望まぬ帰郷
※今回、ローカルネタが多いです。無視しても全く問題ありませんので、適当に読み飛ばしてください(笑)。
目の前に広がるのは、現代の日本の景色。決して都会とは言えないが田舎と呼ぶほどでもない、おそらく今の日本では最もよく見かけられる光景だろう。
愛知県瀬戸市。辰巳が生まれ育ち、異世界に召喚されるまで住んでいた町。
古くより焼き物の町として知られ、最近では名古屋から電車で一時間未満という条件から、ベッドタウンとしても発展してきた町である。
ちなみに、焼き物の総称として「瀬戸物」という言葉があるが、それは「瀬戸で焼かれた焼き物」が語源である。
その町を、辰巳は呆然と眺める。望まずして帰郷を果たした辰巳には、目の前に広がる町並みをただただ眺めることしかできない。
どれぐらいそうしていただろう。辰巳は、アパートの外の通りを歩いていた人が、不審そうに自分を見上げていることに気づいた。
彼が住んでいたこのアパートは三階建てで、辰巳の部屋は二階にある。そのため、ベランダに出るとそのすぐ目の前を通っている道路が望めるのだが、偶然そこを通りかかった犬を連れた散歩中らしき年配の人が、不思議そうに自分を見上げているのだ。
この時になって、ようやく辰巳は自分の姿に気がついた。
もう一人の自分──タツミとの戦いで、彼が着ていた神官服はぼろぼろになってしまっている。更には無視できない程の血の汚れなどもあり、今の彼は「ぼろぼろで血が付いた、見慣れない服を着た不審者」そのものである。
辰巳は慌てて部屋の中に飛び込むと、ベランダの戸とカーテンを閉める。そして、改めて部屋の中を見回した。
住人が突然いなくなって久しい部屋の中は、埃が大量に積っている。掃除などする者もいないので、それは当然だろう。
部屋の中を眺めていると、日本に帰ってきてしまった実感が否が応うにも増してしまう。同時、辰巳の心の中に焦りと苛立ちが湧き上がる。
タツミとの戦いの後、カルセドニアはどうなっただろうか。
無事でいるのか。それとも、既にもう一人の自分によって──
嫌な考えがどんどん浮かび、辰巳は頭を振ってそれを振り払う。カルセドニアの周囲には、ジュゼッペや義兄たちなど頼りになる人たちがたくさんいる。仮令自分がいなくなっても、あの人たちがむざむざカルセドニアを危険に晒したままでいるはずがない。
辰巳は大きく息を吸い込み、そして吐き出す。
窮地に陥った時ほど冷静になれ。それはジュゼッペを始めとした、あの世界で出会った人たちから叩き込まれたことである。
オージンや先輩の神官戦士たち、〔エルフの憩い亭〕に集まる常連の魔獣狩りたち。辰巳は彼らから様々なことを学んだのだ。彼らの教えを無駄にしないためにも、ここで焦りや苛立ちで無様な姿を晒すわけにはいかない。
「窮地に陥った時、そう簡単に冷静になれたら世話はない。だが、その時は虚勢でもいいから冷静な振りをしろ。そして、自分が置かれた状況をよくよく見直せ。そうしているうちに意外と心は少しずつ落ち着いてくるものだし、それまで見えていなかったものも見えるようになるだろうよ」
それは、まだ神官戦士の見習いだった頃、教官のオージンが辰巳やバースたちに向けて語った言葉だ。
「自分の置かれた状況……か」
そう呟きながら、辰巳はもう一度埃の積もった部屋の中をゆっくりと見回してみる。
「……そういや、この部屋の契約とかどうなっているんだろう……」
かつてここに住んでいた時の家具が置いてあることから、別の人間が住んでいるというわけではなさそうだ。
「……契約はそのままってことか……じゃあ……ガスや電気、水道なんかは……」
埃が舞い上がらないように注意しながら、辰巳はライフラインを確認する。その結果、電気やガス、そして水道もそのまま使用できることが分かった。もっとも、水道だけは最初のうちは変な色の水が出たが。
おそらく、自分が異世界へと召喚されたことを知らない叔母は、それまで通りに生活費を口座に振り込み続けていたのだろう。そもそも辰巳が異世界に召喚された、など夢にも思わないだろうから、叔母が生活費を振り込み続けていたのも当然と言える。
家賃や光熱費は指定の口座から引き落とされるため、辰巳がいなくなった後も継続して各費用は支払われていたらしい。
「ははは、叔母さんの無関心さに助けられたってわけだな」
相変わらず自分に無関心な叔母に、辰巳は初めてちょっとだけ感謝した。
とりあえず、辰巳はまず着替えをする。
箪笥より長袖Tシャツとジーンズを取り出し、それを身に着ける。
「うわ……サイズがちょっと小さい……」
