残された者
その光景を、彼女は呆然と眺めることしかできなかった。
振り下ろされる鋼の剣。飛び散る血飛沫。鍛錬場の床に倒れ込む青年。
そして、剣を振り下ろした人物が倒れた人物へと手を翳すと、鍛錬場の床を自らの血で汚していた青年の姿が消えた。
呆然とする彼女の目の前で、彼女の最愛の青年の姿が掻き消すように消えてしまったのだ。
「………………え?」
真紅の目を大きく見開き、彼女は周囲をきょろきょろと見回す。
「………………あれ?」
彼女はきょとんとした表情を浮かべる。目の前でおきたことを、彼女は理解できない。
いや、理解したくないの間違いだ。
青年が消えた場所には、その名残の小さな血溜まりが床を汚している。しかし、彼女の最愛の青年の姿だけはどこにもない。
この場にいるのは彼女と、それ以外は額に手を当て、天を仰いで哄笑している人物のみ。
「……………………い」
彼女の桜色の唇から、ぽろりと小さな言葉が零れ落ちる。
そして、それを切っ掛けに彼女の口から魂さけ削り取られるような悲痛な叫び声が迸った。
「いやあああああああああああああああああああああああああああああああああああっ!!」
慌てて立ち上がった彼女は、彼の痕跡が残る場所へと駆け寄り、血溜まりにばしゃりと手を着く。跳ね飛んだ血が彼女の白い顔を汚すが、そんなことに彼女は頓着しない。
「ご、ご主人様…………ご主人様っ!! ど、どこっ!? どこにいるのっ!?」
残された彼の名残を求めて、彼女は地面に手を着いたまま必死に周囲を見回す。しかし、当然ながら彼女が探し求める姿はない。
「ご主人様……ご主人様……ご主人様……ご主人様……っ!!」
錯乱したかのように、彼女は何度も何度もその名を呼び、怯えたような目で周囲を見回す。
親から逸れた迷子のように。後を追うべき親鳥を見失った雛鳥のように。
だが、同時に彼女は頭の片隅で何となく理解していたのだ。彼が……彼女の最愛の青年が、ただ単にこの場からいなくなっただけではなく、もう彼女と同じ世界にはいないことに。
まるで幼子のように、流れ落ちる涙を隠すことなくカルセドニアは泣く。
舞い落ちる雪が彼女の身体にうっすらと層を成すまで、彼女はその場から動くことなく声の限りに慟哭する。
その人物はそんな彼女に無遠慮に近づくと、冷えきった彼女の身体を背後からそっと抱き締めた。
「大丈夫だよ、チーコ。これからはオレがいる。オレがいつまでも一緒にいる。だから前のように……オレと一緒に暮らそう?」
カルセドニアの耳元で優しく囁くのは、もちろんタツミである。
タツミの言葉がカルセドニアの鼓膜に届くと同時に、それまでの慟哭がぴたりと止まる。
「私に触らないでっ!!」
弾かれるように立ち上がり、カルセドニアはタツミから距離を取る。そして、涙に濡れる顔に怒りを浮かべつつ素早く呪文を詠唱し、タツミに向かって紫電を放った。
放たれた紫電が空気と舞い散る雪を切り裂き、タツミへと襲いかかる。だが、タツミは《瞬間転移》でそれを回避、そのまま再び彼女の背後へと現れた。
「ははは、いきなり何をするんだ? ようやく以前のようにまた二人で暮らせるというのに?」
首を傾げながらも、タツミは笑みを浮かべている。その仕草は、突然カルセドニアから攻撃されたことが、全く理解できないと言いたげだ。
じゃり、と鍛錬場の床を踏み締め、辰巳はゆっくりとカルセドニアへと近づく。
「ち、近寄らないでっ!!」
カルセドニアは立て続けに《雷撃》を放つが、それらは全てタツミに回避されてしまう。
「元気だな、チーコは。オレとしちゃそれぐらい元気があった方が嬉しいけど、いつまでも電撃放たれるわけにもいかないしな」
タツミが掌に意識を集中させると、そこにとあるものが現れる。それを見たカルセドニアは驚きに目を見開き、思わず攻撃を中断させてしまう。
「……魔封じの……腕輪……? そ、そんなものをどこから……」
「ああ、城らしき場所のとある部屋にいくつかあったから、適当にかっぱらってきた。悪いけど、ちょっと大人しくしてもらうぜ」
タツミの掌から魔封じの腕輪が消え、消えた腕輪はカルセドニアの右手に現れた。
魔封じの腕輪は、その名前の通りに装着者の魔法を封じる力を持つ魔封具であり、主に犯罪を犯した魔法使いの魔法を封じるために用いられる。
おそらく、タツミの言う魔封じの腕輪がたくさんあった部屋とは、王城のどこかだろう。罪人となった魔法使いに用いるため、王城にはこの腕輪がある程度揃えてあるのだ。転移を使えるタツミには、どのような場所だろうが忍び込めない場所はない。
そして、この腕輪を外すには専用の鍵が必要となる。その鍵は見た目こそ普通の鍵だが、実際は鍵に秘められた魔力によって腕輪は解除されるのだ。そのため、辰巳たちのような転移の使い手でもない限り、装着した魔封じの腕輪を鍵なしで外すことはまず不可能だろう。
