153. 気まずいかも
テインツに戻ったその日は報告を終えた足でそのまま自室に戻り、何とか旅装だけは解いてベッドに飛び込みひたすら眠った。
翌日かろうじて昼前に目覚めたルルシアは、焼き菓子を片手にテインツの教会へ足を伸ばし、司祭のマイリカに面会してアドニスの現状を説明して、できればシャロと引き合わせたいと考えていると伝えた。
(反対されるかな…)
理由があるとはいえ、アドニスはこの教会を襲ったという事実がある。教会側からしてみればどう頑張っても印象が良いとは言えない相手なのだ。
しかし、マイリカはいつものふんわりとした優しい笑顔を浮かべ、嬉しそうに頷いた。
「ええ、是非! むしろこちらからお願いしようと思っていたんですよ」
「え…? ええと…シャロさんはやっぱりこう…ここにいるのは難しそうですか?」
身柄を引き取った教会の方からわざわざアドニスと引き合わせることを望むとなると、考えられるのはシャロがアドニスに会いたいと駄々をこねたか、それとも元保護者がいなければ手に負えないような状況なのか…。
「いいえ、シャロさんは素直な子ですし、彼女自身、何とかここに馴染もうとしてくれているみたいです」
あまりよくない方向に向かったルルシアの思考を断ち切るように、マイリカはきっぱりと頭を振って否定した。
「…ただ、あの子の心にはぽっかりと大きな穴が空いているように見えるんです。人から愛情や慈しみを注がれてもそこからさらさらと零れ落ちていってしまう。どんな言葉をかけても、あの子の心を温める前にすり抜けて消えていく。…きっとそうやって良いことも悪いことも全て心に留めないというのが、他人の悪意から自分自身の心を守る方法だったのでしょうね」
悲しげに微笑んだマイリカにルルシアもつられてしょんぼりとする。
「そう、ですね…」
と、それに気づいたマイリカは「ごめんなさい、雰囲気を暗くしてしまいましたね」と空気を切り替えるように明るい声を出した。
「もちろん私たちはその穴を埋める手伝いをするつもりです。けれど、信頼する人が側にいて支えてくれたらずっと早く埋まっていくと思うのです。だからアドニスさんがシャロさんの側にいてくれるのは願ってもない事なのですよ。…それに、こうやって気にかけてくれる友人の存在も」
そう言うと、マイリカはルルシアの手を取ってウインクして見せた。
***
「でも、シャロさん…私の顔を見るなり『アップルパイは!?』って」
「お前の存在アップルパイ以下だったな」
「うぐう…」
エルフの事務局のテーブルにべちょりと潰れたルルシアの嘆きにライノールがぞんざいな言葉を返す。
二人ともユーフォルビアから今日は休みでいいと言われていたのだが、ライノールは溜まっている書類が気になると言って結局書類整理をしている。
ルルシアは教会に行った帰りになんとなく足を運んだだけで、仕事をする気はなく談話スペースのテーブルを占領していた。
そんな二人のやり取りをニコニコ見守っていた事務局の同僚であるユッカは、小さく首を傾げた。
「アップルパイってあのランバートさん家のメイドさんが作ってくれるやつかな?」
「そうです。一度持っていったら大層気に入ったみたいで、ことあるごとに持ってくるように催促されるんです」
「局長もおいしいって言ってたからねえ。そんなに評判がいいとなると僕もちょっと食べてみたくなるな」
相変わらず色気あふれる笑顔――セネシオなどと違い天然の色気なのがすごいとルルシアは見るたびに感心してしまう――を浮かべ、ユッカは「前にごちそうになったご飯もおいしかったよねえ」と朗らかな声を出した。
「メリッサさんの作る料理はなんでもおいしいんですけど、特にアップルパイが絶品なんですよ」
「あの小娘のところに行くときは事前に頼んでおけよ。確かサイカに向かう前にも頼むとか頼まないとか言ってただろ」
「…言ってた。言ってたけど…あの時は頼むの忘れてて」
思わず目が泳ぐ。
サイカに向かう前にシャロにアップルパイを要求され、ディレルを訪ねるついでにメリッサに作ってもらえるか予定を確認しようと思っていた。
だが――その日、突然ディレルから結婚しようなどと言われて動揺したルルシアは色々と記憶が吹っ飛んでしまい、帰りがけにメリッサに予定を確認するどころか、アップルパイの事自体すっかり忘れていたのだ。
「で、休みだってのに珍しくここにいるのはディルに会うのが気まずいからか」
「べっ…つに、気まずくは…」
ニヤッと笑ったライノールにずばりと核心をつかれ、思わず声が上ずる。
そう、気まずい。
ルルシアは休日には大体街に繰り出して露店を冷やかしているのだが、今日はディレルやランバート夫妻と鉢合わせしてしまうのを避けたくて出会う確率の低そうなエルフ事務局にいるのだ。
そして、気まずさの理由はディレルとの約束である。
『結婚しよう』と言われて頷いたものの、ディレルとの間で具体的に何をどうという話はまだしていない。サイカからテインツに戻るまで、大体周りに他の人がいて二人きりで話をする機会がほぼ持てなかったというのもあるし、ルルシア自身がなんとなくうやむやにしたくて逃げていたというのもある。
決して結婚するのが嫌なわけではない(と、思う)。
が、ルルシアはこの世界では成人しているといってもまだ十七歳で、前世だったら親の保護下にある年齢だ。
(でも親の同意…は取りようがないか)
ディレルの方の両親――ランバート家の方はむしろ手ぐすね引いてルルシアを引きずり込もうとしている気配すらあるので、反対されることはないだろう。
つまり、この話は転がり出したらルルシアを置いてけぼりにして加速してしまう可能性が高い案件なのだ。
ディレルの言う『テインツに戻ったら』、という約束は『戻ってすぐ』なのか。
すぐ、だったとしたらどの程度『すぐ』なのか。
(嫌じゃない…嫌じゃないけどもうすこし冷静に考える時間が欲しい…だって結婚したら一緒に暮らすんでしょう?)
