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陛下はすごい。
たった一つの行動で、私を天国にも奈落の底にも突き落とすことができるのだから。
ご多忙でしょうに、お仕事の合間を縫って、針の筵同然のヴィクター邸に足を運んでくださって嬉しい。これは紛れもなく私自身が抱いている感情。
だけれど、同時に、どうしていらしたのかという疑問も湧く。未だ、陛下への恋慕を捨てきれぬ愚かな女のもとへ。未だ、寵妃の首元から目を離さぬ皇后のもとへ。陛下がいらっしゃるだなんて余程のこと。一体、何が目的なのか……そんな、卑屈で穿った考えをしてしまう私がいるのも事実で。
機転の利かぬ私なりに、熟考し、覚悟を決め、陛下のお側から離れた。
陛下とて、お気づきじゃないわけではあるまい。私が皇后宮ではなく実家での静養を望んだ理由を。敢えて、アマリリス妃と二人きりにした理由を。
すべては、アマリリス妃をひどく寵愛なさる陛下のためである。
陛下がいらっしゃると聞いてから、ずっと、目の前が真っ黒だ。時々、思い出したように希望の色が掠めるものだから、本当に救えない。
すべての境界線が曖昧になる。喜んでいるのか嘆いているのか。期待しているのか絶望しているのか。愛しているのか……憎んでいるのか。枠から外れたそれらを正しい場所へ戻すことさえ億劫で……。肉眼では見えぬ黒い蔦が蛇のように巻き付いているというのに、振り払う気力も湧いてこない。
真っ黒な蔦の思うが儘動かせた先で残るのは、果たして、陛下への消えぬ恋情か人間としての生存本能か。
……答えなんて言うまでもない。
「オリビアさま?」
ふと、柔らかな声で名前を呼ばれはっと顔を上げる。同時に、私の体に絡みついていた蔦が跡形もなく消え去った。
目の前には、ビビがいた。光の加減によって深碧にも黒にも見える目が心配そうにこちらを見上げ、今日は会うのはやめるかと、訊いてくる。私は苦笑を浮かべる。陛下のせいでこんなにも苦しいのに、それでも、陛下に会わぬという選択肢が己にないことに気付き、呆れを通り越して嗤ってしまう。
きっと、陛下にこの心臓を貫かれても、狂った私は陛下への恋心を捨てきれぬのだろう。
徐に、鏡台に視線をうつした。
限りなく病人に見えるよう、完璧な化粧を施してくれたビビたちのおかげで、今の私は、誰が見ても疑う余地などないほど病人の風貌をしている。ここまでくれば、卓越された化粧の腕を持つ者は、ある種の魔法使いと言っても過言ではない。
鏡台に向こう側にいる、無邪気な子どもから狡猾な大人へと移ろおうとしている女と目が合う。
すぐに目を逸らしたが……何故か、向こう側にいる女が、いつまで経ってもいつまで経っても私を追いかけてきているような気がした。
憐れだと。惨めだと。滑稽だと。
雄弁に言う薄桃色の目が、私の脳裏からこびり付いて離れぬ。
「顔色がすごく悪い」
高貴な声が心地よく鼓膜を震わす。
雲と雲の間から凄艶な赤を纏いながら沈みゆく太陽は、暗い部屋を仄かに照らし、神が両手で丁寧に描いたとしか思えぬ陛下の美貌に影を落とした。
私と陛下の間に置かれた机には、ビビが用意してくれた紅茶と茶菓子がある。湯気立つティーカップを見詰めながら、陛下は紅茶よりも珈琲のほうが好きだったはずだわ、苦味が癖になるといつか仰っていた、用意させておくべきだったかしら……なんて、今、考えても仕方の無いことをぐるぐると考える。
現実逃避。分かっている。でも、そうでもしなければどうにかなってしまいそうだった。
「本当に回復に向かっているのか?」
きれいに整った両眉を寄せながら、陛下は苦しそうに訊ねてきた。
一週間ほど前に来た陛下からの手紙に、病は悪化していない、と綴ったことを仰っているのだろう。あれに目を通していたのかと、小さく驚きつつも私は頷く。
「見た目程、体調が悪いというわけではございません」
