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お久しぶりです。
長く時間を空けてしまい申し訳ございません。
これからちょくちょく更新する予定ですので、楽しんでいただければ光栄です。
実家に逃げ帰ってから、かれこれ十日目。
存外、私は穏やかに暮らしていた。
一日中、部屋に籠っては陛下を想い泣いて暮らすのではないか……そう危惧していたのは私だけではなかったはずだ。
だが、蓋を開けて見ればそんなことはなかった。
ひとえに家族のおかげであると言えよう。
今日はこうしよう、明日はああしよう、明後日は――そう言って、彼らが私を外に連れ出し気分転換をさせてくれるから。うまく割り切れず藻掻き苦しむ私にそっと寄り添ってくれるから。
瘴気漂う暗闇の中に閉じ込められることも、血塗れの素足で激情に踊らされることもなく、平穏な毎日を送ることができている。
また、家族が、実家に戻る準備を完璧に整えてくださっていたのも大きい。
何を隠そう、私の家族、ヴィクター公爵一家は多士済々の顔ぶれである。猛禽類を三日で手懐けることができるぐらいなので、未知なるおそろしい才能をお持ちの方たちでもあろう。
どんな場でも、各々の能力を遺憾なく発揮している家族が、実家に戻ることを促すだけ促してなにも準備をしていないなんてことが、あるわけがない。
いつ、皇后の座が空になっても大丈夫なように。いつでも、その座に戻れるように。戻ってからも、今まで通りその椅子に座って指揮を執れるように。
秘密裏で着々と準備を進めてくださっていた。
だからこそ、皇后という立場でありながら、こうして実家に戻り、なんの憂いもなく毎日を過ごすことができているのである。
(…………いいえ、違うわ)
不安が跡形も消えることなんて決してない。理性では割り切っていても、考えるだけで気が狂ってしまいそうな不安が、少しずつ、だが確実に、私を苦しめていっている。
敢えて、目を逸らしているだけ。
気を抜けば、頭の中に浮かぶのは、白いおくるみに包まれたなにか。
そして、それを胸に抱き聖母のような顔をするアマリリス妃と、そんな彼女たちに微笑みかける、陛下。
そう遠くないうちに訪れる、幸せに溢れた未来。
想像する度に胸を掻きむしりたいほど辛いのに、それが現実になった暁には死んでしまいたいほどの激痛にのたうち回ることになるだろう。
でも、私はきっと、どろりと禍々しい恋情をそれとは悟らせぬように無理矢理呑み込んで、陛下の横に居続けるに違いない。
そうしなければ、陛下はきっと――。
記憶に鮮明に刻まれている陛下の軽蔑に塗れた表情を思い出し、自然と、手綱を持つ手に力が入った。
同時に、私と並んで馬に跨り、歩いていたお兄さまがこちらを見た。
「どうかしたか? オリビア」
――今日は天気がいいから一緒に乗馬でもしないか。なに、すぐそこの山だから誰にも見られやしないよ。
そう言って、乗馬に誘ってくださったのは、アルバートお兄さま。
お供もつけず、お兄さまと二人きりで森林を散策などいつぶりだろうか。久しぶりのお誘いに一も二もなく快諾した私は、ヴィクター家が所有する森林を馬で闊歩していた。
根明で社交的なお姉さまと違い、お兄さまは物静かなお方だ。
お姉さまのように大胆不敵な行動力も、私のような陰鬱な思考回路もお持ちではない。冷静沈着で、博識だが出しゃばるような品のなさはなく、物腰柔らかな紳士である。
物事を俯瞰して見ることができる冷静なお方だからこそ、場の空気を読むことにも長けていらっしゃり、繊細な感情の機微に敏感でもある。
お兄さまは家族のうちの誰かが些細なことで感情を揺れ動かすと、それを機敏に察知する。おそろしいのは、それが外れることがないということだ。
今、この時のように。
「なにか不安事でも? 案じていることがあるのなら教えて欲しい」
低く、穏やかな声で言われる。
太陽を覆い隠していた雲が風に流される。漸く破顔した顔を見せたそれは、お兄さまの聡明さが窺える端厳な顔を照らした。
光に反射する美々しい青玉のような瞳が、どこか探るように私を見ている。
天から与えられた唯一無二の才能だわ……私にもその能力が備わっていれば、陛下にあのような表情をさせて苦しめることもなかっただろうに…。
今更、悔いたって仕方の無いことを壊れた機械人形の如く繰り返すのは、人間の性であろう。
考えても意味がないことだ。折角、塞がってきた傷口を開こうとするものを追い払うように、にこりと、貴族令嬢らしい微笑を浮かべた。
「なんでもありませんわ、お兄さま」
そうかと、小さく呟いたお兄さまは再び前を向く。
春の香りを乗せたそよ風が頬を撫でる。小鳥の囀り、小川の流れる音、木々が風に遊ばれる音たちが順番に心地よく鼓膜を揺らし、自然が作る爽やかな香りが鼻孔を擽る。
