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第三章

「ひどい雨漏りですね」

 ラウルは顔をしかめた。「これはなかなか手間がかかるかもしれません」。

 ほとんど廃屋といっていい代物であった。天井からぼたぼたと大粒のしずくが降ってくる。いくら外が大雨だからとしても、ひどいとしか言えなかった。

「なんとかなりますでしょうか?」

 心配そうに、男が聞いた。

「費用はかかると思いますよ」

 慎重にラウルは答えた。

 あれから二日。意地を張ってアリスティアからの仕事を突っぱねたものの、この季節、そうそう仕事にありつけるものではなかった。頼み込んで大工の職人ギルドから、この建物の状態調査の仕事をやっともらったものの、手間賃は僅かだ。それでも仕事があるだけありがたい、とラウルは思った。

「ここも一部が腐っています。このあたりは張り替えたほうが良さそうですね」

 床は雨漏りのせいで、水溜りができていた。蝶番が外れた窓から、激しい雨が振り込んでいる。彼はこの古い廃屋を改装してパン屋にしたいという。改装は、雨の季節が終わると同時に始めることになっている。ようやく暖簾分けを許された男がやっとみつけた場所らしいが、優良とは言いがたかった。

 しかし、帝都エリンの東の外れに位置したこの場所は、清流ニギリ川がすぐそばを流れて非常に美しい場所だ。彼がここに決めた気持ちもよくわかった。

「外側の方も確認してみましょう」

 ラウルはフードを被り、外へ出た。激しい雨の音とともに、清流で名高い川も濁流となり、ごうごうと音をたてている。少し谷になっているため、いつもなら人ひとり下の位置にあるはずの水面が、とても近い。

「すごい雨ですね」

 男は叫ぶように言った。水音が激しく、会話は不可能に近かった。

 外壁も傷んでいたが、修繕できないほどではなかった。あとは、屋根の状態を確認することであったが、この大雨の中、屋根に上るのは気が進まなかった。技術的には可能であるが危険であるし、何より必要以上に屋根をいためそうだ。

「屋根の状態は、また日を改めて確認するほうがいいかもしれません」

 そう叫ぶと、ラウルは首を振った。フードから滝のように雨粒が流れ落ちてくる。依頼人である男も異論はないようで、慌てて廃屋の方へ戻っていった。足元を雨水が地面を波打つように流れていく。さすがにこれだけの雨になると、オルヴィズからもらったマントでも水がしみこんできて冷たかった。

――ああ、そういえばマントを返していなかった。

 ラウルはマントの上を滑り落ちていく水滴を見ながら、そう思った。返さなくていい、と彼は言ったが、たぶんそれは仕事の報酬の一部としてだ。理由はどうであれ、頼まれた仕事を途中で放棄したことに間違いはない。

――メイサさんは、見つかったのだろうか。

 激しい雨の向こうに、まだ見たこともない不幸な生い立ちを持つ女の姿を思い描く。気の強い子だ、とアリスティアは言った。どん底から始まった人生を、必死で立て直そうとしていたのであろう。身分違いの恋に身を焦がし、そのためにさらなる高みをめざしていた姿は、烈火のような激しさを感じる。

――まさに、ロキスの巫女だ。

 ロキスはひとの真摯な姿を愛するという。その想いの善悪より、迷いのない純粋さと激しさを好む。それゆれに、破壊と創造の神なのだ。

「あの、どうしました?」

 不意に、ラウルは自分を呼ぶ声に気がついた。廃屋の軒先で、男が待っている。依頼人を待たせていたことを思い出し、あわててそちらへ駆け出そうとしたとき、川の水面に目に入った。荒れ狂う川の流れの水面が、明らかに高くなってきている。

――まさか?

