吟遊詩人の末路
「俺はあの吟遊詩人が、《聖女》の魔法でぶちのめされるのに銀貨30枚!」
「じゃあ、オレはジャドックにつまみ出されるに同じく30枚!」
「よっし! なら俺様は女将さんにこてんぱんにされて、店から放り出されるにどーんと銀貨80枚!」
魔獣狩りたちはひそひそと囁き合いながら、ある種の期待に満ちた目を件の吟遊詩人へと向けた。
と、そこへ。
「みんな、分かっていないわね」
「お、ミルイルか。どうだ? おまえも一丁乗らないか?」
「もちろんよ。元々私も乗せてもらうつもりでこっちに来たんだし。じゃあ、私はあの吟遊詩人がタツミに素っ裸にひん剥かれて店の外に放り出される、ってのに銀貨100枚ね」
腕を組み、自信に満ちた目で魔獣狩りたちを見回すミルイル。
「おいおい、ミルイル。本当にそんなのに賭けていいのか? あの温厚なタツミが、そんなことするとは思えないんだがなぁ」
「ええ、それでいいわ。でも、本当にみんな分かっていないのね」
ふふん、とミルイルは自信満々な笑みを浮かべる。
「こういう時、本当に怖いのはカルセじゃなくてタツミの方なのよ」
「……お断りします。あなたに名前を告げる必要を感じません」
「何をおっしゃいますか、美しい方よ。ここで私たちが出会ったのは、間違いなく宵月神グラヴァビのお導き。さあ、私と共に宵月神の導きに身を委ねましょう」
「私はサヴァイヴ様の神官ですから。グラヴァビ様の教えを蔑ろにするつもりはありませんが、彼の神の導きに従う謂れはありません」
全く取り合わないカルセドニアと、それにもめげず、笑顔を絶やすことなくカルセドニアに語りかけ続けるタランド。
不意にタランドが、不躾にもカルセドニアの手を取ろうと彼女の繊手に自分の手を伸ばす。
だが、彼がカルセドニアの手に触れる直前、灰褐色の逞しい腕がするりと横から滑り込んで来た。
「あらん、積極的なヒトね。アタシ、そういう積極的なヒトって嫌いじゃないわよん?」
ばちん、とジャドックが片目──というか、四つの内の一つ──を閉じる。
一瞬ぽかんとした表情を晒したタランドだったが、自分が手にしたものが何かを知り、まるで熱いものに触れたかのように慌てて手を引っ込める。
「さ、先程から失礼だな、君は! ここは私とこの美しい方が記念すべき出会いを果たした場だ。関係のない者は余所へ行ってもらおうか!」
「アラ、余所へ行くのはアナタの方じゃない? 公衆の面前で恥をかきたくはないでしょ? 早くここから立ち去った方が身のためよ」
にこにこと笑いながら、ジャドックがタランドを諌める。
だが、当のタランドはジャドックを無視することに決めると、再びカルセドニアへと向き直った。
「これまでに出会ったどのような美女よりも美しい貴女よ。貴女の美しさに一目で虜となってしまった哀れな私に、どうか貴女の美しさを称える歌を奏でることをお許しください」
「結構です」
「はははは。そう遠慮なさらずに。この王都で最も美しいと評判のサヴァイヴ神殿の《聖女》様も、貴女のその光り輝くような美しさの前ではただただ霞んでしまうでしょう」
脇に抱えたラライナを軽く爪弾きながら、タランドは歌うようにカルセドニアの美しさを褒め称える。
今、彼が比較に出した《聖女》こそが、目の前にいる女性だということに気づくこともなく。
そのため、周囲に席にいる魔獣狩りたちは沸き上がる笑いを堪えるのに必死だった。
さて、誰がどう動くのか。
賭けに参加した魔獣狩りたちは、興味津々で辰巳たちのテーブルを見つめた。
不意に、辰巳が席から立ち上がった。
カルセドニアが動くか、ジャドックが動くか、それとも女将であるエルが割り込んでくるのかと期待していた魔獣狩りたちは、辰巳が立ち上がったことで意外そうな表情を浮かべた。
「カルセ。ちょっと家まで行ってくる。すぐに戻るから、ここで待っていてくれ」
「はい、旦那様。お気をつけて」
カルセドニアも立ち上がると、辰巳に向かって深々と頭を下げた。
どうして、などと彼女は聞かない。辰巳がこの状況でわざわざ家に帰ると言い出した以上、何か考えがあるのだと信じている。
