36. 特別な子供
日が昇る頃にはハオルの容体はだいぶ安定していた。
まだ目は開けていないものの、顔色はだいぶ良くなっているのでもう大丈夫だろう。一晩中ハオルの手を握っていたルチアは今、ハオルと同じ部屋にベッドを用意してもらい、そこで休んでいる。
「ライノールさんが来てくださって助かりました。本当に清浄派の手先は忌々しい…」
来賓用の小ホールの椅子に腰かけ、センナは重苦しいため息とともに言葉を吐き出した。
キンシェが心配していたように、案の定大聖堂の方では集まった人々の中で問題が起きていたのだった。
『神の子は魔族の血を引いているから魔物をおびき寄せる。長い間教会に軟禁状態で神の子が外に出なかったのはその事実を教会が隠そうとしたからだ』
などと主張を始めた(おそらく)清浄派の手先とその主張に扇動された人々、それに対して事実無根と激高する教会派が衝突して収拾がつかなくなっていたらしい。
そこへライノールが現れ、以前からエルフが教会裏森の異変を感じ取っており、そのため事務局から自分が派遣されていた。偶然神の子の来訪と時期が重なってしまったものの、先程の魔物の襲撃はすでに収束し、今後の対応のためすでに冒険者ギルドが動いている…など、諸々でっち上げてもっともらしく説明したそうだ。
ライノールが防壁によって魔物を防いだことはほとんどの人々が見ていたため、パニックになっていた人も「エルフがそう言うのなら…」と落ち着きを取り戻したらしい。
「魔族の血をひいているとはまた突拍子もない…」
取り置いてもらっていたドーナツにかじりつきながらルルシアはつぶやいた。
魔族というのは人と似た姿をしているといわれる魔物だ。強い魔力と残忍な性格で世界を蹂躙する邪悪な存在で、神々に滅ぼされたとされている伝説上の生き物である。実在したという記録はなく、フィクションの存在であるとされている。
「神の子をめぐって昔からそういう話は細々とあったみたいだな。反教会派が唱えてる根拠なしの説の一つだ。エルフがされてるのと同じように、自分らの理解できない力が怖いから排斥しようとして適当な理由をつけてるのさ」
そう言いながらライノールはルルシアが淹れたお茶に口を付けた。教会の気遣いで彼の分もドーナツが用意されているが、ライノールは食べないのでルルシアのものになる予定である。
「…そんなの信じる人いるの?」
「魔物に襲われてパニックになってるところに、原因はこれだって言われてしまうと人は意外とすんなり信じてしまうものだったりするんですよ」
眉をひそめたルルシアに、センナは苦笑する。
そんな話を今の双子たちに聞かせたくない。ここにハオルとルチアがいなくてよかった、と思いながらライノールの分のドーナツにも手を付ける。
「ルルシアさんいい食べっぷりだね。俺の分も食べる?」
「いいんですか!?」
「お前…」
キンシェが差し出してくれたドーナツにすぐさま手を伸ばしたルルシアをライノールが呆れたような目で見ていた。「だって森に戻ったらめったに食べられないでしょう」とルルシアは口を尖らせた。
「いっそ二人ともアルセア教会に来たらどうですか?ドーナツいくらでも食べられますよ」
「うちのちびを餌で釣るな」
「…いくら何でも釣られたりしないよ」
さすがにルルシアでも食べ物で釣られて自分の行く末を決めるほど愚かではない。だから今一生懸命食べているのだ。
ついでに言うと、ルルシアが特に好きなのは肉なのだが、アルセア教ではあまり獣肉を食べないらしい。論外だ。
「ははは、本当に来ていただければ助かりますけどね。さすがにエルフの方々は色々決まりがあるのでアルセア教とそこまで深くかかわれないでしょう」
「そうですね。ただでさえ俺らは諸都合でテインツに足止め喰って事務局からいいように使われてる状態で、決定権なぞないので」
困ったように笑うセンナに、ライノールがおざなりに返事をする。その返事にセンナは更に苦笑を深め、そしてふっと目を細めた。
「教会の方で清浄派の中枢とコンタクトが取れたという話が来ていますので…どちらに転ぶにせよ、数日中にはこの状態に決着がつくと思われます」
「…まあ、上手くいくといいな」
「まったくもってその通りですよ…」
はあ、とセンナが再び重いため息をつく。交渉決裂すればこの緊張状態が続く。しかし、交渉が成立したらしたで今度は教会派と敵対することになる。彼の心労はまだ続くようだ。
「…ん、通信か」