 空は黒く、途絶えることもなく、滝のような雨が降り続いている。大地に降り注いだ雨は、すでにしみ込むことができずに土の上を滑るように流れていくばかりだ。

「川が決壊するかもしれません」大声でラウルは叫んだ。そして、すでにぬれている顔を手で洗うようにぬぐった。

「人を集めてください! 僕は憲兵に知らせます!」

 男が頷くのを確認しながら、ラウルは駆け出した。

 走るたびに、足元の水が飛びはねたが、まったく気にならなかった。ただ、耳鳴りのようにごうごうと流れる川の音だけが鳴り続けていた。


 書物をめくる手が、時折、考え事で止まる。

 窓の外は大雨だ。年頃の姫君の部屋にしては、書物が多すぎて色気がない感じもするが、品のよい調度品でまとめられている。

 封じの技について書かれたその魔法書は、アリスティアの心を憂鬱にした。その技を解除するとき、術者とその対象者が技を施すとき以上に危険であるかが、それに示されている。

――宮廷魔術師を望むメイサのために、導師は術を解除したのかもしれない。

 その推測は本の記述が裏付けてくれる。解除をしたときの不幸なトラブルによって、ラバナスは焼死し、メイサは姿を隠してしまったのだろう。

――でも、どこへ?

 オルヴィズの調べで、イルクートが並々ならぬロキスの信者であり、しかもかなり野心家であるという事実が浮かび上がってきた。水面下でかなりよからぬ動きをしているのは間違いなかった。ただし、名門中の名門であり、たいした証拠もみつからず、父ははっきりと手を出すことを躊躇っている。

 メイサの秘密の恋人が、本当にイルクートなら、彼女は彼の屋敷のどこかにいるのかもしれない。そう思っても、手を出せない自分が口惜しかった。

 そして。そのこととは別に、さらにアリスティアの心を暗いものにしているのは、まっすぐな瞳の青年の言葉だった。

「憐れみはいりません」と、ラウルは言った。憐れんでいるつもりはなかった。

 アリスティアの母は、生まれてすぐになくなったから、母の面影はまったく記憶にない。それでも寂しいと感じたことがなかったのは、ふたつ年上の兄がいたからだ。

 兄は、アリスティアと違い体が弱かった。人一倍魔力の才はあったものの、十をすぎるころに胸を病んだ。アリスティアが皇族にもかかわらず、本格的に『知恵の塔』で学ぼうとしたのは、兄を助けたかったからだ。

 どんなに学んでも、魔術ではひとのいのちを救うことと時を戻すことが適わないことを知ったころに、兄は死んだ。悔しかった。何も兄にしてあげられなかった自分が、もどかしかった。

 ラウルにはじめてあったとき、兄とそっくりな瞳に惹かれた。胸の薬を買い求めるその姿に、何かしたい、と思ったのはそのためだった。

――憐れむより、ひどいのかもしれない。私は、あの時何もできなかった自分を償いたかっただけなのかもしれない。

 それに、皇族ならば。本当は、かれひとり救って良しとしてはいけないのだ。万民に尽くすことこそ、彼女たち皇族が、尊き存在でいられる真理なのだから。

「アリスティアさま、オルヴィズ殿が緊急でお会いしたいそうなんですが」

 執事のゼブの声に、アリスティアは我に返った。

「オルヴィズが? いいわ。通して」

 姿勢を正して、アリスティアは手元の本を閉じた。

「それが、その……」言いにくそうに、ゼブが困ったような顔をした。「オルヴィズ殿お一人ではないのです。姫様のお部屋にお通しするのは……」

「緊急なんでしょ。わかったわよ、私が行くわ」

 アリスティアは首を振って、玄関へと向かった。執事のゼブは有能だが、少々融通の利かないところがある。やたらと身分、格、そういったものを気にしており、そもそも、下町をふらつく姫君を苦々しい気持ちでみているのを隠そうともしていない。

 屋敷の一部を自主的に憲兵の施設として使っているので、公爵家としては手狭であるが、それでも玄関ホールは、おそらく一個師団が納まるくらいの大きさがある。

「アリス様!」

 アリスティアの姿を認めたのだろう。オルヴィズは大声で叫ぶように彼女を呼んだ。

「どうしたの?血相を変えて……」言いかけて、アリスティアはびしょ濡れになったオルヴィズともう一人の男の姿を見て、はっとした。

「……ラウル」

 彼の足元に水溜りができている。まるで水浴びからあがったばかりのように、すべてがびしょ濡れであった。よく見れば、ふたりとも息が速い。そうとう急いでやってきたようだった。

