水中戦
辰巳が湖に落ちたのを見届けたカルセドニアは、そのまま走り出していた。
走りながら手の中の杖を放り捨て、魔封具の灰色のローブも脱ぎ捨て、《水中呼吸》を自身にかける。
そして、鎧竜の巨体が落ちた影響で荒れ狂う湖面に、何の躊躇いも見せずに飛び込んだ。
「カルセちゃん、待ってっ!!」
背後からジャドックの静止の声が上がるが、当のカルセドニアには聞こえていない。
湖に飛び込んだカルセドニアは、荒れる水流に翻弄されながらも必死に辰巳を探す。
《水中行動》の魔法を使えば水中でも今より更に自由に動けるが、鎧竜たちとの戦いで魔法を連発したため、さすがのカルセドニアも魔力が残り少ない。
もしも辰巳が怪我を負っていたら、その時は治癒魔法が必要となるだろう。その治癒魔法のため、カルセドニアは魔力を温存することを選択した。
荒れる水流に苦戦しつつ、カルセドニアは辰巳の姿を探す。
本来、湖の水は極めて透明度が高い。しかし、今は水中に逃げ込んだ鎧竜が暴れ続けている影響で、湖底の砂などが巻き上げられ、視界を妨げていた。
見通しの悪い水中を、カルセドニアは必死に泳ぐ。そして、水中をゆっくりと沈んでいく黒い人影をようやく見つけ出した。
手足に更に力を込め、カルセドニアは人影目指して水中を進む。
荒れ続ける水流に苦労して何とか人影に辿り着いたカルセドニアは、その人影が見慣れた黒い鎧姿であることを視認した。
同時に、人影の頭部付近からいくつもの気泡が立ち上っていることも。カルセドニアは呪文を素早く詠唱し、その人物──意識を失っている辰巳にも《水中呼吸》をかける。
辰巳は意識を失っているものの、大きな怪我などはしていないようだ。
そのことに安堵の息を吐きながら、カルセドニアは周囲を見回す。
意識のない辰巳を連れたまま、いつまでも水中にいるのは危険だ。《水中呼吸》で溺れる心配はないが、この状態で鎧竜に襲われれば、さすがのカルセドニアも辰巳を守りきる自信はない。
早急に浮上し、陸に揚がらなければ。光が差し込む湖面へ向けて移動しようとしたカルセドニアの頭上。そこで何かが光を遮って影を落とした。
逆光の中でもはっきりと分かる、禍々しく輝く赤い眼。無数の小さな赤い眼の集合体が、カルセドニアを見下ろしていた。
「カルセちゃん、待ってっ!!」
ジャドックの静止の声を無視して、カルセドニアは湖へと飛び込んでしまった。
「もうっ!! カルセちゃんってば、相変わらずタツミちゃんのことになると他に注意が回らないんだからっ!!」
温厚なジャドックには珍しく、荒めの言葉でそう吐き捨てた。
鎧竜が飛び込んだ湖の中が、どれほど危険なのかは今更考えるまでもない。
「やれやれ……せめて、俺たちにも《水中呼吸》をかけてから飛び込んで欲しかったものだ」
呆れの溜め息を吐きつつ、モルガーナイクは湖の端に駆け寄る。このまま彼やジャドックが湖に飛び込んでも、行動が制限される水中では何の役にも立たない。
先程の彼の言葉通り、せめて《水中呼吸》の魔法がかかっていれば、まだ水中でも戦うことができたのだが。
「……仕方ないわねぇ。ミルイルちゃん、お願いできる?」
「任せて。私なら水の中でも魔力が保つ間はなんとかなるしね」
背後から聞こえてくるジャドックとミルイルの会話。その会話の内容が気になって、モルガーナイクは彼らへと振り向く。
「そうか……ミルイルも魔法使いだったな」
彼女の全身から放出されている魔力光。その色は僅かな赤味を混ぜた薄い青。その色合いからも、彼女が〈水〉系統の魔法使いであることが分かる。
ということは、ミルイルも《水中呼吸》が使えるということだろうか。ならば、自分やジャドックも辰巳とカルセドニアの加勢に行けるということか。
ミルイルが使う魔法の詳細を知らないモルガーナイクは、そんなことを考えながら彼女へと振り向き──そして、驚きに目を見開いた。
なぜなら、ミルイルはその場で服を脱いでいたのだ。
鎧を外し、その下に着ていた鎧下を脱いで下着姿になると、最後に残された下着にまでも躊躇いなく手をかける。
目の前で展開される想定外の光景に、思わずモルガーナイクの動きが止まった。
「ちょっとモルガーナイク様? 乙女が服を脱いでいるところをそんなにまじまじと見るものじゃないわよン?」
からかうようなジャドックの言葉に、ようやく我に返ったモルガーナイクは慌ててミルイルから視線を逸らす。
「む……す、済まん……そ、それで、彼女は何をしているのだ……?」
「ミルイルちゃんが魔法を使うには、前もって裸にならないといけないのよ」
