89. 嫌か嫌じゃないかで言ったら嫌
むくれたままのルルシアは標的をディレルに変え、彼の腕をぎゅっとつねった。
「痛い痛い」
「ディルも喧嘩売らないで。お手々繋いで仲良くしろとまではいわないけど」
「喧嘩売ったつもりはないんだけどな」
「売ってたでしょ! あと、アドニスさんやシャロさんたちのこと怒ってたならちゃんと教えておいてよ。わたしずっと、わたしがシャロさんたちに関わるのディルは気にしてないんだって思ってたの。でもずっと嫌な思いしてたのに我慢してたってことでしょ?」
「いや、それは俺の問題だし……」
「は?」
のしかかるようにずいっと迫るルルシアに、ディレルは降参を示すように小さく両手を上げ、苦笑した。
「……わかった。今度からはちゃんと話すよ。なるべく」
「なるべくは余計だけど、まあいいです」
すとんとベッドに腰を下ろしたルルシアの頭をなでたディレルは改めてアドニスに顔を向けた。その目には先程見せた冷たさや鋭さは無く、いつも通り穏やかに凪いでいた。
(いつものことだけど切り替え早いよねぇ……)
いつまでもギスギスされるのも嫌なのでそれで良いのだが、時々ルルシアはその切り替えについていけないことがある。――だが、先程ディレルが見せた怒りを考えると、表面上は何でもないようにふるまっていても内心では気にしていたりするらしい。難儀な性格だ。
「まあ、そういう感情的なあれこれとは別にアドニスさんに確認しときたいことがあったんですよね」
「……呼び捨てで良い。あんたにそういう言葉遣いされると裏がありそうだ」
「ディレル君って笑顔で人殺しそうな雰囲気あるよね」
まったく何事もなかったように丁寧な言葉遣いに戻したディレルに、やはり切り替えについていけなかったらしいアドニスがわずかに眉間にしわを寄せながら苦々しげに言った。そこにセネシオがいらない付け足しをつける。
ディレルはそんなセネシオにニッコリとさわやかな笑顔を向けた。
「……お望みなら?」
「すみません」
口元を引きつらせたセネシオはついっと視線を逸らした。
「お言葉に甘えて言葉は崩させてもらう。……最近までサイカとエフェドラを行き来してたって話だけど、わざわざ何しに? サイカのあたりは討伐隊もまともに機能してないから魔物が多いだろ? あんた一人ならわからなくはないけど、シャロを連れて行くのはリスクが大きすぎるんじゃ?」
「……サイカに物を運ぶ仕事をしてた」
「非合法な?」
「……大部分は合法」
てっきり飲んだり打ったりすると楽しくなってしまうお薬のような、ちょっと法的に問題のあるものなのかと思ったのだが、そうではないようだ。「大部分は」という部分は聞かなかったことにする。
「今のサイカは何もかも不足状態だからね。嗜好品はもちろん、日用品とかでも向こうに持ってくと高く売れるんだよ」
何を運んでいるのか想像できなかったルルシアがぽかんとした顔で首を傾けていると、セネシオが詳しく説明してくれた。特にタバコやアルコールのような、依存性のある嗜好品は高値が付くのだという。しかもサイカ側は魔物の討伐がまともに行われていない。道中にかなり魔物が出るため物資を運べる者は限られており、なおさら儲けが大きくなるらしい。
「へえ……」
「シャロは目立つ上に隠し事できるような奴じゃないから……サイカに入る少し手前のところに昔馴染みが住んでて、いつもそこで預かってもらってた」
シャロは真っ白い髪に黒い瞳の美しい顔立ちの少女だ。この世界では真っ白な髪も黒い瞳も比較的珍しい。ルルシアとは違って周囲に溶け込むのは難しそうである。亜人が迫害される可能性のあるサイカに連れて行くのはあまりに危険だろう。
「えっと、シャロさんを預けてたサイカの手前の……って、例の?」
「ああ」
アドニスたちが工作員たちに与することになった理由についてはルルシアも事前に聞いていた。その『昔馴染み』が原因なのだ。
アドニスがシャロを預けていたのはエフェドラ領のなかでもサイカに最も近い小さな村だった。知人は引退した冒険者で、自分が食べていけるだけの広さの畑の世話をするだけの、静かな暮らしをしていた男だった。
彼が変わったのはエフェドラの中心都市のアルセニアに住む息子が死んでからだった。息子の死にはアルセア教が関わっていた。彼の息子は不治の病と診断された妻に神の子の『特別な治療』を施すため多額の借金を作り、そして治療の甲斐なく死んだ妻の後を追って自殺したのだ。
それからほどなくして知人の家にアルセニアからの来訪者があり、そして彼はアルセア教の清浄派に加わった。正確には清浄派に入り込んだサイカの工作員に唆されたのだが。
彼が丹念に世話をしていた畑が荒れていることに違和感を抱きながらも、アドニスはシャロを伴い彼のもとを訪ねた。自分の仕事の間預けると同時に、可愛がっていたシャロと過ごすことが、息子を亡くして気落ちする彼の慰めになればいいと思ったのだ。
だが――
男は工作員に、シャロのことを話してしまっていた。魔力が強く、更に瘴気を操ることができる――工作員たちは当然、戦力としてシャロを欲しがった。
そして工作員たちの語る『教会の清浄化』という思想に心酔してしまっていた男は、アドニスに対してシャロを清浄派に渡せと繰り返した。「シャロは本来ならば危険な魔族だということを世間に公表する必要があるんだ。だが、そんなことをすればあの子は世界中から命を狙われることになってしまう。――清浄派に協力するのであれば、彼らは仲間として世間からシャロを隠し、守ってくれるんだ」……と。
そんなのは詭弁だし、結局言っていることはシャロを渡さなければ殺すというのと同義だ。だが、シャロを引き渡さないのならば、アルセア教会がシャロを魔族だと公表すると言われ、結局拒否することは出来なかった。
だから、アドニスはシャロを守るため共に清浄派の傘下に入ったのだ。
「……人を信用しすぎるなってことだな。とにかく、サイカに行ってたのは俺一人だ。シャロを連れて行ったことはない」
自嘲気味に口の端を吊り上げアドニスは首を振った。
「まあそれが妥当か。あの子を連れて安全に行き来できるようなルートがあるのかと思ったんだけど」
「行き来だけならそう難しくない。町に入るときの監視だってまともに機能してないから、魔物と戦えるやつなら何とかなる」
つまり大変なのは入った後なのだ。
そして大変なのはルルシアである。ディレルはそれを気にしているのだろう。アドニスは人間だし、ディレルは見た目が人間と変わらない。セネシオは今変身魔法で人間の姿をしている。明確に亜人であるのはルルシアのみなのだ。
(あれ?)