「これでもうチーコは魔法を使えない。つまり、あいつを再び召喚することもできないわけだ。もともとあいつの召喚には年単位の準備が必要だっただろうけど、これでもうそんな無駄なことはしなくて済むな!」
にこやかに。そして爽やかにタツミは告げる。そしてそれは、カルセドニアにとっては最後の希望とも言える手段を封じられたことの宣言でもあった。
「さて、邪魔者はいなくなったし……オレが出した条件、覚えているか?」
タツミがそう言いつつ振り向けば、そこにはジュゼッペの姿があった。ジュゼッペもまた、辰巳が消え去る瞬間を見ていたようだ。
それが原因だからだろうか、いつもの好々爺の雰囲気はまるでなく、厳しい表情を浮かべたままジュゼッペはタツミをじっと見つめている。
お互いに無言で見つめ合うタツミとジュゼッペ。どれくらいそうしていただろうか。ふぅと大きな息を吐き出したジュゼッペは、力なく首を横に振った。
「いいじゃろう。貴様の出した条件、受け入れよう」
「お祖父様っ!!」
「済まん、カルセよ。今は他に方法はないんじゃ。お主の気持ちは痛いほど分かるが、ここは飲み込んでくれ」
目を閉じ、深々と頭を下げながら、ジュゼッペはカルセドニアにそう告げた。
現在も、王都の外周を軍竜たちはゆっくりと移動している。そしてタツミの命令次第で、魔獣たちは一斉に王都へと牙を向くだろう。
そうなればどれだけの被害が出るのか。カルセドニアにももちろん理解できる。それが理解できるからこそ、彼女は何も言えずにただ下を向き、ぎゅっと拳を握り締めるしかない。
「そうそう。この爺さんもこう言っていることだし、これからはオレと暮らそうぜ」
そう言うタツミは、にこにことこれ以上ないほどに上機嫌そうだ。
「すぐに馬車を用意させる。貴様はしばし、ここで待て」
「ああ、いいぜ。これからはチーコと一緒に暮らせるんだ。それを考えれば、少し待つぐらいどうってことはないさ」
上機嫌なタツミは、ジュゼッペの言葉をあっさりと受け入れる。
予想以上にあっさりと自分の言葉に従ったタツミを訝しく思いながらも、ジュゼッペは無言で地面を見つめているカルセドニアに近づき、優しくその肩に手を乗せる。
「今は辛抱せい。婿殿は……お主のタツミは、絶対にお主の元に帰ってくる。お主は自分の夫が信じられぬか?」
耳元で小さく囁かれた言葉。それに、カルセドニアは弾かれたように顔を上げた。
「お、お祖父様……」
「そして、お主が婿殿を信じる気持ちの半分でいい。儂のことも信じてくれんかの? なに、悪いようにはせん」
カルセドニアの真紅の瞳のすぐ傍で、ジュゼッペの双眸がにぃと歪められる。その表情は、彼女がとてもよく知っている、彼女の祖父が何かを企んでいる時のものだった。
雪の舞い散るレバンティスの街を、がらがらと鳴る車輪の音を響かせながら、サヴァイヴ神の紋章が描かれた馬車がゆっくりと走る。
馬車に乗っているのは三人の人物。一人はサヴァイヴ神殿の最高司祭。その隣には、最高司祭の養女であり孫娘でもある白金色の髪をした女性司祭。
そしてその二人の対面には、このラルゴフィーリ王国では見慣れない服装の人物。
その人物はにこにこと上機嫌に、目の前に座る女性司祭を見つめている。しかし、その女性司祭はと言えば、目の前の人物のことなど一切無視して、ただひたすらに窓の外を流れる風景を見ていた。
「なあなあ、チーコ。これから何をしながら暮らそうか? どこか行きたい所とかあるか? もしあれば、いつでもオレが連れていってやるぜ? ほら、オレの《瞬間転移》なら、どこだろうとすぐに行けるからさ。そうやってしばらく二人で旅行するとかいいよなー」
にこにこ笑顔でこれからのことを楽しそうに口にするタツミ。だが、その言葉にカルセドニアが反応を示すことはない。それでも構わず、タツミは更に「未来の展望」をあれこれを語っていく。しかし、それにカルセドニアが何かを示すことはまるでなく。
それでもへこたれることなく、タツミは「未来の展望」を語り続けた。
狭い馬車の中でそんなことが延々と繰り返されている内に、馬車は目的地であるとある邸宅に到着した。
馬車から降りたタツミは、目の前に聳える邸宅を見てほけっとした表情を晒す。
「へー、すっげえお屋敷。もしかして、これからここでチーコと暮らすのか?」
「その通りじゃ。ちなみにここは儂の家であり、幼い頃のカルセが神殿の宿舎に入る前まで住んでいた家でもあるな」
カルセドニアが以前に住んでいた家と聞き、タツミはぱあっと顔を輝かせる。
「そっか。こっちでのチーコは以前とは違ってお嬢様だったんだな!」
