60話 「湖から這い出る黒」
勝利の余韻に浸っていると背後で何かが刺さる鈍い音がした。その音に反応してユリは、振り返った。
血鮫のノコギリ状の鋭い牙で白く縁どられた真っ赤な口腔がユリの視界いっぱいに広がっていた。
(ひゃっ!? ――ぁ?)
驚いたユリの口から可愛らしい悲鳴が飛び出す代わりに無数の気泡が吐き出された。ユリの視界が無数の気泡で一瞬白く染め上げられる。
喰われると思ったユリは、体を強張らせたが、眼前のサメが紺色の光の粒子となって四散していくのを見て悲鳴が疑問形に変わった。
呆気に取られたユリは、目を真ん丸とさせてサメのいた場所を凝視する。
そこには一本の銛だけが残っていた。
(も、銛? ……なんで? )
それは細身の長槍のようにも見える形状だった。穂先にかえしがあるのを見て、ユリは銛だと判断する。ユリの持っている錆びついた槍とは違って、穂先から石突までのすべてが何らかの金属でできていた。
消えていったサメに刺さっていたのであろう銛は、サメが消えたことで自重に従ってゆっくりと沈んでいく。
(ん? あの銛……紐がついてる? )
底に沈んでいく銛を見ていたユリは、石突きに、細く白い紐がついていることに気づいた。
その紐の先がどこに続いているんだ? という疑問が生じたユリは、自然と水中に漂う紐の先を視線で追った。
――その時
「娘よ。じゃから無理はするなと言ったじゃろう」
頭上から聞こえてきた老人の声が水中に響いた。
(爺さん? )
老人の声が聞こえた頭上にユリは、反射的に顔をあげた。そこには、こちらに泳いでくる老人の姿があった。水中に老人がいることにユリは疑問を覚えた。
(何できて……って速っ!? )
こちらに向かってくる老人の泳ぎはサメよりも速く、美しささえ感じるなめらかな動きだった。その老人の手には、先程の銛がいつの間にか握られていた。
それらを目にしたユリは、この老人が自分よりも遥かに水中戦に長けていることを理解した。
(爺さん、すげぇ……)
ユリは、ぽかんと口を半開きにして気泡を零した。ユリの内心の叫びは水中なので声にはならなかったが、老人に向けるユリのキラキラと輝く瞳を見れば、老人をどう見ているのかは一目瞭然であった。
近づいてきた老人は、怪我がないことを確かめるようにユリを足の先から頭のてっぺんまでじっくりと見る。そして、どこにも怪我がないのを確認すると安心したように一つ頷いた。
「ふむ。怪我はないようじゃな。娘よ、一旦儂と共に桟橋に戻るぞ」
モンスターのいないマリンブルーが広がる周囲を見渡した老人は、ユリに対して有無を言わせぬ物言いで言った。
反対する理由がなく、むしろ老人に聞きたいことがいっぱいできていたユリは、頭を縦に大きく振ってそれに頷いた。
(やっぱりだ。爺さん、水中でも普通に喋ってる。何かのスキルの恩恵なのか? ――というか、本当に爺さん速いな。追いつける気が全くしないな。俺も【水泳】のスキルレベルを上げたらあんなに速く泳げるのようになるのかなぁ)
洗練された泳ぎでユリの先をまるで人魚のように優雅に泳ぐ老人の後ろ姿にユリは、羨望の眼差しを向けていた。
◆◇◆◇◆◇◆
桟橋に上がったユリは、まず最初に助けてくれた感謝を老人に伝えた。
「爺さん、さっきは助かったよ。助けてくれなかったら危なかったと思う。本当にありがとうございます」
「よいよい。気にするな。ただ次から気を付ければよい」
律儀に頭を下げるユリに対して老人は優しくそう言う。
「娘はまだまだ経験の浅いひよっこじゃ。失敗するなと言う方が酷じゃ。じゃから娘が失敗した時は儂ができうる限り手助けをしてやろう。これは年長者として当たり前のことじゃ、娘が必要に気にすることはない。失敗から学び、自らの糧にしていくことが大事なんじゃ。そうすれば、自然と失敗は減っていく。何事も失敗しないことばかりがいいことというわけではない。失敗を恐れるな。若いうちは何事にも挑戦していくのじゃ。……じゃが、娘はもう少し慎重になった方がよいのかもしれぬのぅ」