「ラウルの考えが正しければたいへんなことになります」オルヴィズに促されて、ラウルは息を整えるように言った。

「この雨は、メイサさんが降らせているのではありませんか?」

「どういう意味?」

 アリスティアはじっとラウルを見た。


 外が暗いため、まだ昼間だというのに玄関ホールは薄暗さを感じる。堅牢な建物の中にいるにもかかわらず、ごうごうという雨音が響いていた。

 濡れた髪の毛から滴る雨水が汗といっしょに背中を流れていく。

 先ほど、執事が迷惑そうに、自分を見たのは無理のないことだと、ラウルは思った。磨かれた美しいタイルには、泥まみれの靴の足跡がつき、雨水だか汗だかわからない液体がポタポタと水溜りが出来ている。

――それにしても、酷い格好に違いない。

 アリスティアの瞳に見つめられ、場違いだが、そんなことを思った。

「メイサさんがロキスの巫女なら、水竜だって呼ぶことが出来るんじゃありませんか」

 自分でも、荒唐無稽なことを言っている、と思う。魔道の知識など、皆無に近い。それでも、確信のようなものがあった。

「まさか、そんなことが……」

 アリスティアの瞳が思案に沈む。

「どちらにせよ、既に、エリンの南東の地域は下水があふれて浸水がはじまっています。雨がこのまま降り続ければ、深刻な水害になるでしょう」

 オルヴィズが険しい顔で補足する。ここに来る前に、早急な調査と対策を指示してきたとはいえ、一時も速く現場に行かなければならないという、焦りが見えた。

「この雨が、自然のものにしろ魔道的なものにしろ、早急に手を打たなければなりません。そして、魔道的なものならば、止めることを考えなければ」 

 ニギリ川やルーゼ湖が決壊すれば、帝都エリン全体が水没する可能性だってある。否。エリンだけではない。川下の町や村にも被害が出るであろう。そうなれば、冗談でなく帝国全体の危機だ。

「……可能性は、あるかもしれない」

 暗い瞳で、アリスティアは呟いた。

「生命を捨てる覚悟なら、私でも竜は呼べる。もっとも、意のままに操ることは難しいけど……。」

「では……」

「問題は、場所ね。竜の気の多いところ、できればロキスの神域がいい。でも、エリン市内の神殿ではないわ。偶然ならともかく、儀式として行なうなら、人目は少ないほうがいいし、それに結界があるから広範囲に竜を飛ばすことは不可能だわ。それにしても、もしそれが本当なら、考えたわね。火竜より、水竜は破壊力は少ないけど、竜が呼ぶ雨は、広範囲で雲が勝手に降らし続けるわ。しかも、雨に対して結界は全くなんの役にも立たない。」

 帝都エリンは、魔防都市だ。この地域は魔の活動が昔から活発で、この地の歴史はそのまま魔との戦いの歴史であるといっていい。放浪の戦士ラクラスが、妖魔王カイオスを封じ、その上に帝都エリンを建設したところから、ルパーナ帝国は始まる。帝国建国以前にも、肥沃で水に恵まれたこの地に、ひとは住んでいたが、その生活は妖魔王への服従によって保障されていたもので、ひとびとは定期的に贄を差し出していたという。

 エリンの結界が強固なのは、外からの魔を封じるだけでなく、妖魔王を封じるためでもある。

 しかし、雨や水害に対して、結界は何の意味もない。水害は、水竜の関与の有無にかかわらずおこるもので、それを防ぐのは「魔道」ではなく、もっと人為的なものだ。その点に関して、帝都エリンは他の都市となんら変わるところはなかった。

「心当たりがあります」

 ラウルは慎重に口を開いた。

「ルーゼ湖の北岸に、洞窟に古い神殿があります。帝国建国以前から崇められている場所です。今は、我ら大工と、湖の漁師やきこりたちくらいしか訪れない、神官もいない神殿ですが」

 その神殿は、天然の洞穴の奥に、六貴神の中でも、古いとされている三柱が奉られている。帝都建設の祈願をこめて、ラクラスが作ったと伝えられており、大工たちは今でも初めて大工道具を手にしたときは、一度そこに奉納してから使うのが慣わしであった。周囲は森になっており、湧水地も近い。人知れず、事を成すのにはもってこいの場所だ。しかも訪れたことのないものには、わかりにくい場所にある。

