再びあの場所へ
準備は着々と進んでいく。
レバンティスの街を取り囲む城壁の上には、数多くの兵士や騎士が詰め、周囲に厳しい警戒の目を向けている。
騎士や兵士たちの手には、弓や弩。これからこの街に来るであろう敵には、剣や槍よりも飛び道具の方が有利なのだ。
兵士たちの中には、城壁の上に据え付けられた大型の弩に取り付き、その調子を確かめている者もいる。
「前回の飛竜戦の教訓を活かす時だ! あれから訓練したことを忘れるな!」
かつて、この街を襲った巨大な飛竜。あの時は飛竜のその機動力に大型の弩はほとんど役に立たなかったが、今回の敵は飛竜に比べて機動性も速度も劣る。しかも、飛竜戦で得た教訓を参考にみっちりと訓練を積み重ねてきたのだ。
城壁に詰める兵士たちの顔には、今度こそという意気込みが現れていた。
そして、準備をしているのは城壁ばかりではない。街中の兵士たちの屯所にも、予備の武器や医薬品がどんどん運び込まれている。
「お、おい、この剣や槍……全部ガルガードン領産の物じゃないか……?」
「ほ、本当だ。普段、俺たちが使っている物よりも余程上等なシロモノだよ」
屯所に積み上げられた武具を見て、そこに居合わせた兵士たちが目を白黒させる。
「……今からこっそりと自分の槍と交換したら駄目かな?」
「隊長に聞いてみたらどうだ?」
「そうだな……隊長! この槍、どさくさに紛れて自分の物にしちまってもいいですかね?」
「馬鹿野郎! そういうことは俺の知らないところでこっそりとやれ!」
その屯所の責任者の声に、居合わせた兵士たちから笑い声が上がり、来る戦いに対する緊張が程よく解けていく。
「まあ、冗談は置いておいて、この武器は遠慮なく使っていいと上から言われている。各自、好きな武器を選んで手に馴染ませておけ」
隊長の許しを得て、兵士たちは喜び勇んで武具の品定めを開始する。次の戦いはきっと厳しいものになるだろう。これだけ上質な武具を揃えるのだから、次の戦いがかなり厳しいものとなることは兵士たちにも容易に想像がつく。
だが、兵士たちの士気は徐々に高まっていく。新たなより良い武具を身に着けることで、その戦いに生き残れる可能性が広がったのだ。
そして、その厳しい戦いはもうすぐ始まろうとしていた。
新たに築かれた「橋」を越え、「ソレ」は悠々と新たな「住み処」へとやってきた。
それまで「ソレ」を縛り付けていた魔力による呪縛は、既に破壊されている。これからは、あの忌々しい人間に支配される前のように、自由気ままに「住み処」から湧き出る「食事」を啜ればいい。
どうやらこの新しい「住み処」は、一人の女に執着しているようだ。だが、これからは自分がこの「住み処」に適度な魔力を与えながら巧みに操り、様々な女を味合わせて更に上質な「食事」を湧き上がらせるのだ。
新たな「住み処」に腰を落ち着けた「ソレ」。まるでそこが玉座だとでも主張するかのように、どっかりとその場に腰を据える。
そして、これからのことを思い描いて、独り悦に入る。
だが、「ソレ」が玉座の座り心地を堪能できたのは、ごく僅かな時間でしかなかった。
なぜなら。
なぜなら、「ソレ」の周囲から突然、黄金の光が吹き出したのだから。
周囲を埋め尽くす黄金の光。それは魔力の輝きであり、同時に「ソレ」にとっては毒だった。
触れるだけで「ソレ」を浄化消滅させる、極めつけの猛毒。当然、「ソレ」は猛毒である黄金の光から逃げようとする。
黄金の光がまるで意思を持つかのように、「ソレ」を捕えるべく周囲を包囲していく。「ソレ」は必死に光から逃れようとするが、光はどんどんその包囲網を狭くして「ソレ」に近づいていく。
黄金の光に炙られるだけで、「ソレ」の身体は溶けるように消滅する。
自分自身が消えることに恐怖して、「ソレ」は声ではない声で悲鳴を上げた。
強い恐怖に支配された「ソレ」は、まだ気づいていない。