まるで遊園地に到着した子供のように、タツミは目を輝かせて屋敷に向かって駆けていく。しかし、いくらも進まない内に、その足を止めてしまった。
なぜならば。
タツミの進路を妨害するかのように、三人の体格のいい男性たちが立ちはだかっていたのだ。
その男性たちの年齢は三十代から四十代ほど。三人ともどこか似通った容貌をしており、血縁関係にあることが容易に知れる。
「……誰だよ、おまえたちは?」
目の前に立ちはだかる男たちに、タツミは不審な目を向ける。
「俺たちか? 俺たちはカルセの義兄だ」
三人の内の真ん中に立っていた男性──ジュゼッペの息子たちの長兄であるタウロードが、タツミをじっと見つめながら告げた。
「え? チーコの兄さん……たち……?」
「その通り……しかし、親父から聞かされていたが、本当にタツミに……俺たちの知るタツミにそっくりだな」
彼らが義弟として認めた辰巳とそっくりな人物を見て、次兄のスレイトが呟いた。
「そうかぁ? 俺たちの義弟に比べると、ちょっと華奢じゃないか? 腕もあいつよりは細っこいし、こいつは全然鍛えられていないぜ? まあ、確かに顔つきはよく似ているけど、雰囲気は結構違うよなぁ」
目の前に立つタツミを無遠慮に頭の先から爪先まで眺めたあと、三男のレイルークが言う。
「な、なんだよ、人のことをじろじろと見やがって。おまえら、本当にチーコの兄さんなのか? 全然似てないじゃないか」
「似ていようが似ていまいが、カルセが俺たちの可愛い義妹であることは間違いないな」
長兄の言葉に、二人の弟たちも頷いて見せる。
「ここがカルセの家ってことは、カルセの兄貴である俺たちの家でもあるわけだ。つまり、おまえはカルセと一緒に暮らすと同時に、兄貴である俺たちとも一緒に暮らすことになる。まあ、おまえとどれだけ一緒にいるかは分からないが、精々よろしく頼むぜ」
と、戯けた調子でレイルークが続けた。
「おい、爺っ!! どういうことだよっ!?」
「はて、何のことじゃな?」
憤慨するタツミを受け流し、ジュゼッペは白々しくすっとぼける。
「オレの出した条件を受け入れるんじゃなかったのかっ!? どうしてオレとチーコが暮らす場所に、チーコの兄貴たちまでいるんだよっ!?」
「儂に文句を言う前に、自分が出した条件をもう一度よく思い出してみるんじゃな」
「なんだと……っ!?」
ジュゼッペの言葉に怒りを滲ませながらも、タツミは自分が出した条件をもう一度思い出すべく記憶をひっくり返した。
──オレとチーコがかつてのように……一緒に家族として暮らすこと。それがオレの条件だ。
確かに、タツミはジュゼッペに向けてそう言ったはずだ。
「………………あ」
「ふぉっふぉっふぉ。ようやく気づいたようじゃな」
勝ち誇った顔で、ジュゼッペはタツミに告げる。
「貴様は条件の中に一言も『二人で暮らす』と入れておらん。貴様が出した条件通り、貴様とカルセが一緒に暮らすことは認めよう。じゃが、貴様がカルセと暮らすのはここ……儂の家でじゃ。もちろん、カルセと家族として暮らすということは、儂やあやつの兄たちもまた、家族として一緒に暮らすというわけじゃよ」
「こ、この狸爺が……っ!!」
悔しげに顔を歪めるタツミと、それを楽しげに眺めるジュゼッペ。
現在、ジュゼッペの三人の息子たちはそれぞれ独立し、屋敷を構えて妻子たちと共に暮らしている。つまり、普段この屋敷で暮らしているのは、ジュゼッペとその妻、そして住み込みで働く使用人たちのみ。
その息子たちがこの家に集まったのは、父親であるジュゼッペからカルセドニアの警護をするように言われたからだ。
可愛い義妹を守るためならば、三人の義兄たちに否はない。彼らは二つ返事で父親の要請に頷き、こうしてジュゼッペの屋敷で待ち構えていたというわけである。
「さて、こちらは貴様との約束を守ったぞ? 当然、次は貴様が約束を守る番じゃ。それとも、貴様は自分が出した条件を忘れたとでも言い出すつもりかの?」
「ち…………仕方ねえな……っ!!」
完全に言いくるめられ、タツミは悔しそうに吐き捨てる。
そして、タツミは僅かな時間目を閉じて立ち尽くす。おそらく、配下に収めた軍竜たちに指示を出しているのだろう。
「……軍竜は王都から遠ざけた。だが、忘れるなよ? 軍竜たちはまだオレの支配下にいるってことをな? オレが呼び寄せれば、いつでもこの街に襲いかかるぜ?」
「ああ、忘れぬよ」
にやりと笑うジュゼッペ。そしてタツミは、苦々しい表情を浮かべながらジュゼッペから顔を背けた。
「……この爺、予想していたよりずっと狸だったぜ」
「ふぉっふぉっふぉ。今後交渉する時は、もう少し言葉を考えて交渉するんじゃな、若造」
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