い手を動員するということは、それだけ大きな事故ということなのだろう。
「すぐに馬車を手配します。少し待ちなさい」
「いえ、俺がカルセと一緒に跳んだ方が早いですから」
辰巳はエリーシアに一礼すると、傍まで来ていたカルセドニアを抱き寄せた。
そして、そのまま二人の姿が消える。
初めて辰巳の《瞬間転移》を目にしたエリーシアや針子たちは、思わず目を白黒させた。
「……これがタツミの《瞬間転移》……」
エリーシアが窓の外へと目を向ければ、空を舞っている人影が見えた。
その人影はしっかりと身を寄せ合い、エリーシアが僅かに瞬きをした間に再び消え去ってしまう。
「……確かに、馬車なんかより早いわね。私も王宮でどんな事故があったのか、確認しておきましょう」
エリーシアは王宮の事故について詳細を調べるように家人に命じる。
その後、部屋の隅に控えていた針子たちに、改めて笑顔を向けた。
「さあ、あなたたちには、これからがんばってもらいますよ? なにせ、新年祭はもうすぐなのですから」
耳元で風が唸りを上げて吹抜けていく。
一旦、王宮全体を見下ろせる上空へと跳んだ辰巳とカルセドニアは、真下の王宮へと落下しながらその様子を眺めていた。
唸りを上げる風に掻き消されないように、辰巳は腕の中のカルセドニアの耳元に口を寄せる。
「俺は王宮に行ったことがない。カルセは王宮には詳しいか?」
「はい。治癒の担当として王宮には何度も入ったことがあります。もちろん、重要な区画には入ったことはありませんが」
治癒役の神官は、用がなければ控え室で待機しているのが常である。そのため、カルセドニアも王宮に関する知識は極めて限られている。
「事故はどこで起きたのでしょう?」
「ジュゼッペさんは、騎乗槍の試合会場だと言っていたけど……」
上空から王宮のある大地へと落下しつつ、辰巳は王宮の各所へと視線を向ける。
だが、王宮に関して知識のない辰巳では、どこになにがあるのか分からない。それでも人が多く集まる場所を見つけたので、そちらへと目を向けながらカルセドニアに尋ねた。
「あそこに人が集まっている。あそこじゃないか?」
「はい、あそこが練兵場です。毎年、騎乗槍の試合は練兵場で行いますから間違いないでしょう」
猛スピードで落下しながら、二人は互いに頷き合う。
そして、辰巳は改めてカルセドニアを抱く腕に力を込めると、そのまま黄金に輝く魔力を解放した。
やはり事故は練兵場で起きていた。
間近に迫った新年祭。その祭りの催しの一つとして毎年開催されるのが、騎乗槍の試合である。
試合に出場できるのは王族か貴族、もしくは騎士の位にある者に限られるが、その華々しい試合は庶民にも人気がある。
毎年試合会場には王侯貴族だけではなく、数多くの庶民も詰めかけるのだ。
貴族たちにはしっかりとした閲覧席が用意されるのだが、庶民にはそんなものはない。
庶民は立ち見か、せいぜい丸太を数段組み上げた即席の客席で、試合を観戦することになる。
その即席の客席を組み上げている最中に、事故は起きたようだ。
組み上げ途中だった丸太が崩れ、丸太の上や近くで作業をしていた下級の兵士や人足たちが巻き込まれたのだ。
一口に丸太と言っても、一本一本がそれぞれかなり長く、重量もある。
数段の客席として組み上げている途中のため、高さもかなりあり、そこから落下して地面に叩きつけられ、身体の各所の骨を折った者もいる。
崩れた丸太の下敷きになっている者もいるし、丸太を組み上げるための資材で怪我をした者もいる。
騎士や兵士、そして王宮に詰めていた神官たちがそれぞれ救助活動を行っているが、てんでばらばらに動いているために現場は混乱しきっていた。
辰巳とカルセドニアが現場に到着したのは、まさにそんな時。
地上に転移した辰巳は飛び交う怒声と切迫した雰囲気に一瞬飲まれるも、カルセドニアの手を引いて現場の中へと踏み込んだ。
「サヴァイヴ神殿の者です! 救助の協力に来ました!」
