第10話:朱妃、茶の作法を学ぶ。
「あ、あのっ、なんでもありませんのでっ……!」
「む……」
朱妃は袖を引く。癸氏の身体は小揺るぎもしないが、彼の困ったような声が頭上から漏れた。
「ひょひょ、何を遊んでおるのかね」
陳氏の声である。
「ああ、陳医官。いや、妃が先ほど震えていたので、診ていただければと」
「わっ、わたくしは元気ですっ!」
朱妃は慌てて否定する。陳氏はじっと朱妃を見て、満足そうに頷いた。
「うむ、船酔いも残っておらず、元気そうで何よりですな」
「ふむ、ではなぜ先ほどは震えて……」
––言えない、とても言えないわ。貴方の殿方の象徴がいつ、ちょきんってされたんですかと気になっていたなんて!
「せ、精神的なものですわ! お構いなく!」
癸氏は疑わしげに朱妃を見つめていたが、諦めたようにため息をつく。
「まあ、元気なら問題ありません。これから後宮に入っていただくのですから、御身大切になさって下さい」
朱妃は恥いった。
皇帝と閨を共にする妃嬪たちの中でも上級の妃となる者であり、異国の姫でもある者を連れてくる仕事を癸氏は拝命しているのだ。
妃の身に何かあれば地位を追われたり首すら飛びかねぬ大役。体調をまずは気にするのも当然ではないか。
朱妃がそのようなことを思っていると、彼は背後の卓に手を差し向けた。
「ちょうど話もあったのです。天気も良いですし、折角ですのでここで話をしませんか」
その言葉は誘っているようであり、実質的には命令であった。彼がそう言いながら手を叩いた途端、机の上には茶の用意がなされ始めていくからだ。
船の後部甲板は高くなっていて見晴らしが良い。中央に置かれた布が退かされると、広い円卓が現れた。
癸氏に促され、二人は向かい合って座った。陳氏は癸氏寄りの席を選んだが、椅子を引き、少し卓から離れて座る。話には参加する気がないのだろう。
円卓に茶器が、器に盛られた菓子が並んでいく。朱妃はそれを興味深そうに眺める。後方に立つ羅羅もである。
「こちらの茶器は見たことがありませんでしたか」
「交易でロプノールに入ってきたものを見たことはありますわ。ですが、ちゃんとした使い方を存じているわけではありませんの。その……沢山道具がありますわね」
そう言って朱妃は羅羅に視線をやった。彼女はしっかりと頷く。
卓上には無数の道具が並ぶ。例えば朱妃にも茶壺くらいは分かる。急須とも言われる独特の形状のもので、茶を抽出して注ぐためのものだ。小さくて丸みを帯びた朱茶色の焼き物だが、その側面には朱妃が見たことのない美しい花が描かれていて目にも鮮やかである。
だがその茶壺がなぜ台座に載せられて出てくるのかは謎である。美しく優美な曲線を描く円形の台座。つまり鑑賞しろということか。
杯も小さな茶杯とは別に背の高い杯があるのは何なのか。それ以外にも朱妃には用途のわからないものが沢山あった。
「はい、覚えさせていただきます」
「ではそこの女官よ、彼女たちに茶の淹れ方を教えて差し上げなさい」
「是」
女官は癸氏に、次いで朱妃たちに頭を垂れ、雨雨と名乗った。
彼女は羅羅を近くに呼び寄せる。説明しながら茶を淹れてくれるようだ。
「朱妃、貴女が武甲陛下の寵を受けることとなれば……」
癸氏は雄大なる龍河の流れに視線を逸らして言う。
「手ずから茶を淹れ、陛下の御心を慰めることもあるでしょうから」
「ご配慮、ありがとうございます」
朱妃は感謝の言葉を口にした。
無論、彼女とてそれが極めて難しいことであるとは分かっている。規模を大きく減じたとはいえ、それでもなお紫微城の後宮には二百を超える妃嬪がいるのだ。それとは別に皇后殿下もいらっしゃる。その中で寵愛を得るとはどれほどのことか。
二人が話している間に、羅羅が雨雨から指示を受けながら茶を淹れている。彼女にとっても初めて見る器具や作法であろうに、その手つきに澱みはない。
多くの器に湯を注ぎ、それから茶壺の中に茶葉を入れてから湯を注ぎ、蒸らす。
羅羅は口の広い水差しのような器を取り、蓋が簀となっている箱に湯を捨ててから、そこに茶を注ぐ。
「まぁ……」
朱妃は感嘆の声を上げた。癸氏は問う。
「何か気になりましたか?」
「器を温めるためだけに湯を使い捨てるという、瓏帝国の富に感嘆したのです」
「なるほど、砂漠の国では考えられぬ贅沢ということですか」
そう言う間にも羅羅は他の器の湯も捨て、朱妃の前に高さの異なる二種類の茶杯を置いた。
水差しのような器から背の高い方の杯に茶を注ぎ、その杯を手にして手の中で回してから背の低い杯に茶を移す。
「朱妃様、どうそ」
羅羅はそう言って背の高い方の器を差し出した。
無論、中身は空である。朱妃が覗き込めば、中には茶色の水滴が僅かに残るだけ。
朱妃は摩天高地の砂狐の如く、遠くを見つめて動かぬ虚無の表情を浮かべた。
「……ふっ」
「ひょひょっ」
癸氏と陳氏が思わずといった笑みを漏らし、雨雨は袖で笑い顔を隠したのであった。
この作品では日本の皇室典範と異なり、皇后陛下ではなく皇后殿下を使用します。





