119. 静かで落ち着いた歌を
子供が眠って…未だ身動きしている様子はないが、ユラが言うには呼吸はしているらしいのでおそらく眠っているはずだ。
とにかく、その部屋で薬草の葉を焚いてから扉を再び閉じた。
燻すと催眠作用のある薬草で、眠りを深める効果がある。これともう一つ、別の薬草を合わせて焚くと半覚醒状態になって、その状態で繰り返し言い聞かせた言葉は意識の底にこびり付き、本来の記憶との区別が曖昧になる。軽い洗脳のようなものだ。ザースやアナベルで何回か使って、成果を上げている方法である。
まずは催眠状態でしばらく置いて、その後…
『……!』
外で賑やかな声が響いた。
内容は聞こえないのだがどうやら広場の方で何かやっているらしい。酔っ払いが喧嘩を始めたにしては明るい声だ。喧騒というよりも歓声と言ったところか。
無視したいところだが、今この家の周りであまり騒がれると洗脳に影響が出るかもしれない。何が起こっているのか確認して、場合によっては行動を起こすタイミングをずらす必要がある。それに、ユラの耳が先程から落ち着かずにピクピクと動いているので相当気になっているのだろう。放っておくと自分で確認に行くと言い出しかねない。
ストラは小さくため息をついて一度外した仮面で再び顔を覆った。
「様子を見てくる。今度は絶対に外に出るなよ…それと、奥の部屋は薬を焚いてるから入るな」
「へいへい」
ユラはテーブルに突っ伏したまま不満げに尻尾をビタンと椅子に叩きつけて返事をした。
小屋の中を見られたくないため、ストラは外に人の気配がないことを確認したあと扉の隙間から身を滑らせて外に出た。
先程の歓声は今は静まり返っている。何をやっていたのかはわからないが、もう終わったのかもしれない…そう思いながら広場の方へ歩いて行くと、次第に女の声が聞こえてきた。――どうやら歌を歌っているようだ。微かにギターの音も聞こえてくる。
――ねえ、
その言葉で その指先で
深く傷をつけて
この心に 私の背中に
決して消えぬ貴方のかたちを刻みつけて
歌っていたのは黒髪の女だった。
質素なドレスにレースのベールという装いは、たまに酒場で見かける歌姫を思わせる。旅の芸人が歌を披露して客を集めているのだろう。歌い終わった後に『どこどこの店で何日後まで歌っています』と宣伝をするというのは、サイカでは数少ないがそれでもたまに見かける。
注目すべきはその女だった。目元までベールをかぶっているのではっきりとは見えないのだが、かなりの美人であることは間違いない。おそらくアナベルよりも。そして、顔立ちにやや幼さが残るというのに、陶然とした表情で歌い上げる様は歌詞の内容と相まって妖艶な空気を醸し出していた。
周りを囲んでいるのは概ね酒場の客だろう。酒が入って赤い顔をしている者も、通りがかっただけといった雰囲気の者も、皆一様に足を止めて静かに女の歌に耳を傾けている。その中には先ほど話をしたストラの同僚の姿も混じっていた。
先ほど聞こえた歓声は一曲歌い終わった時のものなのだろう。そしてまた歌い始めたので静まりかえっているのだ。
歌が終わり、再び歓声が上がった。
一緒になって聞き惚れていたストラもその歓声にはっとする。
こんなところで歌を聴いている場合ではない。騒ぎの原因はわかったのだから、もう目的は達成している。早く戻らねばまたユラが勝手に動き回るかもしれない。早く元来た道を戻ろうと、きびすを返したその時。
「あの、そちらのマスクをされている方」
歌姫の言葉に、周りの観客たちの視線がバッとストラに集まった。
「…え?」
「急にお声かけしてしまって申し訳ありません。すぐにお帰りのようでしたので…歌がお気に召しませんでしたか?」
「あ、いえ、そういうことではなくて…」
「あれ、ストラじゃねえか。帰るっつってたのに歌に誘われて来ちまったのか」
歌姫だけでなく、同僚にも見つかってしまった。声をかけられるなど予想外過ぎて心臓が早鐘を打っているが、考えなくとも仮面をつけた者がいれば目を引くに決まっている。そんな人物が歌の途中で現れてすぐに帰ろうとしたら芸を披露する方としては気になる…のだろう。
「ええ。…家にいたら賑やかな声が聞こえたので、なんだろうと思って見に来ただけなんです」
「そうでしたか…お騒がせしてしまって申し訳ありません。あの、お詫びにはならないかもしれませんが、お好みの曲があれば歌わせていただきますけれど、いかがですか? わたしはここの歌はあまり知らないので、曲名でなくて明るい歌とか、静かな歌とかの雰囲気でのリクエストになってしまいますが」