「あー……うん。もうちょっと、周りに気を配るようにするよ」
老人の困ったような瞳を向けられて、ユリは居心地悪そうに老人から目を逸らして、頭をぽりぽりと掻きながら老人と約束した。
「ところで話が変わるが、娘よ。そなたの戦いぶり、少々見させてもらったぞ。中々に面白き発想じゃったな」
「あ、見てたんだ」
「うむ、といっても最後らへんじゃがの。あの戦法は、なかなかに応用が利きそうじゃな」
「あーそうだね。サメしか試してないけど、しがみつけるくらいおっきなモンスターなら大抵使えるかもな」
「であろうな。あの戦法なら陸でも通用すると思う。しかしじゃ、あの戦法には、注意する点が2つほどある。気づいておったか? 」
老人は、顔の前で指を2本立ててユリに問いかけた。
「え、欠点ってことか? それはまぁ……あの戦法だと自分の背中というか後ろが無防備になるから注意しないとモンスターが複数いる時は、他の奴に攻撃されるってことだろ? 」
「うむ、そうじゃのう。
特に水中であれば容易にモンスターは、娘の後ろに回り込めることができるから注意しなければならんの。今回は、この湖の中でも水泳速度がトップクラスで速いブラッド・シャークじゃったから、そのような心配はほとんどなかったと思うが油断はできまいの」
心当たりがあったユリは、老人の話に何度も頷いた。
「では、もう一つは分かるかの? 」
「……振り落とされないようにすることか? 」
もう一つの注意点を老人に聞かれたユリは、しばらく考えてからそう答えた。
「うむ、確かに振り落とされないことは大事じゃのぅ。じゃが、違う。
やはり、そなたは気付いておらなかったようじゃな。あの戦法は、相手と場所に気をつけねば、大量のモンスターをトレインしてしまう危険を秘めておる」
「えっ、そうなの? 」
全く気が付いていなかったユリは、目をパチクリとさせて老人に聞き返した。
「娘よ。今は、この湖の底からモンスターが大量に出てきているということはさっき話したな? 」
「うん、覚えてるよ」
「モンスターは、ある一定の距離まで人が近づくと大概が敵意を剥き出しにして襲ってくることは知っておるな? 」
「そりゃまぁ」
「では、モンスターが大量に集まっている場所を人が駆け抜けるとどうなる? 」
「そりゃ、敵対したモンスターがその人を追いかけて…………あ、そういうことか」
ようやくユリも合点がいったのか、パンと両手を合わして頷いた。
「つまり、あのサメが出鱈目に暴れて俺を連れまわしたせいで、他のモンスターの近くを通過する度にトレインしてたってことか!! 」
「そういうことじゃ」
「確かにそれは注意するべき点だな。というか致命的だよね? 」
「そうかの? 使い所を間違わねば、とても便利じゃと思うがの。動き回るモンスターに対してやモンスターが密集しておる場所でしなければいいだけのことじゃ。普段ならば、この湖も水面近くにいるのは魚くらいのものじゃ。そこにサメを誘いこんでしかければ、戦闘は随分と楽になるじゃろ。陸地ならば、油断しなければ、トレインする程のことはないと思うしの」
老人に言われて、確かに……と呟いてユリは、少し考え直す。
「それでも、どっちにしろ今の湖では使えない、か。はぁ……折角いい方法だと思ったのになぁ」
どの道、現状の湖では使えない必勝法だと分かり、ユリは落胆する。
「そう落ち込むでない。中々奇抜でいい方法じゃと儂は思っておるぞ」
「でもさー。やっぱ水中戦じゃ決め手に欠けるんだよな」
慰めてくる老人に対して、ユリは唇を尖らせて不貞腐れた表情で愚痴を零した。
「殴るにしても、蹴るにしても、水中じゃまだ素早く攻撃できないからちまちま削っていくしかないし、弱点っぽい口に槍を投げて倒す方法も、敵が複数だと底に沈んでいく槍を拾いにいけないし……実際、もう2本失くしたし…………あ、そう言えば爺さん。あの銛に紐を付けてたのって、沈んで失くさないようにするためなのか? 」