辰巳もまた、この場にカルセドニアを一人残すことに不安は感じていない。
何より彼女を信じているし、ここにはジャドックやミルイルやエルもいるし、顔馴染みの魔獣狩りたちもいる。いざとなれば彼らが手を差し伸べてくれるだろう。
辰巳はカルセドニアににこりと微笑むと、そのまま店の外へと飛び出して行った。
彼の背中を見送っていたカルセドニアも、そのまま何事もなかったかのように再び腰を下ろす。
もちろん、傍らにいる吟遊詩人のことなど目に入ってさえいない。
その吟遊詩人はと言えば、突然の辰巳の行動が理解できず、ぽかんとした表情を浮かべるばかり。
そしてそれは周囲の魔獣狩りたちも同様で、どうして辰巳がカルセドニアを残して帰ってしまったのか理解できずに首を傾げるばかり。
「女将さん。料理の注文、いいでしょうか?」
「はーい、もちろんですよ! 何をご注文されますか?」
「では、きしめんを二人分お願いします。すぐに旦那様も戻られますから」
「了解です。きしめん二人前ですねー」
エルは元気な声で応えると、そのままカウンターの奥の厨房に姿を消した。
「アラ、二人はまたきしめんなの? 本当にタツミちゃんもカルセちゃんもきしめんが好きねぇ」
「ええ、旦那様も女将さんのきしめんはお気に入りですから。今日もここへ来る途中、きしめんが食べたいって言っていましたし。もちろん、女将さんの他の料理もとっても美味しいですけど」
まだ呆気に取られたままの吟遊詩人を置いてけぼりにして、カルセドニアとジャドックは楽しそうに会話する。
と、ようやくタランドが我に返り、あたふたとカルセドニアに再び話しかけて来る。
「お、おお、美しき貴女はカルセというお名前なのですね? いや、実に良い名前です。美しき貴女に相応しい名前と言えるでしょう」
ぽろぽろぽろろんとラライナが静かな音を奏で、タランドの言葉を彩る。
彼の整った容姿と洗練された物腰、そしてこの音楽に彩られた話術ならば、普通の酒場の女給あたりならあっさりと引っかかるのかもしれない。
だが、そんな手管もカルセドニアには通じない。
彼女は完全なる無視を決め込むと、ただジャドックとだけにこやかに会話している。
「ただいまっ!!」
どれだけもせずに、辰巳が戻って来た。意外そうな顔をしたのはタランドだけで、店に居合わせた魔獣狩りたちは全く動じていない。
最近では彼らも辰巳の魔法については既に知っているので、短時間で店と家を往復したとしても不思議に思うことはないのだ。
だが、今日に限っては不思議そうな視線が辰巳に集まった。
いや、正確に言うならば、辰巳が手にしていた見たこともない物を、魔獣狩りたちはじっと見つめていたのだ。
「アラ、それって何なの、タツミちゃん? オネエさんに教えてくれない?」
やはり興味を引かれたジャドックが尋ねれば、辰巳はちょっと得意そうな顔でその物を構えて見せた。
「これは俺の故郷の楽器で、ギターって言うんだ」
そう。
辰巳が家に取りに戻ったもの。それは彼と一緒にこの世界へと召喚された、父親の形見とも言えるアコースティックギターだった。
「へえ、『ぎたー』ねぇ。それでそれで? どんな音がするの?」
「最近、あまりいじっていなかったから、少し音がずれているかもしれないけれど……」
辰巳は確かめるように弦を軽く爪弾く。
アコースティックギター独特の音色が、〔エルフの憩い亭〕の中に静かに響く。
当然ながら、ジャドックたちは初めて耳にする音色である。
どちらかと言うとこの国の楽器はラライナのように高くて硬質な音を奏でるものが多い。そのため、アコースティックギターの低くて柔らかな音色は、この国に暮らす人々の耳には新鮮だった。
「カルセ。この曲、覚えているか?」
辰巳は記憶にある曲を奏で始める。それはかつて日本で一緒に暮らしていた時、よく一緒に聞いていた有名な曲だった。
「はい、もちろんです」
カルセドニアは辰巳に柔らかく微笑むと、彼の演奏に合わせて歌い始めた。
