57. シャロから見た世界
魔力の波長を合わせるのは楽器のチューニングのイメージ。微調整していくと不協和音が消えてピタリと合う瞬間がある。のだが、
(周波数が微妙にズレたラジオみたい…)
合っているはずなのに、どうにもノイズが入ってしまう。ノイズ――ザラザラしたこの嫌な感じが瘴気なのだろう。それならこれはこれで受け入れるしかない。
ふう、と息をはきつつルルシアは閉じていた目をゆっくりと開く。そして、目に映る先程までとは違う風景に驚いてしばらく瞬きを繰り返した。視界のあちこちに真っ黒な霧がかかっているのだ。
(これが…シャロから見た世界…?)
ルルシアの目には薄闇を纏った陽炎に見えていた瘴気は、シャロにはこんなにはっきりと視界を遮る障害物として映るらしい。
とはいえ、目の前の瘴気に気を取られている場合ではない。まず視線を倒れた男に向ける。男は全身が黒い霧に包まれていて、かろうじて見える腕から指先に向けては体自体が真っ黒く染まって見える。
とにかく少しでも彼の負担を減らすために、この霧を引き離さなければ。
そのためにはシャロの魔力と同調して、彼女のふりをして彼女の能力を使う必要がある。ただ、以前同調した湖の水のような無生物ならば抵抗はほぼないのだが、意思のある相手の能力や魔力を使うのは当然相手からの抵抗があるのだ。
今シャロはほぼ意識が混濁しているような状態だが、それでも拒絶されている感覚があった。
ルルシアはシャロの手を両手で包み込むと、祈りを捧げるように自分の額に当てた。
「この男の人、アドさんを助けるのにあなたの力が必要です。お願い…協力して下さい」
小さく呟くルルシアの言葉に反応して、シャロのまぶたが薄く開かれ、虚な瞳から涙が一粒溢れた。
「……や……いで…」
いや、アドに触らないで。
同調している状態だからだろう、途切れ途切れの言葉でも理解できた。言葉の意味と一緒に強い拒絶感も伝わってくる。
彼女は誰も信用できないのだ。アド以外の誰も。
「…どうもうまくいかなさそうだね?」
頭上からセネシオの声が降ってきてルルシアは渋面になる。集中を乱さないで欲しい。
「…同意は必須じゃないんです。集中するので黙っててください」
「へえ?まあお手並み拝見だね」
抵抗があろうと、無理やり乗っ取ることはできるのだ。ただちょっとばかり、いや、だいぶ精神力を使うだけで。
ルルシアはシャロのもう片方の手を取った。ルルシアの左手とシャロの右手、ルルシアの右手とシャロの左手が繋がれて、円ができる。
――わたしの手の先にあるのは、意志を持った生き物じゃなくて魔力の通り道。いつも使っている弓と同じ、魔力を増幅して操るための『補助具』。補助具に意志はないから拒絶など起こり得ない。ただ、ちょっと強めの抵抗があるだけ。
ルルシアはそう自分に言い聞かせながら、一段、また一段と階段を下りるように深く集中していく。
「なに…?…や…!」
自分の魔力に介入される感覚が嫌なのだろう、シャロが顔をゆがめ、手を振りほどこうとする。だが体が弱っているうえにルルシアががっちりと指を絡ませているので振りほどけない。
シャロが離れようと抵抗する間も、ルルシアは絡ませた手のひらから自分の――今はシャロと同調させた魔力を流し込んで、干渉を強めていく。
(…うん、大丈夫そう。乗っ取り完了――さて、ここからだ)
瘴気はざらざらしていて、肌が粟立つような嫌な気配が混じっているのだが、本質的な部分はシャロの魔力の波長と同じものだ。シャロの魔力を操るのと同じ感覚で、ある程度の操作が出来そうだ。
ルルシアは改めてアドに視線を落とす。シャロの手に絡ませていた片手を離して、うつぶせに倒れているアドの背に触れた。…毒を吸い出すように、吐き出させるように、瘴気を彼の体から取り除く。
これはわたしの魔力。だからわたしのいうことを聞いて。
――この体から離れて
