六話目
青木とは違う、体の感触。ふわりと立ち上るシトラスの香り。
瞬間的に、わたしは身をよじって離れようともがいた。
「……センパイ! 何をっ!」
「聞いて!」
センパイがたたきつけるように叫ぶ。
「泉さんとは付き合っていない! オレがずっと好きだったのは、君だ」
「え?」
センパイの突然の言葉に、思わず固まる。
「だって、お姉ちゃんのことが好きだって」
「それは3年も前のことでしょ。その時だって、今のように好きだったのかどうかわからないよ。前にアカリちゃん言ったでしょ? オレが好きなのは、誰かのことを一途に思う姿にあこがれてたんじゃないのかって。あの時はそんなわけないって言ったけど、心の中ではすごい驚いてたんだよ」
センパイは小さく息を吐く。
「……オレ、確かにそうだなって。誰が好きだから、とか。誰かのことが好きだから、とかそんな言葉がついてなかったら興味を持てないんだなって」
「だからそれは性癖だと」
「違うっていってるだろ」
センパイがちょっと笑った。顔は見えないけど、きっとまた困ったような笑い顔なんだろう。
「困っている子を助けることで、オレはくだらない自己満足をしていたんだよ。振られても恰好つくしね。けど、そんなくだらないオレの話を真剣に聞いてくれて、バカだなんだといってくれたのってアカリちゃんだけだけなんだよ」
「それはわたしがしつこく聞いたからで」
「聞いたところで話すかどうかは別でしょ」
「それは……」
そうだけど。でもそれってへりくつなんじゃないかな。
そう思っていると、センパイは背中に回して手に少しだけ力をこめた。
「で、話をしているうちに、聞いてもらうことよりも、アカリちゃんに会うことのほうがオレの中では重要になっていたんだ」
「……は?」
わたしは思わず声を漏らす。
「それじゃ、まるで、センパイ、……あの、わたしのことが」
「好きだっていってるだろ」
「でで、でも、それってあの、……青木のことがあったから好きなんじゃ」
思わずもらしたその言葉に、センパイはぱっとわたしの肩をつかんで少しだけ体を引き剥がす。そしてのぞき込むように、じっとわたしを見つめた。
「そんなわけないだろ。君のことを好きになったのは、泉さんとのことがあったあの日がきっかけなんだから」
「え? あ、あの日って……」
「オレが泉さんのことを抱きしめられなかった日」
え? とわたしは改めてセンパイを見つめる。
「……意味が、わかりません」
「わからない?」
センパイはふっと笑う。
「君、あの時、オレになんていったか覚えてる?」
「え、えと……」
何か言ったような気がするけど、よく覚えていない。
ちょっと首をかしげると、センパイは苦笑いを浮かべた。
「……なんで、そんな遠慮してるんですか? センパイ、お姉ちゃんのこと本当に好きなの? それとも格好つけているだけ? ってね」
「え?」
何か言ったことまでは覚えているが、そこまではっきり言っていたのか。
いや、正直、そう思っていたけど、まさか口に出していたとは。
「すす、すみません。あの……、そんなつもりじゃ、って本心だけど……いや、」
あまりに動揺しすぎて何をいっているのかわからない。
もごもごと言い訳を繰り返すわたしに、センパイはぶっと噴き出した。
「謝る必要ないって。オレ、あの時、初めて人を好きになったんだから。だからさ」
そういってセンパイは再びわたしを引き寄せる。
「……アカリちゃんも、オレのこと好きになってよ」
センパイの聞いたこともないような弱弱しい声だった。
その声に思わずうなずきかけたわたしは、はっと押しとどまる。
のそりとセンパイの体をひきはがし、そしてじっと彼を見つめた。
「……お姉ちゃんとはどういうことなんですか?」
「え?」
センパイはぎくり、と固まる。
「だって、ずっと一緒にいますよね。まさか、お姉ちゃんに振られたからわたしって」
「ちょ、ちょっと! 誤解!」
センパイはわたしの肩をがっしりとつかむ。
「い、いず、泉センパイのことは……あの、」
センパイのほほがすっと赤くなるのが夜目にもわかる。
それを見て、わたしは今まで高揚していた気持ちがすっと覚めるのがわかった。
わたしは肩にのっていたセンパイの手を振り払い、ぺこりと頭をさげる。
「……ごめんなさい。わたし、やっぱり、センパイのこと」
「アカリちゃんとのことを頼んでいたんだよ!」
「へ?」
驚いて顔をあげたわたしから、逃げるようにセンパイがぷいっと顔をそむける。
「……アカリちゃんと連絡とれなくなったから、泉センパイに頼んでなんとかつないでもらおうとして、……今日だって、祭りいにくって聞いてたから探してもらっていただけで
」
その瞬間、わたしはセンパイに抱き着いた。
一瞬驚いていたセンパイは、すぐさまわたしの背中に手を回す。
「返事、聞かせてもらえないかな」
「……あの、わたし、すす」
その先がのどをつっかえて出てこない。
くそー!