アコースティックギターの低い音色と、カルセドニアの高音域の歌声が融和し、美しいメロディを紡いでいく。
今、辰巳が演奏しているような軽快なノリの音楽は、この国にはないものだ。
吟遊詩人たちが歌う歌は日本の歌謡曲のような歌ではなく、伝承などの物語に抑揚をつけ、楽器の演奏を合わせた「歌」というよりは「語り」に近いものである。
そのため、突然流れ始めた異質な音楽と歌に、この国の歌に慣れ親しんでいた店の従業員や魔獣狩りたちは、どうしても戸惑ってしまう。
だが、それも最初だけ。
軽快なノリの音楽は魔獣狩りたちの気質に合っていたようで、すぐにメロディに合わせて手拍子を打ち、足を踏み鳴らし始める。
と、そこへ横から新たな歌声が加わった。
皆が驚いて声の方を見れば、歌っているのはエルである。
日本で暮らしていたエルもまた、辰巳が演奏している曲を知っていたのだ。
辰巳の演奏とカルセドニアとエルの歌声。三つの音が一つに合わさり、音楽は更に完成度を高める。
カルセドニアとエルはどちらからともなく手と手を取り合うと、その場で即興のステップを踏み始めた。
辰巳の演奏に合わせ、歌いながらくるくると舞うように踊る二人のステップは、即興とは思えないほど息が合っており、それがまた場の盛り上がりを高めていく。
宮廷舞踊のような優雅さはないが、庶民に親しまれる陽気で軽快な踊り。そして、それを踊っているのが二人の美女となれば盛り上がらない方がおかしい。
歌詞は日本語で意味は分からず、奏でられるのは耳慣れない旋律。だが、〔エルフの憩い亭〕の中は完全に辰巳たちの音楽に支配されていた。
カルセドニアとエルの美しい歌声と陽気なステップに合わせて、客たちが、従業員たちが、そしてジャドックとミルイルが、一斉に手を打ち鳴らし足を踏み鳴らす。
やがて辰巳の演奏が終了し、店の中に静寂が戻って来る。だが、それも一瞬だけのこと。
次の瞬間には、店内は割れんばかりの歓声が木霊した。
皆は笑顔で辰巳の演奏を褒め、カルセドニアとエルの歌声を称えた。
「な……なんだ……そ、その楽器は……なんなんだ、今の歌は……こ、こんな音楽は聞いたことがない……いや、聞いたこともない……」
店内が熱狂する中、一人取り残されたタランド。
彼は始めて目の当たりにした異世界の音楽を前に、呆然とすることしかできないでいた。
タランドにしてみれば、今の演奏と歌は異質以外の何ものでもない。だが、聴衆たちに受け入れられたのは、間違いなくこの異質な音楽の方だ。
だが、ここでめげてしまうほど彼も柔ではなかった。
「あ、あはははは。お見事な歌声でした。本職の吟遊詩人である私も、今の貴女の歌には完敗です。いや、姿だけではなく、歌声まで本当にお美しい」
再びカルセドニアの横で跪き、胸に手を当てて優雅に頭を下げる。
「如何です? この後、その音楽を私にご指南願えませんでしょうか? もちろん、授業料はお支払い致します。そうですね、この宿屋に部屋を借りましょう。そこで二人だけでゆっくりとお話を……」
どうやら、まだカルセドニアを諦め切れないらしい。彼の異性にかける情熱は、ある意味大したものであるだろう。
店内の魔獣狩りたちがその熱意にだけは感心していると、再び辰巳が立ち上がった。
「いい加減にしてくれないか。彼女には……カルセにはあなたと付き合う気はないんだ。それぐらい分かっているだろう?」
「ふ、ふふふ、た、確かに君の演奏はなかなかだった。その『ぎたー』とか言う珍しい楽器の音色も悪くはない。だが、これは私とこの美しい方との問題だ。君がどこの誰かは知らないが、引っ込んでいたまえ。それとも、君もこの美しい方に熱を上げているのかい? だが、君のような凡庸な容姿の男では、この美しい方とは釣り合いが取れないだろう?」
タランドは自分の容姿を見せつけるように髪を掻き上げる。
確かに辰巳の見た目は平凡に過ぎない。そして、タランドはどう見ても美形に分類される容姿の持ち主である。