アドの体の、ルルシアの手のひらが触れた場所から黒い煙のように瘴気があふれ出した。あふれた瘴気はふわりとアドの体から離れると、ルルシアの目の高さ辺りまで細く立ち上り、小さく渦を作りながらゆっくりと一つの塊を作り始めた。
やがて、その塊がビー玉ほどの大きさになったあたりで瘴気はほとんど出てこなくなった。吸い出せるのはこれが限界ということだろう。
アドの全身を覆っていた黒い霧はほとんど残っていないが、始めから黒く染まっていた指先は残念ながらそのままだった。
それでも、瘴気がだいぶ抜けたことで体への負担は減っているはずなので、適切な治療が受けられればまだ命は助かるかもしれない。
「ここまで、です。あとは病院で治療を…」
ルルシアは顔をあげてセネシオに告げた。顔を上げた瞬間にぐらりと眩暈を感じて軽く頭を振る。まだ倒れるわけにいかない。そのままシャロに視線を向け、先ほどと同じ要領で瘴気を集めて一つにまとめる。ついでに、周囲の空中に漂っているものも集められる限り集めた。
そして、
最終的にルルシアの目の前に浮かぶ塊は、直径五センチメートルほどの漆黒の球体となっていた。――正真正銘、高濃度に凝縮された瘴気の塊である。
(ダークマターを作りだしてしまった…)
ひとまず集めてみたものの、こんな高濃度の瘴気をどう処理したらいいのだろう。ものすごい勢いで魔物が集まってきそうだし、そうでなくともたまたま知らない人が触れでもしたら即死してしまいそうだ。とんでもない危険物である。
「これ…どうしよう…」
しばらくじっと見つめてみたもののルルシアの頭で解決策など浮かぶわけもなく、ライノールの方を向いて助けを求める。その弱り切った声に、脇にいたセネシオがぶはっと噴き出した。
「あはははは、何も考えてなかったの?ルルシアちゃんは面白い子だなぁ」
「くっ…!…面白がる前にこの男の人を病院に連れてってあげてください!セネシオさんは転移できるんでしょう?」
セネシオはキッと睨みつけるルルシアの頭を大笑いしながら撫でると、瘴気で近づけずにいたライノールとディレルに手招きをした。そしてシャロの方を指さす。
「もう空気中には瘴気無いから近づいて大丈夫だよ。俺は怪我人を医者の所に投げてくるから、ちょっとの間この女の子見張っててよ。…そのルルシアちゃん特製の瘴気ボールは後で何とかするから、ひとまずライノールさん、結界かなんかでかこっておいて」
「ああ、それは構わんが…この白髪娘のことはエルフ事務局に連絡するぞ」
駆け寄ってきたライノールが素早く瘴気の塊を小さな結界に閉じ込めながらそう言った。シャロはエルフが追っている相手なので、見つけた以上報告しないわけにはいかない。
「あー、そうだねぇ…うん。まぁ、事務局の連中がここに来る前には戻ってくるから良いか。もし事務局の人たちが先に来て、この子をどこかに連れて行こうとしたら引き留めておいて」
「…まあ出来る限り」
「うん。じゃあ行ってきます」
その言葉が最後まで終わりきらないうちにセネシオとアドはその場から姿を消した。アドにもたれかかるような格好になっていたシャロはそのまま前のめりに倒れてしまう。
ルルシアはシャロを支えるために手を伸ばそうとしたのだが、その前に自分自身がぐらりと傾いでしまい慌てて地面に手をついた。手をついた横にポタ、ポタと誰かの血が落ちる。
「あ…れ?」
自分の顔に触れるとぬるりとした感触があって、手を確認すると血がついていた。ぽかん、とその血を見つめる。
ルルシアの顔を見たディレルとライノールがびっくりした顔をしていた。
「…鼻血出したの何年ぶりだろう…」
「そんなこと言ってる場合か!」
「魔力の使い過ぎだ馬鹿!ディル、そいつ草のうえに転がしてこい!」
ガンガンと痛み始めた頭でぼんやりと最後に鼻血を出したときのことを思い出そうとしていたルルシアは、ディレルとライノールにかなり本気のトーンで怒鳴られ、木陰の柔らかな草の上に横たえられてそのまま意識を失った。