「陛下のことだろう」
「……お兄さま」
まだ、あのお話は続いていたのか。言外に、陛下の話はしたくないと言ったのが理解できなかったわけではないだろうにと、目を丸くする私を気にすることはなく、お兄さまは日常会話を続けるような口調で言葉を重ねた。
「なにを憂いているのか知らない。知らないが……それは無意味だ」
「……いいえ。意味のあることですわ」
悲しく笑い、静かに訂正する。
白いおくるみ。紅葉のような柔らかな手。人間が奏でる愛らしく庇護欲を掻き立てる泣き声。
何度、想像しただろう。私が陛下に愛されて、徐々に膨らんでいく腹から伝わる命に感涙し、そして、この世で最も誕生を祝福されるであろう美しい玉の子を産むことを。
嫁いで暫くは、それが現実になると疑っていなかった。奸悪な女だと罵られても、侮蔑の眼差しを向けられても、あからさまに避けられても……陛下は私も選んでくださるだろうと、疑っていなかった。
恋に夢を見て愛に溺れる、愚かな少女は気づくのが遅かったのだ。
私は決して、陛下に愛されることはないということに。
数多の男を魅了したアマリリス妃のような華やかさも、艶やかさも、豊満な果実もない己では食指が動かぬのかもしれない……そう自分に言い聞かせたこともあった。
でも、そうではない。
陛下は権力を盾に寵妃を脅かす凶器となった私が嫌いだから。手段を選ばずすべてを恣にする高慢な私に嫌悪感を抱いているから。
あの逞しい腕で抱擁してくださることはないのである。
なんとも残酷なことに、アマリリス妃が陛下との宝をこの世に産み落とす様子を、私は負け犬らしく指を咥えて眺めることしかできぬのだ。
つきんと、鼻の奥が痛くなる。
そんな私を観察するように見ていたお兄さまは「これは独り言なんだが」と、前を真っすぐ見据えながら徐に切り出した。
「毒が抜けてきたんだ」
「……はい?」
「あれは厄介だ。どうにも中毒性があるようで……思いの他、抜けるのに時間がかかっていた」
乗っている馬が首を縦に振り嘶く。
一体、なんのお話をなさっているのか。馬の首元を優しく摩りながら、困惑の眼差しを向ける。
お兄さまはそれでも我関せず続けた。まるで、幼子に御伽噺でも読み聞かせているように。大事な教えを説いているように。
歌うようによどみなく仰るその声色は、しかし、どこか緊張の色もあった。
「美しい花には毒がある。最初の毒花をごみ箱に入れるのには成功したのに、何故、別の毒花に引っかかってしまったのか。あれの良さが分からないだけに理解に苦しむが……同情の余地はある。毒花が泥中に浮かぶ蓮だと錯覚したのだと言われたら、あの状況を考慮すると真っ向から否定できないだろうから」
赦すか赦さぬかは別として、だが。
そんなことを呟きながらお兄さまはこちらを見る。憑き物が落ちたような、どこか眩しいものを見るような表情で微笑んだ。
「約束しよう、オリビア。君を煩わしている悩み事はすべて杞憂に終わるだろう」
・・
「皇后陛下! 大変ですっ!」
曇りが続くある日の昼下がり。
私はビビと二人、四阿でお茶会を開いていた。
円卓に並ぶ茶菓子をつまみながら、様々な話を適当に引っ張ってきては花を咲かせていた、その時。
見覚えのあるメイドが血相を変えてこちらへやってきた。
ヴィクター家の使用人は少数精鋭だ。たとえ、下っ端と言われるメイドであっても優秀な人材を選んで雇っているので、ああして、真っ青な顔で走ってやってくるなんて通常では考えられない。
余程のことが起きたと、疑って間違いないだろう。
その証拠に、先程までリスのように茶菓子を口に含んでいたビビの表情が一転し、険しくなっている。
(……気のせい、よね)
何故だか、冷静さを欠いたメイドの慌てっぷりに心臓がざわざわする。
薄茶色の紅茶にうつる私の目は不安気に揺れていた。
「なにがあったの」
ビビの問いに、メイドは思い出したように私に頭を下げたあと、衝撃的かつ信じられぬ言葉を口にした。
私もビビも雷に打たれたように固まる。
頭が真っ白になってなにも言えなくなった主人の代わりに、ビビがメイドに確認した。
「本当なの? それは」
「はい。今、小公爵様が南側にある応接室にお通ししております。小公爵様は会いたくなかったら来なくて良いと、仰っておられますが……」
「どうされますか、オリビアさま」
予想もしていなかったことに、呆然自失とする私にビビがひどく当惑した様子で私を窺う。その時の私の表情はきっと、見るも無残なほど様々な感情が入り乱れてぐちゃぐちゃに歪んでいただろう。
だって、今この瞬間から、私はこの世で最も幸福な女でありこの世で最も惨めな女になったのだから。
皇帝陛下が遠路はるばる皇后である私の実家へやってきた。
それは私が病魔に侵されたことを理由に皇后宮から出て行ってから、およそ、二週間後のことであった。