ライノールのつぶやきから少し遅れてルルシアの周りにも蛍のような光がふわふわと飛び回り始めた。
ルルシアがその光に触れると、光る文字が目の前に浮かび上がる。
襲撃者の中にシャロと呼ばれるエルフの少女がいたこと、そしてそのエルフが瘴気を操り、転移魔法を使っていたこと――。
ライノールが昨夜のうちにそれらをエルフ事務局へ通信で報告していたのだが、その報告への返事がユーフォルビアから返ってきたのだ。ちなみにきちんと読めるので、文字を書いたのは事務局スタッフだろう。
光る文字を読んでいくと、シャロという名前、そして外見的特徴と合致するエルフは少なくともテインツ領内の集落には存在しない。これから他領へも照会し、同時に注意喚起と発見次第捕縛という措置を執ることなどが書かれていた。
それに加え、現時点でテインツでは確認されていないものの、他領において、本来ならば発生するはずのない場所に瘴気が湧きだして魔物が集まり、人を襲うといった事件が発生しているとあった。
「瘴気の発生にあのエルフの子が関わってる可能性が…ってことね」
「ああ。あの時、あのエルフと一緒にいた男は瘴気を使うのを止めようとしてた。多分そういう手段が使えるってことを見られたくなかったんだろうな」
あの男が転移する前に顔を歪めていたのはそういうことか、と思い出す。瘴気を操れる者がいるなど普通は考えもしない。だがこれからは不自然なところで瘴気が発生したらすぐに彼らの犯行と結び付けられるのだ。彼らの仕事は格段にやりにくくなるだろう。
(瘴気を作り出して、操れるエルフかぁ…)
瘴気を作り出す方法が分かれば分解したり発生を防ぐことも可能になると考えられるため、研究はされているらしいが現時点では人為的に瘴気を作り出す方法は見つかっていない。
エルフの世界はもちろん、エルフがその情報を公にするのなら世界的に激震が走るだろう。エルフに対する風当たりもこれからは強くなるかもしれない。
カチャン
暗澹たる気持ちで、それでもドーナツを食べる手は止めずに考え込んでいたルルシアの耳にかすかな音が届いた。
音のした方に顔を向けると、双子の眠っている部屋の扉が開いて足音を忍ばせながらハオルが出てきた。ルチアが眠っているので音を立てないようにしているのだろう。
「ハオル様、目覚めたんですね。よかった。でもまだ起き上がらずに休んでいてください」
すぐにセンナが飛んでいって部屋に戻そうとするがハオルは「もう大丈夫だから」と首を振った。
「それより飲み物をもらえますか?部屋の水差しを使うとせっかく眠ったチアとカリンが起きちゃいそうなので」
「すぐに用意しますね。座って待っていてください」
申し訳無さそうに言うハオルの言葉に、ルルシアはすぐにポットに向かった。ハオルは汗をかいているし、お茶よりも湯冷ましがいいだろう。それならカップに注ぐだけなのでルルシアにもできる。
「カリンも寝ているんですか」
「彼女も夜通しついてたからまあ許してやってください」
若干眉をひそめたセンナに、キンシェが苦笑する。
「どうぞ、ハオル様」
ルルシアが差し出したカップを「ありがとうございます」と受け取ったハオルは上目遣いにルルシアを見つめて、「あの」と口を開いた。
「昨日…もう昨日ですよね。僕昨日の夜、ルルシアさんとチアが話してるの聞こえてたんです。それで…ありがとうございます。チアはすぐ自分を責めるから、『自分を責めることに意味がない』ってはっきり言ってくれて嬉しかったんです」
僕がそんなことないって言っても聞いてくれなくて…と彼は苦笑する。
「僕が教会に引き取られる時、チアは僕を一人にしないために、自分が年齢以上の知識を持ってることや増幅能力があることをわざと見せて、僕とセットの特別な子供として一緒に教会に来てくれたんです…僕はチアに感謝の気持ちしかない」
ハオルはそこまで言うと、ふう、と息をついた。ルチアのサポートがあったとはいえ、彼は先程まで瘴気と戦っていたのだ。キンシェがすっと立ち上がると、「失礼しますね、もう少し休んでください」と抱え上げた。
ハオルも言いたいことを言ったからか、大人しく寝室に連れ戻されていった。
「内部のすべての問題が片付いたら、二人が家族に会ったり、街に遊びに出たり…今までの彼らが教会に奪われていた、普通の子供のように振る舞える環境を、彼らに渡してあげたいんです」
センナは二人の姿が見えなくなると、ぽつんとつぶやいた。
評価、誤字報告ありがとうございます!




