63. 忘れていたいとは
目を開くと、また白い天井が目に飛び込んでくる。
ただし部屋は少し薄暗いため、灯された明かりに照らされて天井に施された彫刻が美しい陰影を浮かび上がらせている。
日が暮れる程度の時間、気を失っていたらしい。
前世の記憶の中で一番思い出したくないことを思い出す可能性がある、とセネシオは言っていたが、生まれたばかりのルルシアが思い出したくなかったのは、体の痛みと家族との離別による心の痛みのどちらだったのだろうか。
前世のあかりや今世の赤ん坊の頃とは違って、今のルルシアは怪我には慣れているし、危ない目にも遭ってきているので身体的な苦痛であれば耐えられるのだが。――ひりつくような『寂しい』という痛みが、やり場のないまま胸のなかに渦巻いている。
ルルシアが起き上がろうと身じろぎをすると、そばで人が動く気配がした。
「…ルル、具合は大丈夫?」
「……ディル」
「水飲む?」
「うん。ありがとう」
ルルシアはベッドに腰掛けていたはずだが、きちんと横たわり毛布もかけられていた。気を失った後にライノールかディレルが寝かせてくれたのだろう。セネシオではないことだけは確かだ。
体を起こしてコップを受け取る。ライノールたちが部屋に訪れてきたのは昼頃だったのに、今は窓の外が暗くなっている。
「ライはもう帰ったけど、明日また来るってさ。…セネシオはわかんないし来なくていいけど」
「ディルはずっとここにいたの?」
「ずっとじゃないけど大体は。俺がいないときはメリッサがいたよ。起きた時誰もいなかったら心細いかなと思って」
「…何から何までご迷惑おかけします」
メリッサは一人でこの屋敷の仕事をしているし、暇を持て余しているわけではないのだ。もちろんディレルだって仕事を抱えている。
「堂々と好きな子の寝顔見てられたんだからむしろご褒美だし」
「寝顔…」
ルルシアはむっと眉をひそめる。
厳密に言うと寝ていたのではなく気を失っていたので、寝顔ではなく気絶顔だ。どちらにせよあまり見られたいものではないが。よだれを垂らしでもしていたらしばらく立ち直れないかもしれない。
「何その顔」
「寝顔を見られたくなかった顔」
ディレルは笑いながらルルシアのそばに片手をついて身をかがめ、もう片方の手でルルシアの前髪をかきあげる。そしてひそめられた眉間のあたりに「ごめんね」と軽くキスをした。
「………」
キスした後、離れようとするディレルの腕を掴んで引き留める。
「…どうしたの?」
「…あのですね、抱きついてもいいですか」
「えっ、あ、うん」
上目遣いでじっと見つめながらルルシアが聞くと、ディレルは少しうろたえながら頷いた。
座って、とベッドをぼふぼふ叩くと、ディレルは戸惑いつつベッドの端に片足を乗せて座った。もう片足はベッドの下に下ろしているあたり、すぐ逃げ出せる体勢に見えなくもない。誰か――特に彼の母が訪れて来た時のことを警戒しているのかもしれない。
ルルシアは彼の首元に腕を回してしがみつくようにきつく抱きつくと、肩口に顔を押し付けて目をつむった。
「…怖いことを思い出したの?」
ルルシアの体がかすかに震えているのに気づき、ディレルは抱きしめ返しながらささやく。ルルシアは顔を押し付けたまま小さく頭を振った。
「…怖い事じゃない。家族の声を思い出したの。今のわたしの家族と、前のわたしの家族、両方とも」
「……」
ルルシアの両親の死にディレルの父が間接的にかかわっている。それについてルルシアにはディレルたち親子を責める気持ちは一切ないし、それははっきりと伝えている。…だからといって、彼らがさっぱり割り切っているのかというとそういうわけでもない。
だからルルシアはいつも意識してなるべく話題にあげないようにしていたのだが、胸の中に渦巻いている感情は一度口をついてあふれだすともう止まらなかった。
「どっちの家族のことも覚えてるし、会えなくて寂しいのはあるけど、もう何年もたってるから平気だって思ってた。…でも声、聞いたら、一緒にいろんなこと思い出して…」
「うん」
「楽しかったこと思い出して、大事にされてたこととかも…でもわたし、誰にもちゃんとお別れ言ってない。ありがとうって言ってない。もう全部どうしようもなくて、苦しい」
自分がこんなに泣けたのか、と思えるほどに大粒の涙がぼろぼろと頬を伝う。しゃくりあげるルルシアのその背を、ディレルはあやすようにぽんぽんと叩いた。
「苦しいのは、皆のことが好きだったからだね。…思い出したくなかった?」
しばらく泣き続け、涙が落ち着いたころにディレルが静かな声で聞いた。
その言葉にルルシアは少し顔を上げ、ディレルの顔を見た。優しい表情でルルシアを見つめる彼の瞳は、ルルシアの好きな森のような緑色だ。
(いつかディレルもわたしを残して先に死んでしまう。その時私はセネシオさんみたいに、懐かしいって笑えるのかな…)
きっと思い出して何度も泣くだろう。でも、忘れていたいとは思わない。
「苦しいけど、声が聞けて嬉しい。…寂しいし、つらいけど、思い出せて嬉しい」
「そっか」
緩く首を振りながら答えると、ディレルは微笑み、指先でルルシアの頬をなでた。
「いつか会えなくなるのは悲しいけど、覚えててくれてたら嬉しいよ。きっとね」
「…うん」
「また泣いちゃったか」
またぼろぼろと泣き始めたルルシアをディレルは小さく笑いながら抱きしめ直した。そして耳元でささやく。
「ルル、キスしていい?」
「…うぇ!?」
ビクッとして咄嗟に体を離そうとするが、体に回されたディレルの腕はびくともしない。なんだか前にもこういうことがあったぞ?と思い出すルルシアの涙は一瞬で止まっていた。
「何その変な声」
「…改めて聞かれると…その…ええと」
今までよみがえった記憶でいっぱいいっぱいになっていて意識していなかったが、冷静になってみれば薄暗い部屋で二人きりなのだ。しかもベッドの上。カアッと顔を真っ赤に染めてしどろもどろになっているルルシアを、ディレルがじっと見つめて、少しだけ首を傾げた。
「だめ?」
だめではない。嫌でもない。だがシチュエーションがまずい…気がする。
前世でも恋人などいなかったルルシアに恋愛の経験値など皆無なのだ。
「……だめ、ではない…けど…キスだけだからね」
「へえ、キスの他って何?」
「…~!、意地悪」
睨みつけるルルシアに、ディレルは笑いながらキスをした。