だが、そんなことは問題ではない。辰巳にとってカルセドニアは大切な女性だし、そしてカルセドニアにとっても辰巳は世界でただ一人だけの存在である。
そして、タランドは気づいていない。
カルセドニアを無理に口説こうとしているこの吟遊詩人に対して、いや、カルセドニアを口説いたという時点で、辰巳がかなり怒っていることに。
「……そろそろかしら?」
辰巳と吟遊詩人のやり取りを見守っていたミルイルは、頃合いとばかりにゆっくりと移動を始めた。
彼女が向かうのは、この店の出入り口。
出入り口に到達した彼女は、店の内と外を隔てている扉をそっと開いた。
「カルセ、エルさん、そしてミルイルや他の女性のみんな。ごめん。最初に謝っておく」
辰巳はそう言いながら、タランドにぽんと触れた。
同時に、彼らのやり取りをじっと見ていた者たちには、一瞬だけタランドの姿がぶれたように見える。
次の瞬間、全ての衣類が脱げ落ちた全裸のタランドが立っていた。
「………………は?」
自分の身に何が起こったのか、全く理解できないタランド。
そして、一斉に手で顔を覆って悲鳴を上げる女性陣。
辰巳は再びタランドに触れる。
今度は完全にタランドの姿が消え、気づいた時には彼は店の外にいた。
もちろん、全裸のまま。
途端、店の前を通りかかっていた人々から悲鳴が上がる。
突然道の真ん中に全裸の男が現れれば、誰だって悲鳴ぐらい上げるあろう。
自分に何が起こったのか理解できないタランドは、全裸の身体を隠すこともせずに右往左往するばかり。
そんな彼の頭上に、どさりと何かが落ちてきた。それは服や楽器といった彼の荷物たちだ。
ぽかんとしたままタランドが店の入り口を見れば、そこには数人の魔獣狩りたちが鋭い眼光を彼へと向けていた。
「女将さんからの伝言だ。今後一切、おまえのこの店への出入りを禁じる、だとよ」
「もしも女将さんの言いつけを破ってみろ? そん時は、俺たちが黙っちゃいないからな!」
「商売道具と自分の服を持って、とっとと失せやがれ!」
タランドの服を放り投げたのは、この店の常連たちの中のエルの信奉者たちだった。
彼らもまた、憧れの対象であるエルにこの吟遊詩人がしつこく絡んでいたことで、激しい怒りをその胸の内で燃え上がらせていたのだ。
もしも辰巳たちがこの店に来るのがもう少し遅ければ、タランドは辰巳ではなく彼らに店から放り出されていただろう。
辰巳の得体のしれない技に戦き、魔獣狩りたちの迫力に気圧されて、タランドは服や楽器を抱えると、素っ裸のまま悲鳴を上げて通りを駆けて行った。
ばたん、という音と共に店の扉が閉められる。
同時に、店の中に大爆笑が木霊した。
「よくやった、タツミ!」
「おう、俺もすっきりしたぜ! あの吟遊詩人、ちょっと図々しかったからな!」
「しかし、おまえも結構やることがキツいな。相手の得意な音楽で打撃を与えた直後にアレだもんなぁ」
「全くだ。今後は俺、おまえにだけは絶対逆らわないことにするわ」
「ははは、違いない。人前で裸に剥かれるのは勘弁だからな!」
「でも、女を裸にするのは大歓迎だ! いつでもやってくれ!」
常連の魔獣狩りたちは、笑いながら辰巳を小突き回す。
少々手荒い祝福に、辰巳は困ったような笑みを浮かべながらちらりと店の出入り口の方へと視線を向ければ、そこではミルイルが笑顔で右手の親指を立てていた。
同じように親指を立てて彼女に応えた後、辰巳はエルの方を見た。
「ありがとうございます、エルさん。それから、見苦しいものを見せてしまって済みません」
「いえいえ、私もあの吟遊詩人には困っていましたから気にしないでください。それに懐かしい曲だったので、つい私も歌っちゃいました」
ぺろっと舌を覗かせるエル。なんでも先程カルセドニアと一緒に歌った歌は、日本にいた時に友人たちとよくカラオケで歌っていた曲らしい。
「おい、タツミ! 他に曲はないのか? あったらもう一曲やってくれ!」
「あの曲……あれ、おまえの故郷の曲か? なかなかノリのいい曲で気に入ったぜ!」
「《聖女》と女将さんもまた一緒に歌ってくれよ!」