異世界にいた間に、辰巳の身体はかなり成長している。そのため、以前の服ではちょっと小さいのだ。
それでも着られないということはなく、多少着心地は悪いものの我慢して久しぶりにこちらの衣服に袖を通す。
ついで、下着もこちらの物と取り替えておく。やっぱりこっちの下着の方が着心地が良く、それが辰巳を落ち着かせることに一役買うことになった。
「さて、これからどうするか……」
もちろん、辰巳はカルセドニアが待つ異世界へ戻るつもりだ。だが、そのための方法がまるで分からないというのが現状である。
確認してみたが、やはり辰巳の体内に魔力は全くない。タツミによって負わされた怪我の方は、《自己治癒》によってほぼ回復しているが、その回復に残されていた魔力を全て消費してしまったのだろう。
そして当然ながらこちらには魔力──外素がないため、辰巳が魔力を回復させることもできない。
一刻も早くカルセドニアの元に戻りたい。だが、そのための方法がない。じりじりと湧き上がる焦りと苛立ちを、辰巳は強引に心の奥底に押し込もうと努力する。
──こんな時、俺以外ならどうするだろう? 例えばチーコだったら? バースやニーズたちなら? ジャドックやミルイルなら? そして、エルさんだったら……
その人物に思い至った瞬間、辰巳の脳裏を閃光が走り抜けた。
「そ、そうだ! 今の日本にはエルさんがいるかもしれないじゃないか!」
この日本にもいるかもしれない異世界人のことに思い至り、辰巳は慌てて携帯電話のアドレスを確認する。
以前、エルとはアドレスを交換したことがある。その時、電話番号やメールアドレス以外に日本に住んでいた時の住所も教え合い、互いにそれを携帯に登録しておいたのだ。その時は単なる気分だけだと思っていたが、まさか役に立つ日がくるとは思いもしなかった。
「日進市……折戸町……?」
携帯電話に登録されていた、エルの住所。それはおそらくエルが日本を発つ直前の住所であり、今現在もその住所に住んでいるのかは分からない。いや、もしかすると、この日本にはエルはいない可能性もある。
それでも、エルの存在は今の辰巳には唯一の光と言ってもいい。急いでパソコンを立ち上げた辰巳は、まずは日進市のホームページにアクセスした。
以前エルから聞いた話によると、彼女は日進市の市長の依頼でネットアイドルのような仕事をしていたらしい。
異世界よりたまたま日進市に立ち寄ったエルフの少女。そして日進市を気に入った彼女は、そのまましばらく日進市で暮らすことにした。
そんな設定の上で、エルは「日進市のエルフさん」というキャラクターをホームページ上で演じていたとのこと。
日進市のホームページを覗いてみれば、確かに「日進市のエルフさん」というコーナーがある。そこには、日進市の各地で撮影されたエルの写真が掲載されていた。
「……こっちにもやっぱりエルさんはいたんだ……」
画面上でにっこりと微笑むエルの写真を見ながら、辰巳は安堵の溜め息を吐く。
そして辰巳は、次に折戸町までの道のりをネットで調べる。
瀬戸─日進間を結ぶ直通の交通機関は存在しない。そのため、交通機関を利用して日進市に行くには、まず名古屋を経由する必要がある。その所要時間は一時間半から二時間。だが、車で直接行けば三十分ほどしかかからない。
さすがに、自家用車も免許も持っていない辰巳。タクシーを使うことも一瞬考えたが、未成年者が一人でタクシーを使えば不審に思われるかもしれない。となると、彼が取ることが可能な移動手段は自転車一択である。
「そういえば、今は何月なんだ……?」
辰巳がカルセドニアによって召喚されたのが十七歳──二度目の高校一年生──の春だった。そして、カルセドニアに呼ばれたあの世界で、現地の時間で一年半以上を過ごしていた。
しかし、異世界と日本とで時間経過が一致するという保証はどこにもない。もしかすると、異世界と日本とでは、時間の経過に大きな隔たりがあるかもしれない。
辰巳はネットで表示した地図をそのままに、パソコンのカレンダー機能を立ち上げる。その結果、今が辰巳が日本にいた年から一年後の六月初旬であり、今日は平日であることが判明した。
つまり、辰巳が日本を離れていた期間は約一年。異世界との間に、半年ほどの差があることになる。
現在の日にちを確認した辰巳は、日進市までの道程をメモしてそれをポケットに突っ込む。机の上に放り出したままの財布を取り上げ、軽く埃を払ってから同じくポケットに。
そして、部屋と自転車の鍵を握り締め、辰巳は急いでアパートの駐輪場へと向かった。
この時、辰巳は気づいていなかった。