愚痴を零していたユリは、ふとしたところで老人がサメを倒した時に使った銛に紐がついていたことを思い出した。
その銛を老人は拾いにいっていないのにユリが気づかないうちに銛は老人の手元に戻っていた。
そのことからユリは、紐で銛を手繰りよせたのだと当たりをつけた。
「そうじゃな。この銛の石突きに穴を開けて紐を通しておる。だから、拾いに行かずとも紐を引っ張れば手元に戻ってくるん代物じゃ」
老人が、手元に持っていた銛をユリに見せながら説明した。
「あ、でもこれって射程距離が短くなるよね。紐の長さ分しか飛ばなくなるし、一撃で止めをさせないと銛が抜けなくて引き摺られるんじゃないのか? 」
「よく気が付いたの。じゃがのぅ、この銛はそういう心配をしなくてもいいんじゃ。ほれ、アイテムボックスに一度入れて詳細を見てみろ」
老人は、ユリに銛を渡してそう言った。
「いいの? 」
「かまわん。でなければ今の娘じゃ銛の詳細を見れぬじゃろ」
銛をアイテムボックスにしまったユリは、アイテム欄を開いて銛の詳細を見た。
・伸び蜘蛛の銛
ATK+23
森蜘蛛の糸から紡がれた紐をつけた鉄製の銛
二度紐を引けば手元に戻る優れもの
紐の最長は30m、最短は0.3m
紐には斬撃耐性が付与されている。
「へぇー、伸縮自在ってすごいな」
「そうじゃろ。知り合いに頼んで作ってもらった紐を使って自作してみたんじゃ。中々に重宝しておる」
「使い勝手良さそうでいいなぁ。――はい、ありがとう爺さん」
銛の詳細を見終わったユリは、アイテムボックスから銛を取り出して老人へと返した。
しかし、老人は渡された銛をユリに押し返した。
「よいよい。それは、娘にやろう」
「え? これないと爺さんが困るだろ」
銛を渡されたユリは、素直に喜べずに困った顔をする。
「何を言っておる。作ろうと思えばこれぐらい簡単に作れるんじゃよ。一本や二本で気にすることはない。遠慮せずに貰っておけ」
老人は、苦笑しながらユリの前で同じ銛を数本手元に出して見せる。
「そっか。なら喜んで受け取るよ。ありがとな爺さん! 」
それを見たユリは、安心して老人から銛を一本貰った。
その後は、老人から水中戦の心得という名の注意することを教えてもらったユリは、メインメニューで時計を確認して、既に深夜の1時になっているのを知って驚いた。
「うわっ! もうこんな時間か……次で最後にしようかな。爺さん。もう一回潜ってこようと思う」
「そうか。水面近くにおるモンスターが増えてきておるから気を付けるんじゃよ」
「ああ、わかってるって。じゃあ、爺さん行ってくる……――って何だあれ? 」
桟橋から湖に飛び込もうとしていたユリは、湖面からうねうねと動く黒い何かが出てきたのを目にした。それは、ユリが見ている傍から次々と水面を突き破ってその数を増やした。
ユリは湖の水面から黒いうねうねと動く何かが出てきたのを見た。
それは、ユリが見ている傍から次々と水面を突き破って数を増やした。
――ビタンッ!
その一本が、湖の縁の地面を叩いて陸に出てくる。
――ビタンッ!ビタンッ!
さらに続けて、地面を叩いて陸に出てきた。
「何じゃ、あれは……っ! 」
その何かは、老人にも分からないようで、目を見開いてただ見ていた。
ユリも同様に驚いた様子で、それが湖から陸に這い出てくる様子を見ていた。
その太く長いうねうねと動くものの数は、すべてで8本あった。
そのすべてが陸につくと、湖から新たに巨大な黒く大きな何かが出てきた。その大きな何かには、赤く光る大きな目が二つあり、その目はユリと老人に向けられていた。
それはとても大きな黒い蛸だった。
「タコォ!? 」
湖から這い出てきたモンスターの正体に気付いたユリの叫び声が湖に響き渡った。
14/10/11 18/05/10
改稿しました。