正確には、ミルイルは裸にならなくても魔法は使える。ただ、服を着たまま魔法を使うと、魔法が発動した際に全身から放出される魔力で、着ている衣服が全て破壊されてしまうだけだ。
「……ど、どんな魔法を使うつもりなんだ……」
ミルイルが使う魔法を知らないモルガーナイクは、魔法を使うために裸にならないといけないと聞いて呆れるやら、不思議がるやら。
さすがの《自由騎士》も、この世に存在する全ての魔法を知っているわけではないのだ。
やがて全裸になったミルイルは、目を閉じて意識を集中させる。
エルやカルセドニアから魔法の手ほどきを受けたミルイルは、以前よりも迅速に魔法を発動させることができる。
陽光を浴びて白く輝くミルイルの裸体が、赤味を僅かに混ぜ込んだ青の魔力光に包まれたのは、それからほんの僅かな時間の後だった。
頭上より赤く輝く眼が見下ろしている。
その赤い眼の近くでは、無数の牙が生えた口が忙しなく動き、かちかちという牙が打ち合う音が聞こえてくる。
鎧竜。いや、今はもう魔物と呼ぶべきだろう。
体の三割ほどを失った魔物が、じっと自分を見下ろしている。そのことでカルセドニアの中を恐怖が走り抜けるが、彼女は意思の力でそれを強引に抑えつけた。
知らず、意識のない辰巳を抱く腕に力が篭もる。
その辰巳が切断した魔物の体側からは、今も絶え間なく体液が流れ出し、湖の水を汚していた。
襲いかかってくるつもりだろうか。そう思い、カルセドニアは身構える。しかし、辰巳を抱いている状態、しかも水中で頭上を抑えられていては、逃げる場もなければ隠れる場もない。
更には、水中では彼女が最も得意とする雷撃魔法は使えない。そして魔力が尽きかけている今、他の系統の魔法で目の前の魔物を倒しきることができるかどうか。
腕の中の辰巳を守るため、それでもこの窮地を逃れなければならない。
込み上げてくる恐怖に歯を食いしばって耐えながら、カルセドニアは強い意思を込めた視線で魔物を見つめ返す。
だが、いつまでたっても魔物が動きを見せることはなかった。
魔物はただただ、赤く染まった眼でじっとカルセドニアを見下ろしているだけ。そのことにカルセドニアが僅かに首を傾げた時。
カルセドニアの右手側──湖の中央部──から数本の矢が飛来して、魔物の体側に突き刺さった。
辰巳によって切断された魔物の体の断面は、甲殻に守られていないため普通の矢でも容易に刺さる。
突然の奇襲にカルセドニアが驚きながらも矢が飛来した方を振り向けば、そちらから近づく数人の人影が見えた。
細身の身体に何らかの素材を鱗状に並べた独特な鎧を着込んだ、数人の戦士たち。彼らは水中で用いるための短槍や小型の弩を手にしながら、カルセドニアと辰巳を魔物から守るように展開した。
その戦士たちの中に、カルセドニアは見知った顔を見つける。その人物は戦士たちの群れから離れ、カルセドニアの方へと近寄ってきた。
「カルセドニア様。鎧竜はしばし、私の里の戦士たちが引きつけます。その間にカルセドニア様は陸へ揚がってタツミ様の手当てを」
先の尖った長い耳を揺らしながら、その人物──エルフの里長の娘であるシェーラは、カルセドニアの反対側から辰巳の身体を支える。
シェーラもまた、鱗状の鎧を着ていた。普段は衣服を着る習慣のないエルフたちも、戦いの場に出る時はこのような彼ら独特の鱗状の鎧──いわゆるスケイルメイル──を身に着ける。
そして、二人は辰巳の身体を抱えながら、急いで湖面を目指して浮上していく。
その間も、エルフの戦士たちの攻撃は続いている。決して必要以上に鎧竜に近づくことはせず、一定の距離を保って魔物を包囲しながらエルフ独特の水中用の弩で矢を射かける。
鎧竜が万全の状態であれば、エルフの戦士たちがどれだけ束になってもあっと言う間に殲滅されてしまうだろう。
だが、今の鎧竜は〈魔〉が憑いているとはいえ体の約三割を失い、その体側から体液を垂れ流し続けている。
それに鎧竜は水中でも活動できるとはいえ、その本来の生息地はやはり地上だ。水中ではどうしても動きは鈍くなってしまう。
水中にいることと体の一部を失ったことで、鎧竜の動きは鈍くぎこちない。そのため、エルフの戦士たちでも応戦することが可能になっていた。
里長の娘であるシェーラが連れてきた、地上の魔獣狩りたち。その中には、以前にも里の危機を救ってくれた《自由騎士》と《聖女》がいる。彼らならば、必ずこの恐ろしい魔物を倒してくれるに違いない。
地上の魔獣狩りたちが態勢を再び整えるまで、魔物をこの場に引き止め、可能であれば再び陸へと追いやる。
自分たちの里を守るためにがんばってくれている、地上の魔獣狩りたちの僅かでも助けになること。それが自分たちの役目なのだ。エルフの戦士たちはそう心得ていた。