彼の部屋の前に張られた電線の上から、じっと彼の部屋を見つめていた一羽の雀がいたことを。そして、その雀の小さな目が、赤く染まっていることに。
部屋同様に埃の積った自転車を駐輪場より引っ張りだし、辰巳はそのまま走り出す。
一年以上使っていなかった自転車。当然タイヤからは空気が抜けていたので、タイヤの空気だけを補充して自転車を必死に漕ぐ。
水無瀬町の交差点脇に存在する辰巳のアパートから、街路を経て県道57号線に出る。そのまま57号線を菱野町を越えて矢田川を渡り、長久手市方面に向かって走る。山の田の交差点を越えて大草の交差点に到達したところで、県道233号線へと入る。
そして道なりに日進市方面へ。途中、愛知県立芸術大学の近くでリニモの高架を潜り、岩藤の交差点を目指す。
東名高速道路の下を走り抜け、岩藤の交差点で今度は県道217号線に変更、岩崎城を右手に見ながら白山の交差点で再び57号に合流。
あとは道なりに折戸町まで行けばいい。
浅間下から折戸寺脇、そして名鉄豊田線の日進駅の横を通り過ぎれば、目的地である折戸町はもうすぐである。
辰巳の部屋からここまで、距離にして15キロ弱。時間にして一時間ちょっと。
さすがに体力的に疲労を感じた辰巳は、日進駅前のコンビニに立ち寄る。その際、店員にエルが住んでいるであろう折戸町について尋ね、その町名が確かにこの先にあることを確認した。
日進駅の周囲には、十階を越えるマンションがたくさん並んでいる。そんなマンションに囲まれた駅前のロータリーのベンチに腰を下ろし、コンビニで買った飲み物とパンを胃へと収めていく。
空はどんよりとした曇り空。最後に見たレバンティスの空も、同じ色をしていたことを辰巳は思い出す。
だが、レバンティスのような寒さはまるでない。それどころか、ここまで必死に自転車を漕いできたため、辰巳の全身には汗が浮かんでいる。
梅雨に入る直前の、湿気を多分に孕んだ蒸し暑い日本の空気。本来なら馴染んでいるはずの六月の空気よりも、レバンティスの刺すような寒さの方が恋しく思える。
そして、同時に思い浮かべるのは、彼の最愛の白金色の髪の女性のこと。
彼女のことを考えると、どうしても不安が込み上げてくる。その不安から、辰巳はいつの間にか手にしたペットボトルを力一杯握り締めていた。
ペットボトルから溢れた飲み物が彼の手を汚し、それが原因で辰巳は我に返る。
「しまった……ハンカチ持ってくるの忘れた……」
慌てて飛び出してきたため、彼が所持しているのは財布と携帯電話だけ。溜め息を吐き出した辰巳は、駅のトイレで手を洗おうとしてベンチから立ち上がる。
駅の入り口へと足を向けると、丁度電車が入ってきたところなのか、駅から利用客が出てくる。平日の夕方前とあって、利用客はそれほど多くはない。そんなまばらな人波を逆行しながら駅へと向かう辰巳の視界に、見覚えのある人物が入り込んできたのはその時だった。
午後の講義を終えた彼──萩野隆は、日進駅を出たところでどんよりと曇った空を見上げて溜め息を吐き出した。
「最近、曇り空ばっかりだな。もうすぐ本格的な梅雨入りかねぇ?」
濃い色合いの茶色の髪と、一八〇センチを越える長身、そして爽やかな印象の十分美形と呼べる容姿は、周りの異性の視線を嫌でも引きつける。現に、空を見上げて物憂げな表情の彼を、周囲にいた買い物途中の主婦がうっとりと見蕩れている。
「確かに、例年ならそろそろよね。そして、梅雨が明けた途端に猛烈に暑くなって、蝉が煩いぐらいに鳴き出すのよ」
隆同様に空を見上げる一人の女性。彼女もまた、これからくる不快な季節を思ってげんなりとした表情を浮かべた。
彼女の名前は木村あおい。隣の隆とは恋人同士の間柄である。
背中の中ほどまで伸ばした少し癖のある明るい色合いの茶髪と、ちょっと吊り目ぎみの黒い瞳。活発な印象を与える美しい女性であり、美形の隆と並ぶとまるで芸能人でも見ているかのようだ。
実際、彼らは大学でもそれなりに有名な美形同士の恋人として知られていたりする。
二人は見上げていた空から地上へと視線を戻し、どちらからともなく歩き出す。
「これからどうする? バイトまで少し時間があるけど……?」
「そうねぇ……今日は康貴も兄貴の店でバイトだったから……顔でも出してみる?」
あおいの提案に笑顔で頷いた隆は、駅前のビルにある彼女の兄が経営する喫茶店へと向かう。
そして彼らが歩き出した時、不意に背後から名前を呼ばれた。
「あ、あの……っ!! 萩野隆さんと木村あおいさん……ですよねっ!?」
名前を呼ばれて振り向いた二人の先には、彼らよりも少し年下と覚しき少年が、焦ったような表情を浮かべて立っていた。




