6 側室視点
かなり遅くなってしまい申し訳ございません。
引き続き、楽しんでくれたら嬉しいです。
「オリビア皇后陛下がご実家にお戻りになったそうです」
白湯と季節の果物が盛られた大皿を朝餉として持って来た侍女のその言葉に、わたくしは眉を寄せた。
何故、小娘のそのようなどうでもいい情報を朝っぱらから報告してくるのか。そりゃあ、小娘とて家に帰るだろう。皇后や皇妃という立場は側妃とは違って自由なため、それが許される。
そんな下らぬことをいちいち報告してくるだなんて、躾がなっていない。
苛立った気持ちのまま、殺意と軽蔑をたっぷり込めた視線を投げれば、そばかすが目立つ侍女は目を丸くしたあと大袈裟に肩を震わせ、怯えたように下を向いた。
この醜女、謝罪もまともにできないらしい。
ここが娼館なら良かったのに。わたくしはため息をついた。あそこでは上の者の気分を損ねた罰として、思う存分仕置きができるのだ。
倫理観も道徳観も何もないという意味では、後宮も娼館も然程変わらぬ場所だが、こちらの方が余程下の者に優しい場所であるようだ。
というのも、陛下が自信の管轄内で、特に目立つ粗相をしていない使用人を過剰に罰することを禁じているからである。
それは、それだけ陛下の傷は深く、それだけ陛下の纏っている鎧は重たいということを、如実に示していた。
その傷を発見し、その傷に丁寧に包帯を巻き、その傷を癒して差し上げたのはわたくしだ。陛下の纏っている鎧を外すことができるのも、鎧の重たさを本当の意味で理解して差し上げられるのも。
あの小娘ではない。
わたくしである。
(陛下、わたくしの、わたくしだけのディラン)
「いつになったら、会いに来てくれるのかしら」
陛下のアマリリスはこうして毎日毎日、健気に待っていますのに。一体、いつまでわたくしを苛めたら気が済むのか――。
先月、真に下らぬことで陛下と喧嘩をしてしまった。
事の発端は、陛下に「3週間に1度、皇后宮へ足を運ぶことになった」と言われたことである。
最初はあまり気にしていなかった。高飛車なお嬢様なことだ。いずれ我儘を言うことぐらい、想定内。予想より遅かったなという感想が口から洩れたぐらいである。
陛下は陛下で渋々という雰囲気が出ていたし、それ以外の日は必ずわたくしのところへ来てくれるので、不愉快な気分になるどころか、気分は最高潮で優越感でどうにかなりそうだった。
皇后と寵妃で扱いはこれだけ違う。
世は皇后派でも、陛下はわたくしを大切にしている。
それだけでも十分だった。
しかし、最高で最上の時間は突然、陰りを見せ始めた。
最初は3週間に1度、皇后宮へ足を運んでいたのが、2週間に1度、1週間に1度になっていったのである。小娘が強制させたのかと陛下を哀れんだが、彼は自分の意志だと言い切った。そして、皇后と廃后はまったく別の人だと、断言したのだ。
廃后のような道を辿るような愚か者ではないと。早くそのことに気づけば良かったと。
これをどうして看過することができよう。
だから、わたくしは小娘の悪口を並べ立てた。
奸悪で、傲慢で、陋劣な娘だと。罪深いことにも、あの小娘はわたくしたちの仲を引き裂こうとした、言わば悪魔ではないか。正妻の立場を奪うだけでは飽き足らず、狡猾にも皇后という地位を使って、陛下の関心ひいては寵を賜ろうと画策しているのだ。
小娘は稀代の悪女であると。
陛下を想っての言葉であった。
目を覚ましてほしかったのだ。
なのに、何故か、陛下はご機嫌を損ねてしまった。
本来ならば、そうだった、まったくアマリリスの言う通りだと、わたくしの頬と額に接吻を落とし、機嫌を取って、いつも以上にわたくしを甘やかして感謝すべきだというのに。
「そこまで言わなくてもいいだろう。仮にも相手は国母であり、大貴族の娘だ。いくら私の庇護下にいても、庇いきれぬこともある。言葉には気を付けろ」
陛下は温度のない蜂蜜色の瞳でわたくしを見ながら、ぴしゃりと言い切り、冷たく突き放したのだ。
この、わたくしを。
その日以降、陛下がわたくしの部屋に訪れたのはたったの数回である。それも、夜の帳がすっかり降りた頃には、陛下自身のお部屋へと戻ってしまうのだ。
(絶対、陛下に何かを吹き込んだに決まっている)
そうでなければ、わたくしを寵愛している陛下がわたくしを蔑ろにするはずがない。
実に忌々しい小娘だ。
箱入りなら箱入りらしくおとなしく箱の中で年を重ね、枯れて散ってしまうその時まで、陛下の訪れを待っておけば良かったものを。
本当に、余計なことをしてくれた。
がりっと、溢れそうになる激情を抑えるために綺麗に整えられた爪を噛んでいると、部屋の隅で待機していた侍女が、おそるおそると言ったように再び口を開けた。
「アマリリスさま。その、先程のお話には続きがございまして」
目線で黙って続きを促せば、侍女は1拍置いたあと、続けた。
「皇后陛下は療養のため、ご実家にお戻りになられたそうです。ご病気について詳細は存じ上げませんが、いつお戻りになるのかは決まっていないと聞いております」
「……療養?」
果物を口に含みながら口の中でその言葉を転がす。療養。療養…?