早く帰るべきだ。が、周りからはストラの幸運をうらやむ声や『色っぽい歌!』『たのしいやつ!』というリクエストが飛んでいる。同僚も「お前まさか断るのか?」と脇腹をつついて来る。ここは変に固辞するよりも適当にリクエストして一曲聴いてから帰った方が目立たないかもしれないな、と考え直す。
それに――この町には本当に何も楽しいことがない。今まで自分は長い間耐えたのだから、少し歌を聴くくらいいいだろう。
「ええと…では、静かで落ち着いた歌をお願いします」
「はい!」
歌姫はうれしそうに返事をして、ギターを抱えた男の方を振り返って一言二言話しかける。そしてすぐにギターの弦が弾かれて曲が始まり、歌姫の透き通った声が空に溶け込むように響き始めた。
***
辺りをうかがいながら出てきた男の姿を確認して、アドニスは息を潜める。
出てきたのはやはりエルフの男だ。小さな家の中には助け出すべき少女の他に、少なくとも一人は獣人と見られる女が残っているはずだ。
耳に当ててやっと音が聞こえるレベルまで音量を落としてもらった通信機を後ろに控えるエンレイに手渡す。音量は絞っているが、相手が獣人であれば音に敏感な可能性が高いため持って行くのはリスクが大きすぎる。それに男が出て行ったのでそうそう言葉は発しないだろう。
男の姿が十分に離れたところで小屋に近づき、玄関扉を弱くノックする。
「何だよ勝手に開けろよ」
中から女の声がしたが無視する。そして扉の表面に手のひらを滑らせ、今度は先ほどよりも低い位置を一度だけ弱く叩く。それからしゃがみ込んで数回わざと咳き込む。
「…」
室内の気配に緊張が走った。
アドニスは小屋に近づくとき、わざと足音を立てていた。――さっきストラが歩み去って行った方向から、ストラの歩き方をまねて。
中にいる女が音に敏感なのであれば、ストラが戻ってきて扉を叩いたのだと思ったはずだ。そして何かの理由で声を発することができずに、扉に手をついてそのまま崩れるように倒れた――ように室内からだと感じられるように動いたのだ。
室内の人物はかなり警戒しているようで、気配を潜めながら扉に近づいてくる。
まだもう少し、引きつけてからだ。
相手が十分近づいた、そのタイミングを見計らってアドニスは扉を内側に向かって蹴り飛ばした。
「!! てめぇ…」
古い建物の扉は蹴り飛ばされたことで簡単に蝶番が壊れて戸板ごと室内に飛んでいったが、内側の人物はひらりとそれを躱して難なく着地する。半獣か――そう思うのと同時にアドニスは手に持っていた小袋を破り、その中身を室内にぶちまけた。
「な…! ぎゃ…ゲホッ」
細かい粉末状のそれはぱっと広がり、正面からまともに浴びてしまった半獣の女は目や鼻を襲う激しい痛みに思わず手で顔を覆った。その隙をついてアドニスがみぞおちに拳をたたき込む。
「カハッ…」
反撃をすることもかなわず、あっという間に女の体は頽れた。
自分の撒いた粉末を吸わないように顔を布で覆ったアドニスは手早く女の腕と足を縛り上げる。一応改めて気配を探って見るが、少なくともこの小屋の中には他の仲間はいないようだ。
扉が閉じている部屋は一つだけ。直前の会話の内容から、その部屋の中では何らかの薬が焚かれているはずだ。現時点で殺す気はないようなので毒ではないとは思うが、極力吸わない方がいい。
息を止めて扉を開く。
狭い部屋の中は微かに白く煙っていた。
粗末な木のベンチにぐったりと横たわったエリカを見つけて足早に近寄る。その頭の近くの床に灰皿が置かれており、その上で木の葉のようなものがくすぶって燃え、細く白煙を上げていた。
アドニスは窓を開けると少女の体を担ぎ上げた。ついでに白煙を上げる葉の破片をひとひらつまみ上げ、火を消してポケットに入れるとすぐに窓から小屋の外へと身を躍らせる。
「…鮮やかなものね。アイツは今のところまだ戻ってくる気配はないわ」
近くの建物の陰で身を潜ませていたエンレイにエリカを預けると、アドニスは顔の布を外してむせる。
「あら、アドニスさん…目が真っ赤ね」
「ルルシアめ…あんな細かい粉末だったら事前に言っておけよ…」
半獣対策としてルルシアが渡してきたのは唐辛子の粉末で、布一枚ではとても防ぎきれないくらいにこれでもかと言うほど丹念にすりつぶされたパウダー状であった。




