62. 一人にしないで
「ライ帰るの?わたしも…」
帰りたい、と立ち上がったときに微妙によろけたルルシアを支えてライノールは眉をひそめる。
「いやお前はさすがにもう少し世話になれよ。三日寝込んでたんだからな?ほとんど食事もしてないっていうし栄養状態だって最悪なんだぞ」
「でも、ならライも帰らないで」
ライノールの服の裾を掴む。
一人でアンゼリカと向き合うとなんだか色々なことが詰む気がする…という言い知れぬ不安が顔に出ているらしく、掴んだ裾を離すまいとするルルシアにライノールはため息を吐いた。
「…ディル、お前の母親どうにかしろよ。せめてこいつが回復するまで」
「うーん…かなり抗議はしたし、なるべくルルに近づくなとは言ってあるから多分ちょっかいは出してこないと思う」
ディレルが肩をすくめる。彼は少し前にライノールにメモ帳を没収され強制的に集中状態を解除されていた。
アンゼリカがルルシアを引き取って来た時の顛末をライノールから聞いたディレルは、その日のうちにアンゼリカには「相手の意志を無視して勝手なことを言いふらすな」と抗議していた。
普段怒らないディレルから本気で怒られ、さすがに彼女も反省しているらしい。「あんなに怒らなくてもいいじゃない」と拗ねつつも、今のところメリッサを介しての様子確認だけでとどめるつもりのようだ…とメリッサから報告されている。
そのあたりのやり取りをルルシアが知ると気にしそうなので説明はしていない。だが、
「…お家にお世話になって、こんな広い部屋用意してもらって、そのくせ構わないでくれというのは申し訳ないどころではなく…」
「むしろルルは誘拐されてきたようなもんなんだから、本当に気にしなくていいんだよ?」
そうは言われても、ルルシアは芯の部分に日本人の卑屈さが染みついているのでなかなか割り切れない。――そんな風にしゅんと落ち込む様子のルルシアの肩に手を乗せ、セネシオが優しい笑顔を浮かべた。
「広いベッドで一人寝が心細かったらいつでも添い寝するよ?」
「「お前は帰れ」」
ディレルとライノールの声がきれいに重なる。
ルルシアは顔をしかめて肩に乗せられた手を叩き落とした。「痛い!」と全く痛くなさそうな笑顔で言った後、セネシオは「あ、そうだルルシアちゃん」と人さし指を頬に当てて首をこてんとかしげた。大人の男がやる動きではない気がするが、彼がやるとそれすら絵になってしまう。
ルルシアは若干イラッとしながら「なんですか」と返事をする。
「ルルシアちゃんの記憶の封印、解けかけって言ったけどどうせしばらく療養するなら完全に解いておく?長く封じられてたから、多分解けた直後は魔力制御が不安定になると思うんだよね。戦闘中とかに制御できなくなったら困るでしょ?」
予想外の言葉に少し固まる。記憶が封じられていても特に不便を感じていないし、解けかけているなら放置でいいかな…と思っていたのだが、戦闘中に制御不能になってしまうのは困る。
「…解けるなら、解いてもらいたいです」
「うん。ただ注意点があって…。前世の記憶の中で一番思い出したくないこと思い出す可能性が高いから覚悟はしてね。赤ん坊の時ひきつけ起こすくらいだったって言うし、死ぬ瞬間の記憶かなぁ…」
死ぬ瞬間の記憶――確かにルルシアが今思い出せるのは階段から落ちたところまでで、その後の水森あかりがどうなったのかはわからない。ということは、その辺りの記憶は特に厳重に封じられている…ということはありうる。
無意識にライノールの服の裾を握ったままの手にぎゅうっと力が入っていた。それに気づいたライノールは子供をあやすように頭をグシャグシャとなでてくれる。
「…このまま放っておいてもいずれ思い出すかもってことですよね」
「遠からずね」
「なら今、お願いします」
「わかった。しばらく意識失うかもしれないから、座ってね」
頷いてベッドの縁に座り直す。
セネシオの手が伸びてきて、ひやりとした指が額に触れる。
その触れた指からほのかに熱を感じた次の瞬間、ルルシアの意識はブラックアウトした。
**********
なんかすごい音がしたぞ もしかして建物が崩れたのか
いや、女の子が 救急車呼べ! おい大丈夫か!
あそこから落ちたのか だから早く取り壊せって
ああひどいな… これは助からないんじゃ…
ぼんやりした全身の痛みと、ところどころ酷く冷たさや熱さを感じる部分がある。
階段から落ちた後の記憶だろう。
きっとひどい怪我をしているのだ。
知らない声が沢山聞こえて、そのうち救急車のサイレンが響いてきた。
そこの高校の制服だ 学校に連絡してやれ
学生証がある 学校から家族に電話を
「水森さん!水森あかりさん!声が聞こえますか!」
『そんなに大きな声出さなくても聞こえますよ』
あかりの返事は声にはならなかった。
代わりに空気が漏れるような音が少しだけした。
「頑張って、すぐ病院につくからね」
暗転。
多分意識を失ったのだろう。次に周囲の明るさを感じたときには別の場所だった。
白くボコボコとした天井板が見える。音楽室と同じ天井だ、とぼんやりと思った。
すぐそばに人の気配がある。…けど、体が動かないので姿は見えない。
「あかり、馬鹿。夜ふかしやめなさいって言ったのに」
「お姉は馬鹿でも元気だけが取り柄だったのに、元気すぎて事故にあったらだめじゃんか!」
「馬鹿あかり…父さんたちより先にいくなよ…」
え、なんでみんなして人のこと馬鹿馬鹿言うの?
いや確かに賢くはないけどさ。多分この場面で口揃えて言うことじゃないよね?
てか、馬鹿はそっちだよ顔見せて。天井しか見えないよ。
もう目が霞んで見えなくなってきちゃったじゃん。
やだよ、寂しい。お父さん、お母さん、のぞみ。
寂しい。一人にしないで。
***
「もーう!離れるのは嫌みたいだし体が浮くのも嫌いで抱っこも嫌がるし、どうしたらいいのよ~!」
「一回占ってもらったらどうかってさっきアニスに言われたけどどうする?」
「そうね、このままだとこの子も私達も体がもたないわ」
ひどく懐かしい声が聞こえて再び明るさを感じる。ルルシアの父と母の声だ。
『占術の得意な奴に占ってもらった』とライノールが言っていたのでその話だろう。
「前世の記憶?」
「転生した魂ってやつはどうしたって一度『死』を経験してるから、恐怖が焼き付いちゃってるんだろうねェ」
「前世の記憶を封じたらいいのかしら」
「それが出来るなら、本人が受け入れられる歳になるまで記憶を封じるってのはありだと思うよォ」
「記憶の封印かぁ」
「ジル、今こそ魔法オタクの貴方の活躍のときよ」
「あいかわらずの無茶振りを…やってはみるけど、特定の記憶だけっていうのは難しいよ。多少魔力の循環にも影響が出ちゃうかもしれない」
「このままじゃ生きられないかもしれないんだから背に腹は代えられないわよ」
「ま、そうだね」
ルルシアの父と母が顔を覗き込んでくる。母が小さく手を振った。
「生まれる前のルルだった人。貴方の記憶をしばらく封じるけどごめんね。ルルが大きくなったらまた会いましょう」
父の手がルルシアの目を覆う。
暗くなって、声だけが遠く聞こえる。
「あれ、何やってんの?ルルがどうかした?」
「あらライいらっしゃい。今、ルルの記憶をね……」
「……」
話し声がどんどん遠くなる。
そっか。わたし、大きくなったけどお母さんたちに会えなかったね。