常連たちのリクエストに応え、辰巳とカルセドニア、エルは日本の歌を何曲か披露していく。
その日の〔エルフの憩い亭〕は、深夜まで陽気な音楽と喝采と歓声が響いていたという。
「……バカなオトコねぇ。だから恥をかく前にどこかへ行きなさいって忠告したのに……」
店の中が盛り上がりを見せる中、閉められた扉に向けてジャドックが詰まらなそうに呟いた。
とそこへ、ほくほくした顔のミルイルが戻ってくる。
「どうしたの? 随分と嬉しそうね?」
「うん! タツミのお陰で大儲けだわ!」
ミルイルは大量に銀貨の入った袋を、どさりと机の上に放り投げた。
「……ちょっと狡くない?」
「あら、勝手に賭を始めたのはあっち。私はそれに乗っかっただけよ?」
実を言えば、ミルイルは知っていたのだ。
過去に酒に酔った勢いでカルセドニアの尻を触り、その場で辰巳に裸に剥かれた男がいたことを。
その事件があったのはこの王都ではなく、彼らが魔獣を狩るために少し離れた狩り場まで行った時のこと。
途中でとある宿場町の宿屋に泊まった時、その酒場で酔ってカルセドニアの尻を触った男がいた。
それは宿場町の酒場ではよく見られる光景ではある。
酒に酔った客が女給や他の女性客の尻を触るなど、地方の宿場町では日常的なことと言ってもいい。
現代の日本と違ってセクハラの概念など全くない世界である。逆に、そのような客を上手く躱すことが女給の腕前とも言える。
だが、その時ばかりは相手が悪かった。よりにもよって、辰巳の目の前でカルセドニアの尻に触れてしまったのだから。
静かに怒り狂った辰巳は、その場でその男を全裸にし、今日と同じようにそのまま店の外に放り出した。
全裸で店の外へ放り出された男は、何が起きたのか全く理解できず、慌ててその場から逃げて行った。
何が起きたのか分からないのは居合わせた客たちも同じで、その日は誰も騒いだりせず、妙に静かな一夜となったと後に語り草になったほどである。
「ところで、アタシに口止め料は払ってもらえるんでしょうね?」
「もちろんよ。奢るから何でも好きなものを頼んでよ」
ミルイルは嬉しそうにじゃらりと銀貨の入った袋を鳴らした。
そんなミルイルに苦笑しながら、ジャドックは先程の吟遊詩人のことを思い出した。
「あのオトコ……かなり女を口説き慣れていたみたいだけど……それにしては、随分とちっちゃかったわねぇ。あれで女を悦ばせることができていたのかしら?」
辰巳に衣服を剥がされた吟遊詩人の姿を思い出し、ジャドックはうふふと意地の悪い笑みを浮かべた。
夜も更けて、家に帰り着いた辰巳とカルセドニア。
合い言葉を唱えて玄関の鍵を開け、家の中に入る。
今日は本当に楽しい一日だった。
変な吟遊詩人という嫌な存在はいたが、その後は〔エルフの憩い亭〕の顔馴染みたちや、エルやジャドック、ミルイルといった親しい者たちと共に強くはない酒を飲み、美味い料理を味わった。
そんな今日一日のことを思い出しながら、辰巳は家に入って背後にいるカルセドニアへと振り返る。
「カルセ。悪いけど灯りを────」
と、そこで辰巳の言葉は途切れた。
彼の唇を、柔らかい何かがそっと塞いだのだ。
そして、同時に鼻腔を擽る仄かな芳香。それはすっかり辰巳が慣れ親しんだ大切な女性の香りで。
辰巳の唇を塞いでいたものが離れる。暗闇の中でははっきりとは見えないが、今の彼の目の前には紅玉にも負けない宝石が二つ存在するだろう。
「旦那様……いえ、ご主人様。今日は私を守ってくださり、ありがとうございました」
「いや……俺は……」
大したことはしていない、と続けようとした辰巳の唇を、再び先程と同じ柔らかなものがふわりと塞ぐ。
しばらく、闇の中で互いの僅かな息遣いだけが小さく響く。
「……いいんです。私はご主人様がしてくださったことが凄く嬉しかったのですから」
闇に慣れた辰巳の目には、僅かだが艶やかに微笑むカルセドニアの顔が見えた。
「やっぱり、私のご主人様はとても素敵な方です」
カルセドニアは辰巳の身体を抱き締めると、その胸に甘えるように頬を擦り付けた。