セネシオの変身魔法は一度解除してしまうと次に使うまでのインターバルがかなり長いらしい。ということは、この旅程のために変身魔法を使って人間に姿を変えている彼は、しばらく変身魔法を使っていなかったはずだ。
「ねえ、セネシオさんはこの間サイカに行ってきたんでしょ? テインツ来たときエルフの姿だったってことは、変身魔法は使わずエルフのまま行ってたんですよね?」
「ああうん。エルフのまま行ったけど、基本的に遠巻きに見てただけなんだよね。代わりにエフェドラから来てた冒険者に協力してもらって情報収集してたの」
「そっか……わたし、いまいち、こう……迫害とかされたことがないのでイメージがわかないのだけど、サイカで亜人ってどんな扱いなんですか?」
首をひねるルルシアに、アドニスが遠慮がちに口を開いた。
「だいぶ前だが、半獣の男が捕まってるところは見たことがあるな。窃盗やら暴行やら、あることないこと罪をでっち上げられて収監されるんだと聞いた。その先はよく知らんが……噂では生きて出られたら幸運、らしいな」
「生きて出られたら幸運……」
ある程度危険を覚悟しているとはいえ、ルルシアは根底がザ・平和ボケの日本人感覚なのでまったく現実感がない。
そんなルルシアを見つつ、セネシオが「あー、でもね」と口を開いた。
「特に獣人や半獣への当たりが強いってのもあるみたいだから、エルフも同じかと言われるとちょっとわかんないよ。ただ、ルルシアちゃんは種族関係なしに女の子だからね……普通に、治安の悪いところでは最大限の警戒が必要だね」
「……そういう場所に連れて行こうとしてる張本人がよく言うな」
ディレルがポツンとつぶやく。
その様子に「おや」とセネシオが首を傾げる。
「ディレル君、何も聞かずにサイカ行きを了承したけど実はとても怒ってるね?」
「当然」
「詳しいこと全然聞いてこないから大丈夫かなぁって思ってたんだけど、もしかしてそれは、俺と話すのも嫌っていうあれなの?」
セネシオが両手の人差し指をくっつけ、口をとがらせ拗ねたような声を出した。
さすがのディレルもその態度には嫌そうに顔をしかめた。
「そんな理由で詳細聞かないで危険な場所に行くとかありえないだろ。――俺が断ってもライがダメだって言っても、ルルは一人で行くって言いかねない。霊脈のこととか議会の意向もあるだろうけど、それ以上に助けられるかもしれない相手を見殺しに出来ない性格だろ? それならなるべく側にいる方がまだ安心だから話を受けたし、受けるって決まってるなら細かいことは後で聞けばいいと思っただけだよ」
「なるほど効率重視。つまり俺が嫌なわけではない、と」
「嫌か嫌じゃないかで言ったら嫌だけど」
「嫌なんだ!」
その後、明日以降の予定確認をして解散となった。といってもルルシアが自分の部屋に戻るだけなのだが。部屋を出て斜め向かいの部屋の鍵を開けているところでディレルに呼び止められた。
「渡すの忘れてた。これルルにメリッサから差し入れ」
渡された紙袋からは微かにチョコレートの甘い香りがする。袋を覗き込むと中には紙で包まれたキャンディのようなものがいくつも入っていた。
「わ、ブラウニーだ」
小さく切られ、キャンディのようにオイルペーパーで包まれたブラウニーは前にも貰ったことがあった。ポケットに入れられるので外に出るときに重宝するのだ。
「メリッサさん女神……」と、ルルシアはほくほく顔で受け取り、そしてハッとする。ディレルに改めて言っておかねばと思っていたことがあったのだ。
「あ……そうだディル。ごめんね、心配ばっかりさせて。採石場の時もだけど、今回こういう危ない話にも巻き込んじゃって」
「ルルだって不可抗力でしょ? まあ危険なことしてほしくはないけど……でも、どんな時でも誰かを助けようとするルルのことは好きだよ」
「うん……っ?!」
ディレルの手が伸びてきたのでまた頭を撫でるのかな、と思っているとその手はルルシアの後頭部に回され、もう片手で襟ぐりを軽く引っ張られる。そしてわずかにはだけ、さらされた鎖骨の少し下あたりに噛みつくようにキスされた。
「ディ……ディル……?」
「俺の側から離れないでね」
「う……」
キスされた場所を押さえたまま、顔を真っ赤にして言葉をなくしたルルシアにディレルはニッと笑って見せる。
「おやすみ」
「……おやすみなさい」