一緒に暮らすって…!
――と、考えてみて、ん? となる。
以前療養のためにランバート邸で部屋を与えられて過ごしていた期間は、ほぼ一緒に暮らしているようなものだった。
もちろん妻となれば妻としての役割があるだろうが――。
家のことはメリッサがいるし、特段ディレルやクラフトギルドの仕事を手伝う必要もないので今のまま継続してエルフ事務局で仕事することになるだろう。
(あれ、別にそれほど今までと変わらないのでは?)
むしろ堂々と一緒にいられる時間が増える。
(え、それは普通に嬉しい。…でも待って? 今までキスだけーとか、まだ無理ーとか言って逃げてたこともするってことですよね? 夫婦になるんだもんね?)
………。
「……気まずいかも」
再びテーブルにべしょんと潰れたルルシアに、ライノールがくつくつと笑った。
「…ていうか、ライ、もしかしなくてもディルに聞いた?」
「何のことを言ってるかは分からんが、多分聞いたな」
ルルシアが僅かに顔をあげてライノールを見ると、彼はにやにやしたまま頷いた。
その横ではユッカが不思議そうな顔をしているが、彼はライノールと違って気遣いのできる人なので口ははさんでこなかった。
これがもう一人の同僚であるベロニカだったらしつこく聞いて来ただろう。今この場にいたのがユッカで助かった。
「うー…そのうち話そうとは思ってたんだけど…」
ルルシアはテーブルに顎をつけて、上目遣いにライノールを見たまま口の中でうにゃうにゃと言い訳するように言った。
自称保護者で実質唯一の家族ともいえるライノールに話をしておかなくては…とずっと思ってはいたのだが、踏ん切りがつかずにいたのだ。自分から話をしていなかったのがまた気まずさを加速させる。
「ま、そんな気にすることでもないだろ。今までほぼ嫁って扱いだったのが名実ともにディルの嫁になるだけだろ」
「なっ…わっ…」
ライノールの言葉が発せられた、そのタイミングを狙いすましたかのようにユーフォルビアが部屋に入ってきた。というよりも、ライノールがユーフォルビアのやってくる気配に気付いてわざと言ったのだろう。
その証拠に、ルルシアが慌てながらライノールをキッと睨みつけると彼は顔をそらして肩を震わせていた。
「おや、興味深い話をしてるね?」
「ええと…僕、席外した方がよかったかな?」
「もうておくれです…」
ニィッと笑顔を浮かべたユーフォルビアと、気の毒そうな顔のユッカの言葉を聞きながらルルシアは顔を覆い、三度テーブルにへばりついた。
「なんだかすごくおもし…おめでたい話みたいだし、せっかくだからアニス・オーリスに連絡しようか? それとももう連絡済み?」
「わたしはまだ話してないですけど…局長、今面白いって言いましたよね」
「ははは、気のせい気のせい」
へらへら笑うユーフォルビアとは正反対に、ライノールは眉間に皺を寄せた。
「ああ、アニスの問題があったか…さすがにディルが哀れすぎるがいずれ越える必要はあるな…」
哀れ? と首を傾げたルルシアを無視してライノールは少し考え込み、そしてハッと思いついたように顔をあげた。
「おいルル、そういえばお前いつまでアニスのこと森長って呼ぶんだよ。お前の所属はもうオーリスの森じゃないんだから森長呼びは変だろ。名前で呼んでやれよ」
「名前…アニス? ……なんか慣れてなくて照れちゃうね」
アニス、アニス…と口の中で呟いて照れ照れとしているルルシアの様子を見ながら、ユーフォルビアは思わず唸った。
「なるほど、考えたねライノール。アニス・オーリスがルルシアの前で鼻血を吹いて倒れないかは心配だが」
「まあ目の前で花婿が氷漬けにされるよりはいくばくかはマシでは」
「うん…? 何か物騒な話してない? オーリスの森長に話するだけだよね?」
おかしなことを言い出した局長と真剣な顔で言葉を返す同僚の姿に、色々と置いてけぼりのユッカは不安げにその形の良い口元を引きつらせた。