「とてもそうは見えない。別の医師には診せたのか?」
「ヴィクター家の医師の腕はたしかですわ、陛下」
「小公爵と同じことを言うな」
どこか呆然としながらもそう仰る陛下。
私が身支度をしている間、陛下の暇潰しの相手をなさってくださっていたのはお兄さまだった。
――陛下から毒が抜け始めた。
先日、お兄さまが仰っていた言葉が脳裏を過る。希望の光にも、鋭利な短刀にもなり得るその言葉を、私はどう扱えば良いのか判断しかねていた。軽率に無視することも、迂闊に鵜呑みにすることもできぬ言葉だった。
「……心配だった」
甘味のある苺が香る紅茶で乾いた舌を濡らしていると、陛下が温度のない声で呟かれた。私に話しているというよりかは、独り言に近いものだった。
いつの間にか太陽は沈み、室内は闇に包まれようとしている。
そんな中でも、陛下の苦悩混じりの表情だけははっきりと私の視界にうつりこんだ。
信じられぬだろうがと、湿った声で陛下は言葉を編む。
「病を患った皇后の状態を確認できないのが……自分でも驚くほど、辛かった。手紙では大丈夫の一点張りだし、公爵にははぐらかされる。だから、無礼を承知で予め報せることなく来たんだ。そうでもしないと、会えないと思った」
「へい、か」
「……来て、正解だった。顔色が本当に悪い。もう寝室に戻ったほうがいいだろう、無理をさせてすまなかった」
心臓が鷲掴みにされたように痛い。
ティーカップを持つ手に汗が滲む。
俄かに信じ難い。自分に都合の良い幻想でも見ているのだろうか。
陛下がいらっしゃったと聞いた際、その可能性がまったく頭になかったわけではない。むしろ、病人の屋敷に訪問するのなんて、多くがそれ目的だろう。だが、陛下と私たちの関係性においては、有り得ぬことだと無意識に除外していたのである。
駄目。駄目駄目。期待しては駄目よ、オリビア。陛下は私を上げて落とすのがお好きらしいから。すぐに、期待は裏切られる。そんなわけがないと、一蹴されるやもしれぬ。
理性では分かっているのに……どうしても聞かずにはいられなかった。
「陛下は……私が心配で、こちらにいらしたのですか?」
情けなくも震えた声が熱を孕んで、ぴんと張りつめた部屋に余韻を残す。
やや身を乗り出してそんなことを問う私になにを思ったのか、呼び鈴を鳴らそうとしていた陛下はその手を止め、微かに眉を下げる。長い睫毛が覆う、蜂蜜のような神秘的な瞳が寂しそうに揺れる。
「信じられないのも無理ない。だが……この二週間、私が皇后のことを案じなかった日はない」
「私は死にませんわ」
食い気味に言う。
皇后が今病死しては、アマリリス妃の命は保証されない。
アマリリス妃は知らぬのだろう。他でも無い、親の仇のように憎んでいる皇后にその身を護られているということを。
なにも、私だけじゃないのだ。陛下の側をうろつく美しくも身の程知らずな蝶を厭っている貴族は、両の手では数え切れぬほどいる。ただ、皇后である私が静観している以上、直接手を下せぬだけ。
悲しいかな、偉大なる帝国の太陽の庇護だけでは、後ろ盾も権力もない蝶は生きられぬ。
私が言わんとしていることを理解したのだろう。陛下は狼狽した様子で、そういう意味ではないと否定した。
「彼女は関係ない。本当に、皇后が……オリビアが心配だった。オリビアの容体をこの目で見ないと不安で堪らなかった。本当に、それだけだ」
哀願するように言われ、息を呑む。
陛下が私の体調を心配してくれた。
初めて、私の名前を私的な場で口にしてくれた。
それは、身を焦がすほどの狂喜となって私を嵐のように襲う。しかし、それも刹那的なもので、嵐が過ぎ去ったあと残ったのは、どこまでも醜悪なのにどこまでも真っ直ぐな恋情と、どこもかしこも血だらけで生々しい傷痕だけだった。
(陛下……陛下、愛してます)
だけれど、今の私には、陛下の言葉を純粋に信じ呑み込めるような力は……どこにもないのです。
これから徐々に皇帝は苦しんでいきます。