「サヴァイヴ神殿のカルセドニア・クリソプレーズです! 直ちに怪我の治療に当たります!」
《聖女》という二つ名は、王宮の騎士や兵士たちの間でも有名である。
カルセドニアが治療の当番の時は、なぜか訓練中の負傷者が増えるという説まであるほどだ。
その《聖女》が助けに来たと知り、怪我を負っている兵士たちの間に安堵の空気が広がる。
そして、当然ながら彼女の元に、数多くの負傷者が押し寄せた。
「サヴァイヴ神殿のカルセドニア・クリソプレーズです! 直ちに怪我の治療に当たります!」
隣にいたカルセドニアがそう言った時、辰巳はぎょっとなって彼女の方へと振り向いた。
《聖女》として名高い彼女が治癒を施すと聞けば、怪我人ならば誰もがそれを求めるだろう。それは辰巳にも理解できる。
だが、彼女の魔力とて無限ではないのだ。
そして、この場には今まさに命を落とそうとしているほどの怪我人がいるかもしれない。
ならば、そのような怪我人を重点的に治療すべきだ。
「ま、待て、カルセ! それでは駄目──」
だが、辰巳の静止は遅かった。カルセドニアの存在に気づいた怪我人たちが、どんどんと辰巳たちの方へと押し寄せてきた。
辰巳は慌てて、カルセドニアと押し寄せる者たちとの間に立ち塞がる。
「待ってくださいっ!! 彼女の治癒魔法は怪我の酷い人から優先的に施すべきですっ!!」
カルセドニアへと押し寄せた怪我人たちが立ち止まる。そして、《聖女》との間に立ち塞がった見慣れない黒髪黒目の青年を、訝しげな目でじっと見つめた。
「何だ、貴様は? 見たところサヴァイヴ神の神官……それもただの上級神官のようだが……上級神官ごときが何の権利があって、《聖女》殿の治癒行為の邪魔をする?」
身に着けている神官服と聖印から、辰巳の身分を見定めた騎士らしき男性が一歩前へ進み出た。
どうやら腕に怪我を負っているらしく、だらりと下がった指先から血が滴り落ちている。
「貴様の指図は受けん。さあ、《聖女》殿。早く治癒の魔法をお願いしますぞ」
辰巳を押しのけるようにして、その騎士はカルセドニアの前に立った。
だが、カルセドニアは困ったような顔で辰巳と騎士の顔を見比べるばかりで、治癒魔法を使うような素振りは見せない。
彼女としては、治癒を行いたいものの辰巳の言葉に逆らうわけにもいかず、つい迷ってしまったのだ。
カルセドニアが治癒魔法を使わないことに騎士が首を傾げていると、再び辰巳が騎士とカルセドニアの間に割り込んだ。
「お待ちください! カルセ……じゃない、クリソプレーズ司祭の魔力とて有限です。怪我の酷い人を優先して治療すべきです!」
「だから、貴様の指図は受けんと言っている! 治癒なら近くにいる者から順に施していけば良かろう!」
騎士が怪我をしていない方の腕で辰巳を押し退けようとする。
だが、その腕は何もない空間を通りすぎ、その騎士は体勢を崩してたたらを踏む。辰巳が僅かに転移して、騎士の腕を回避したからだ。
「うおっ!? 貴様……っ!!」
辰巳の態度が気に入らなかったのか、それとも辰巳に避けられて腹が立ったのか。騎士は明らかな怒りの表情を浮かべた。
「この私を侮辱するつもりかっ!?」
腰に佩いた剣に手をかけ、今にも抜き放ちそうな気配を見せる騎士。
そして、辰巳に敵意を向けているのはその騎士だけではなかった。
カルセドニアの治癒魔法を求めて、この場に集まっている者全てが、治癒行為の邪魔をする──彼らの視点からはそう見える──辰巳を、多かれ少なかれ不満そうな顔で見つめている。
「あなたを侮辱するつもりなんてありません! ただ、先程も言った通り、彼女の魔力も無限ではないのです。ならば────」
「うるさいっ!! 貴様ごときの指図は受けんと何度言えば分かるっ!?」
ちゃりっという軽い金属音。遂にその騎士が剣を引き抜いた。
いや、引き抜こうとした。
「貴様ら、この緊急事態にここで何をしている?」
落ち着いた凄味を感じさせる男性の声が響いたのは、まさに騎士が剣を抜く直前だった。