自分を包囲する黄金の光の中に、一本の細い「黒い糸」が紛れ込んでいることに。
黄金の光の中に隠された黒い糸。黄金の光に紛れて「ソレ」へと近づいた黒い糸は、ゆっくりと「ソレ」の中へと潜り込み、「ソレ」の心を徐々に縛り付けていく。
ようやく黒い糸の存在に気づいた「ソレ」。黒い糸によって自らの心がじわじわと縛られていく感覚に、「ソレ」は更なる恐怖に震え上がる。その感覚は、「ソレ」が一人の人間に捕らわれ、使役されていた時と同じものだったからだ。
黄金の光に自身を炙られ、黒い糸に心を縛られられながらも、「ソレ」は必死に逃げ道を探す。そして、周囲を取り囲む黄金の光の中に、細い細い抜け道のようなものがあることにようやく気づいた。
黄金の光から何とか逃れつつ、慌ててその抜け道に飛び込む「ソレ」。抜け道に飛び込んだ「ソレ」の退路を塞ぐように、黄金の光が更に湧き上がる。
退路を断たれ、前に進むしかない「ソレ」だが、猛毒である黄金の光に恐怖し、そして既に心の大半を黒い糸で縛られた「ソレ」は、退路が断たれていることさえ気づかずにひたすら抜け道を進んでいく。
そして、「ソレ」が気づいた時にはもう遅かった。
いつの間にか、「ソレ」は自ら牢獄に足を踏み入れていたのだ。
その時、「ソレ」は聞こえたような気がした。
──俺には複数の女性なんて必要ない。俺に必要なのは、この世界で……いや、全ての世界を合わせてもたった一人だけだから。
という声を。
部屋とキッチンを隔てる引き戸が引き開けられ、その気配が辰巳を覚醒させた。
ゆっくりと首を巡らし、辰巳は部屋の方へと視線を向ける。そこには、片手で患部を押さえてややふらつきを見せてはいるものの、ティーナが確かに立っていて辰巳に向けてにっこりと微笑んでいた。
「どうやら、上手くいったみたいだね」
そう言いつつ、ティーナは辰巳へと近づくとずいっと顔を近づけて辰巳の黒い瞳を覗き込む。
「ふむ……〈魔〉に憑かれた兆候はなし、か。いやいや、まずはさすがと言っておこうか」
そう言いながら彼女が指差したのは、無意識のうちに辰巳が手にしていた封入石だ。
その封入石は、彼の手の中で僅かながらも光を放っている。だが、その光はどこか黒々とした何かを思わせる、禍々しさを帯びた光だった。
以前の封入石は澄んだ薄紅色をしていたが、今では僅かに黒ずんだ色へと変化している。
「…………この中に……〈魔〉が……?」
辰巳が封入石へと意識を向ければ、確かにそこに〈魔〉の存在が感じられる。しかも、その〈魔〉からは大した量ではないものの、間違いなく魔力が辰巳の中へと流れ込んでいた。
「どうかな? 支配した〈魔〉との間にリンクはあるかい?」
呆然としながら聞くティーナの言葉に、辰巳は無意識ながらもこくりと頷く。
「だが、注意したまえ。いくら〈魔〉から魔力を得られるとはいえ、一度に多量の魔力を吸い上げれば、折角支配した〈魔〉が消滅してしまうからね」
実体を持たない〈魔〉にとって、魔力こそが本体とも言える。そのため、必要以上に辰巳が魔力を吸い上げてしまうと、〈魔〉自体が消滅してしまうのだ。
実際に〈魔〉との繋がりを得た辰巳には、それが理解できる。仮に今支配している〈魔〉を失ってしまえば、再び別の〈魔〉を支配できる自信は辰巳にはない。それぐらいぎりぎりの綱渡り状態で、辰巳は〈魔〉の支配に成功したのである。
「分かりました。確かに、もう一度やれと言われても成功する自信はありませんから」
ようやく、辰巳の顔に笑みが戻る。その笑みを見てティーナも安心したのか、満足そうに何度も頷いていた。
「こちらも君に頼まれたことは仕上がったよ。約束通り、しっかりと二日で仕上げたからね。ほら、遠慮なく褒め称えてくれたまえ」
自慢気に告げるティーナ。だが、目元には明らかに隈があり、相当無理をしていることは間違いあるまい。
「……そうか……もう、二日経っていたのか……」
いつの間にか二日も経過していると知った途端、空腹を覚える辰巳。