いつもセンパイの恋バナ(とわたしが思っていたけど、実際はただの愚痴だったそれ)を聞いていただけだったから、自分がセンパイと付き合えるとか、思いが通じ合うとかまるっきり想像していなかった。
だから、なんといっていいのかわからなくて。
ただ言葉だけがくるくると空回りしているようだった。
そんなわたしの背中を、センパイはぽんとたたく。と、まるで使えていたものがぽろりと、出てくるようにするりと「好き」と言えた。
その瞬間、センパイの体が小さくこわばった。
「……本当?」
「……ホントウデス」
もう、今時ロボットだってもっとスムーズに言えるだろう。
ぎこちなく答えるわたしの耳に、センパイの小さく震えるため息のようなものが聞こえる。と、同時に背中に回された手がゆっくりとわたしを引き寄せた。
翌日、わたしは青木をあの公園に呼び出した。
といってもその日は部活の活動日だったこともあって、会えたのは夕方の4時頃のことだった。
夕方といっても焼け付くような日差しにさんざん照らされた公園はいまだに熱を帯び、そんなところにのこのこやってくるような奴はわたしぐらいしかいなかった。
ベンチも滑り台もブランコもまるで熱せられた鉄板のように熱く、結局公園の端にあるプラタナスの木にもたれながら、わたしは青木を待った。
すると4時を幾分まわったころ、青木が小走りでやってくるのが見えた。
軽く手をあげると、青木は少し笑ってこちらにやってきた。
「悪ぃ、片付けで遅くなった」
「……ううん、突然呼び出してごめん」
ぺこ、と頭をさげかけたわたしに、青木はぶんぶんとかぶりをふった。
「いや、オレも話があるからさ」
「話?」
首をかしげると、青木は帰る途中で買ったというスポーツ飲料水を一本わたしに投げてよこした。
自分も同じものを飲みながら、青木は「話って?」とわたしに促す。
「あ、えーと……」
青木にあったらちゃんと話そうと心にきめてきた。
先輩とのこと、青木のこと。全部話して、あやまろう、と。
けど、いざ青木を目の前にすると言葉がのどに引っかかって出てこなかった。
初めてだったのだ。あんなにはっきりと、自分のことを好きだと言われたのは。
センパイのことはずっと好きだった。でも、自分を好きだといってくれたのは青木が最初だったのだ。
その青木を、自分は利用してそして都合が悪くなったら別れようとしている。
そんなことをするやつ、今までだったら最低だと思っただろう。
だって、お姉ちゃんがそういう人だとおもっていたから。
好きでもないのにその気にさせて、引っ張りまわすなんてどう考えても最低でしかないし、万が一にでも相手が良いといったとしてもやはり誠実さのかけらもない。
自分が一番嫌いな人間だ。
だからこそ、黙ってなかったことにするなんてできないと思った。
青きから何を言われようとすべて受け止めるつもりでいた。
けど――うつむくわたしを前に、ごくごくとペットボトルのスポーツドリンクを飲み干した青木は、空のペットボトルを片手に「じゃあ」と口火を切った。
「オレから先でいい?」
「え、あ、うん」
こくりとうなずくわたしを、青木はじっと見つめる。
その顔には今までみていたような優しい笑みはない。まっすぐにわたしを見つめながら、青木はずかずかと近づく。そして――触れるだけのキスをした。
驚いて目を見開くわたしに、青木はぱっと離れる。
「あ、あやまらねーから!」
口元に拳をあて、ふい、と横をむいた青木の頬は、明らかに夕日の色よりも濃い朱に染まっているのがみえた。
「……青木」
「オレ、わかってたから!」
青木の言葉に、わたしは思わず目を見開く。
「お前、オレのことは好きだろうけど、オレの好きとは違うんだろうなって」
口元に押し当てていた拳をそろり、と下ろした青木は、ゆっくりと視線をわたしへとむける。
「でも、それでもいいやって。お前の一番近くにいられたらそれでって。けど」
やっぱりダメだな。青木は吐き出すようにつぶやく。
「お前、今、すげー幸せそうだもん。やっぱ、オレじゃダメだったんだなって」
「……あ、あお、き」
はは、と笑う青木に、わたしはこらえきれず泣き出してしまった。
こんなの卑怯だとわかっていた。でも、涙が後から後からあふれてきて止めることはできなかった。
しゃがみこんでおいおい泣きじゃくるわたしの向いにしゃがみこんだ青木は、ひどく優しい手つきで肩をぽんぽんとたたく。
「ごめ、……あおき、ほんと、ごめん」
「いいってー、オレとしては好きな子とキスもできたしさ」