「ラクラスの洞穴ね。ずいぶん森の中にあると聞いたけど、案内はできる?」

「できます。半日はかかると思いますが」ラウルは、言葉を選ぶように応えた。雨天で、道は険しくなることが予想されたが、知っていれば行けない場所ではない。

 アリスティアは思案をまとめるように顎に手を当て、数秒沈黙した。

「オルヴィズ、父上に連絡は?」

「ここに来る前に、河川の状況の報告を入れました。さらに調査結果がわかり次第、報告をするように手配はしてあります」

「では、今の話は、父上にはまだしていないのね」

 確認するように、アリスティアが問うと、オルヴィズは頷いた。

「父上には、私から話すわ。急がなければいけないけど、少し時間がかかる。オルヴィズは、神殿に行くための装備を三人分ほど用意して。それから、ラウル、あなたは着替えたほうがいいわね。いくら雨の中を行くにしても、それでは行く前から体力を消耗してしまうわ。オルヴィズ、お願い」

 アリスティアの顔が厳しく引き締まる。その表情は、高い知性と高貴な美しさが漂い、ラウルは思わず目を伏せた。

「一時間したら、ここに来て。場合によっては少し待たせるかもしれないけど」

「わかりました」

 頷いたオルヴィズに連れられ、ラウルは屋敷を出て、憲兵の事務所へと向かった。

 雨脚は、一向に弱まる気配はなかった。


「それで、お前はこの雨をメイサが降らしていると思うんだね」

 憲兵からの報告書を手にしながら、レニキスは髭を揺らしながら言った。すでに、現場に行くための身支度を整えていたため、若草色の防水を施したマントを身にまとっている。

「可能性がある、と、申し上げました。」

 慎重にアリスティアは答えた。父と娘の会話にしてはよそよそしい。お互い公的な職務についているときは、上下の礼節を崩さない。魔道に関する事件の捜査権を憲兵隊は持たない。魔道に関する全ては『知恵の塔』に帰属するからだ。ゆえに、塔と憲兵隊両方に籍を持つアリスティアは、魔道に関する犯罪の捜査権を憲兵隊の中で駆使できる数少ない人間なのだ。はじめは娘が事件にかかわることに否定的だったレニキスも、ある事件をきっかけに娘をあてにするようになった。

 もっとも、父として依然、奔放な娘の行動に複雑な想いがあるのは確かではある。

「折りしも、明日は月食です。もしそうなら、魔のバランスは崩れ、竜を鎮めることは難しくなります。可能ならば、今日のうちに決着をつけなければなりません」

 言いながら、アリスティアは、戦慄を感じた。今度のことは、月食と無関係に計画されたものではありえない、と思われた。月食の日、『知恵の塔』の魔道師たちは、帝都エリンの結界を維持するために厳戒態勢に入ることになっている。水害を防ぐために防災や救命活動に参加できる人数はおのずと制限されてくるはずだ。しかも、憲兵や騎士たちが、エリンや近隣の市町村の救援活動に向かうとすると、皇帝の住む城の防備は無きに等しくなるであろう。

「一刻も早く、『知恵の塔』に連絡し協力を依頼するとともに、ロキス神殿に竜を沈めるための儀式をしてもらってください。それに、皇帝陛下の身辺の警備も増やすべきかと。」

 レニキスは厳しい表情で、娘を見ていた。

「お前は、この機を狙って、何者かが陛下に害をなそうとしていると、考えているんだね。」

「この大雨が、人によってもたらされたものならば」

 アリスティアはそう言いながらも、既に確信していた。この雨をメイサが降らしているのならば、それはイルクートのためだ。そして、イルクートは、おそらく強い野心を抱いている。何事かを狙っているのは間違いない。

「よくわかった。」

 レニキスは頷くと、ペンをとった。

「迷っている時間はない。急ぎ神殿と「知恵の塔」に連絡を取ろう。ただ、川と湖の水位の状態からいって、憲兵隊の人手をそれほど割くことは出来ん。ラクラスの洞穴のほうの調査は、お前に一任しようと思う。オルヴィズを連れて行け。必要なものは持っていくといい。できるかね?」

「やってみます。」

 任務の重さに、身震いをしながら、アリスティアは長い銀色の髪をかき上げた。

自分にラバナス導師と同じように、封じの技が使えるとは思えない。それに、普通に真正面からメイサと魔道で争って、勝てる自信はなかった。が。

――それでも、負けるわけにはいかない。

 この雨をメイサが降らせているのであれば、どんな形でも勝たなければいけないと、アリスティアは思った。



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