しかし、それを無視して辰巳は立ち上る。魔力が戻った以上、カルセドニアが待つ世界へと行けるかどうか、早速試してみなければならない。
だが、無意識とはいえ二日も椅子に座りっぱなしだった彼の身体は、思ったようには動いてはくれず、思わず床に倒れ込みそうになる。
「無理は禁物だよ、辰巳くん。いくら魔力を得たとはいえ、ここで無理をしては意味がない。まずは少し身体を休めたまえ。その間に、ボクが食事の用意をしようじゃないか」
そう言いつつ、ゆっくりとキッチンへと向かうティーナ。彼女に料理ができるとは思っていなかった辰巳は、思わず感心して彼女の背中を見送る。
だが、それもほんの一瞬のできごとだった。
キッチンに立ったティーナが薬缶に水を入れ、ガスコンロの上にどんと置く。そして、彼女が徐ろに戸棚から取り出したのは、辰巳が買い置きしておいたカップ麺。
結局、ティーナはどこまでいってもティーナでしかないようだった。
ティーナが準備したカップ麺を平らげ、そして数時間の仮眠を取った辰巳は、改めてティーナが手を加えたそれを手にした。
それから感じられる確かな魔力。間違いなく、ティーナは辰巳の注文した通りのものを用意してくれた。
「……部屋の中じゃ振り回すわけにもいきませんが……それでも、俺の期待通りに仕上がっているのは分かりますよ」
「そう言ってもらえて嬉しいね。がんばった甲斐があったというものだ」
そう答えるティーナは、再び布団の上で横になっていた。
まだ傷も癒えていない状態で、辰巳の依頼に応えるためにかなり無理を重ねた結果である。
「勝算はあるのかい? 彼女は……樹美くんは強いよ?」
「あいつが強いのは実際に戦った俺が一番よく理解しています。確かにあいつは俺よりも強い……でも、このまま引き下がるわけにはいきません」
それに考えがまるでないわけでもありませんから、と続けた辰巳は、自信を感じさせる顔つきでティーナを見下ろした。
「そうか……なら、行きたまえ。もう、今の君なら彼女の元へと問題なく跳べるだろう」
「はい。ティーナさんはこのままここで休んでいてください。カップ麺は大量に買い込んでおきましたし、すぐにカルセを連れて戻ってきます。カルセならこのぐらいの怪我、すぐに治してくれますよ」
「ああ、期待して待つことにしよう」
互いに微笑み合う、辰巳とティーナ。そして、静かに立ち上がった辰巳の身体を、黄金の光を包み込む。
今、彼の心の中にははっきりと一人の女性の姿が描かれていた。白金色の長い髪をそよと揺らしながら、彼に向かって優しく微笑む女性の姿が。
彼女のことをより強く思うほど、黄金の光もまたどんどん強くなっていく、そして一際激しく弾けるように輝いた時、辰巳の姿は部屋の中から、いや、この世界から消え去っていた。
「……今の彼なら、樹美くんにおいそれとは負けることはないだろう。となると、ボクも彼に負けていられないね……でも、今は少しだけ休ませてもらうとしようか」
大きく息を吐き出した後、ティーナはゆっくりと目蓋を閉じた。
そしてそのまま、彼女の意識はゆっくりと闇へと落ちていく。一時の休息を得るために。
辰巳は再び目を開けた時、その眼前には見慣れた光景が広がっていた。
「ここは……俺の……俺たちの家……」
ゆっくりと周囲を見回す辰巳。そこは間違いなく、彼とその妻であるカルセドニアが一緒に暮らす家だ。
この世界で最も長く、そして楽しい時を過ごしたこの場所は、彼がこの世界に帰還するに一番相応しい場所と言えるだろう。
「俺は……俺は……帰って来たんだ……っ!!」
辰巳は思わず拳を天井に向かって突き上げる。
だが、それ以上の感慨に浸っている時間はなかった。家の外から喧騒が、彼の耳にも届いていたからだ。
慌てて家から飛び出す辰巳。そして、彼はそこに見る。
レバンティスの街の上を、十体近い数の軍竜が飛び交っているその光景を。