からからと笑う青木の言葉に、わたしは思わず顔をあげる。と、鼻先が触れるほど近くに青木の顔があった。
と、その時だ。
ぐいっと背後から抱きかかえるように両腕が腰に回された。
思わず振り返ったそこにいたのは、
「……何やってんの」
むっつりと顔をしかめるセンパイの顔が。
あっと、声をあげるわたしにセンパイはため息を落とし、それからちらりと向かいにしゃがみこむ青木を見つめた。
青木は一瞬、驚いたように目を丸くしていたが、次の瞬間にやりと笑みを浮かべた。
「でも、オレ、あきらめわるいんで。いつでも待ってるから」
「……待つ必要ないと思うけど?」
センパイがうなるようにつぶやく。それを聞いた青木はくくっと笑う。
「あー、オレ、計画立てるのウマいんで。あと作戦も。だから全然、ヨユーっす」
そういって、のそりと立ち上がる。
「じゃ、またな」
「……うん、青木、ありがと」
センパイに腰をかかえられたまま、わたしは小さく手を振る。
青木はそれにこたえるようににかっと笑うと、そのまま来た時と同じように小走りで公園を後にした。
それからどのぐらいそうしていただろう。
夏の強すぎる日差しを放つ太陽が西の街並みに消え、頭上は小さな星が藍色の衣をまとって瞬いている。
この上もなくロマンチックなシチュエーション。
だが、わたしはというとこの状況にひたすら戸惑っていた。
何しろまだ付き合いだして一日もたってないのだ。今まで一番近づいたのがあの告白の時。あれだって家に帰ってからベッドの上で悶絶する勢いだったというのに。
腰に回された手は硬く、強く引き寄せられ背中にはシャツ越しにセンパイの感触がはっきりとつたわってくる。
小さく、だがはっきりと聞こえる心臓の音。
それはあきらかに自分ではないもの。
こんな状況をのんびり楽しめるような根性は残念ながらわたしにはない。
ただひたすらうつむくわたしの耳に、ふいに先輩の大きなため息が飛び込んできた。
「アカリちゃんさ、もうちょっと危機感持とうか」
「へ?」
思わず振り返ったわたしは、センパイのあまりに鋭い視線に口をつぐんだ。
「……彼、アカリちゃんのことが好きなんでしょ? だったら一人でこんなところで会うなんて、ちょっと無謀だとか、考えなしだとか、脇が甘いとか思わないの?」
「だって」
「だってじゃないよ」
先輩は腰に回していた手で、わたしをくるりと反転させる。
そして向かい合ったと同時に、額をごちりとぶつけた。
「……付き合ってすぐにかっさらわれるなんて嫌すぎるからね」
「ご、ごめんなさ」
言いかけたわたしの唇にセンパイの親指が触れる。わたしのものよりも大きな指。それが輪郭をなぞるようにゆっくりと動き、そしてすっと表面をかすめる。
思わず目を見張ったわたしに、センパイは顔をぐっとしかめた。
「……今回のは事故ってことで我慢するけど、次はダメだからね」
こくこくとうなずくわたしに、センパイはふっと笑みを浮かべる。
そしてさっき触れた唇にそっとセンパイのそれを重ねた。
その瞬間、わたしの心臓は大きく跳ね上がった。青木には悪いけど、青木とのキスはまるで握手のようだった。
友達のキス。
それ以上でもそれ以下でもない。
でもセンパイとのそれは、まるで違う。
ただ唇が触れているだけなのに、心臓がねじれるほど痛くなり、体中がバラバラになりそうなほどの衝撃を感じた。
足に力が入らず、ぐにゃぐにゃになる。もし、センパイが腰を抱きかかえていなかったら、わたしはその場に倒れこんでしまっただろう。
ぐんにゃりともたれかかったわたしを、センパイは優しく抱きしめる。
「……三年だよ」
ぽつり、と耳にこぼれた声は、抱きしめる腕とは正反対にひどく頼りなげだった。
「三年、ガマンしたんだからね。少し位いたわってくれてもいいんじゃないの?」
「……センパイ」
ぐっと抱きしめられているせいで、センパイの顔は見えない。
でも、わたしにはわかる。きっとセンパイはこれ以上ないほど情けない顔をしていることに。
あの、学校では文武両道、才色兼備。完璧すぎるぐらいに完璧なのに、どうしてわたしの前だとこんなにかわいくなっちゃうんだろう。
思わず笑いだしたわたしに、センパイは少し困ったように「なに?」とつぶやく。
「ねえ、センパイ」
「んー」
ぎゅうぎゅうと抱きしめる腕が痛い。
でもそれが心地よく感じてしまうのだから、わたしも相当だ。
「大好き」
「……っ」
予想外だったのか、思わずむせるセンパイに、わたしはくすくすと笑った。