一定の距離を保った包囲を続けながら、エルフの戦士たちは鎧竜に絶え間なく矢を浴びせかけていく。
そのほとんどは鎧竜の外殻に弾かれるが、それでも矢の何本かは辰巳が切り裂いた体側から魔物の体内に侵入し、その傷を更に抉る。
矢が体に食い込む度、魔物は苦しげに身を捩る。そして身を捩りながらも、自身の周囲に群れる敵を屠らんとその口から毒を吐き出す。
地上では霧状に広範囲に広がる鎧竜の毒も、水中では帯状になって水流と共に緩やかに流れるに留まる。
毒々しい紫に染まった水を見て、エルフの戦士の中から数人が前に進み出ると、呪文の詠唱を開始した。
唱えるは〈水〉系統《浄水》。文字通り、汚れた水を浄化する魔法である。
当然ながらエルフたちの中にも魔法使いは存在し、水と親しいエルフの魔法使いは〈水〉の系統を使う者が多い。
エルフの魔法使いたちが使用した《浄水》が効果を発揮し、紫に染まった水が元通りになる。地上では厄介だった鎧竜の毒も、〈水〉系統の魔法使いさえいれば水中では実に対処しやすかった。
その後もエルフの戦士たちに矢を射かけられ続けた鎧竜は、苦し紛れに少しずつその体を浮上させていくのだった。
辰巳を支え、シェーラと共に地上を目指すカルセドニア。
もう少しで湖面に到達すると思われた時、その湖面に何かが猛烈な勢いで落下した。
落下したものは、そのままするりと水中を滑るように泳いでいく。
それを目にして、シェーラが大きく目を見開いた。だが、その正体に心当たりのあるカルセドニアは、シェーラとは逆にそれに向かって微笑みかけた。
その微笑みに答えるように、それは細く短い右手の親指をぐっと突き立てる。そして、そのまま水中をもの凄い速度で泳ぎ去っていく。
瞬く間に小さくなっていくその姿を目で追いながら、シェーラは思わずぽかんとした表情を浮かべていた。
「か……カルセドニア様……い、今のは……」
エルフとは違って水中では思ったように発音できないカルセドニアは、驚愕するシェーラを安心させるために微笑みながら力強く頷いて見せた。
鎧竜と交戦中だったエルフの戦士の一人が、何かが頭上から自分たちに急速に近付いてくることに気づいた。
一体何がこの戦場に近づいてくるのか。もしかして、地上の魔獣狩りたちだろうか。
反射的に頭上を振り仰いだエルフの戦士。そして近づいてくるもののその姿を見て、ぎょっとした表情をその顔に浮かべる。
驚愕のあまり、思わず動きを止めてしまったその戦士。その身体を、鎧竜の口元に残された最後の触手が強烈に打ち据えた。
水中をくるくると回転しながら、湖底に沈んでいくエルフの戦士。彼が身に着けていた鱗鎧はたった一撃で無惨にも破壊され、鎧の破片が彼の身体に深々と食い込んでいる。
触手による打撃と鎧の破片によるダメージは深刻で、その戦士の意識は一瞬で闇に落ちた。
赤い血の帯を引きながら湖底に沈む戦士。一瞬でずたぼろにされた同胞を目の当たりにして、彼の周囲にいた戦士たちもその動きを止めた。止めてしまった。
動きの止まったエルフの戦士たちを、鎧竜の触手が次々に襲う。
水中とは思えない速度で振り回される触手に痛打を浴びせられた戦士たちが、一人また一人と湖底に沈んでいく。
エルフの戦士たちの数が減れば、必然的に鎧竜の包囲に穴があくことになる。鎧竜はその穴を突いて、包囲網から逃れるために泳ぎ出す。
エルフの戦士たちも鎧竜を逃すまいと必死に包囲網を繕うが、元々最低限の人数で形成していた包囲網である。その中から数人が抜け落ちたため、どうしても包囲網を維持することができない。
エルフたちの包囲を難なく突破した鎧竜は、そのまま湖の中央を目指して泳ぎ出す。
そちらに存在するエルフの里を襲うつもりなのか、ただ単に逃亡を企てているだけなのか。
エルフの戦士たちが鎧竜の後を追おうとした時、頭上より猛烈な速度で接近した何かと逃げる鎧竜が激しく交差した。
それの腕に生えた硬質そうなヒレが、鎧竜の口元の触手を一撃で斬り飛ばす。
そして水中でくるりと向きを変えたそれは、魔物の体側の傷口に背中の大きなヒレを突き立てる。
水中に適応した生物である鎧竜。そして、水中こそが生活圏であるエルフ。そんな彼らを上回る動きで鎧竜を翻弄するその姿を目の当たりにして、エルフの戦士の一人が思わず呟いた。
「な……なんだ……あれは……」
エルフの戦士たちがただただ見つめるもの。それは手足の生えた巨大な魚だった。
彼らは知らない。それがおそらく世界でたった一人、とある女性の魔獣狩りだけが使える魔法であることを、エルフの戦士たちは当然ながら知る由もなかった。