ということは……。
その意味を悟ったわたくしは歓喜で歪む口元を片手で覆った。
目障りな昼行燈。
身の程を弁えぬ愚かな小娘。
自ら出て行ったのか。陛下に命じられてそういう名目で出て行ったのか。それとも、本当に病を患ったのか。
はたまた、あの手紙が効果を発揮したのか。
真偽の程は知らぬが、まあ、どうでも良いことである。
重要なのは1つだけ。
小娘が皇后宮から姿を消し、地位やら権力やら我儘やらが織り交ざった鎖で縛っていた陛下を、解放したということだけだ。
「…そう、そうなの。そうなのね」
だとしたら、今宵にでも陛下がわたくしの元に来るはずだ。ご自分の過ちを認め、わたくしに許しを乞い、愛を紡ぎ、あの逞しい腕の中に閉じ込めてくれることだろう。
表現できぬ興奮と快感に胸が躍り、手が震え、口角が上がる。
「今から支度をするわ、準備をして」
天はわたくしを見捨てなかったのだ。
・・
「なんですって?」
案の定、その日の夕方には来てくれた陛下。
頭が沸騰しそうなほどの喜びを抑えつつ、最近購入したばかりのネグリジェ姿で出迎えた。陛下に付き従っていた女官長は軽蔑した目でわたくしを見てきたが、気にならなかった。
今宵は陛下と再びあの時のような関係に戻れる特別な日であることを、信じて疑っていなかったからだ。
そんなわたくしを嘲笑うように、陛下は寝台から離れた木製の椅子に腰かけると、少々疲れた様子で信じ難いことを言い放った。
驚愕のあまり聞き間違えかと混乱するわたくしに、陛下は少し重たい声で、しかし淡々と同じ言葉を繰り返す。
「皇后の話は聞いただろう。これから忙しくなる。だから、暫くここには来ない。何か不便なことがあれば女官長に言ってくれ」
は、と溜め込んでいた息が漏れた。
想像さえしていなかった衝撃的なその言葉に、目の前が真っ暗になった。氷が入った冷水を頭から被ったような錯覚に陥り、方向感覚を失ったような感覚に眩暈までしてきた。
右手がどうなっているのか、左手がどうなっているのか……そんなことでさえも、分からなくなっていく。
小娘の穴埋めを陛下がしなくてはいけないというのは、腹正しいことではあるが、理解できる。
だが、それが何故「陛下が暫く来ない」と同義になるのかさっぱり分からなかった。
「そんな……お仕事がすぐに終わる日もきっとくるはず。そのようなことを断言なさる必要はないでしょう?」
数多の男を虜にしたわたくしの声とは思えぬほど、情けないほど、震えていた。離れていく男に縋り付く惨めな女のようだと、現実を拒絶する頭でぼんやりと思う。
「……皇后の病が治り、復帰した時、無駄な心労をかけたくはない。私の方でできることはしておきたいんだ」
「……まあ、変な陛下。まるで、皇后のことを心配しているように聞こえますわよ?」
くすくすと、わらう。
震えた声が出ないように、恐怖や屈辱や不安が露わにならぬように、腹に力を込めながら。
だって、有り得ない。有り得ていいはずがない。
あれだけ、憎んでいたではないか。
権力や地位や顔やらに魅入られて、父親の力を借りて皇后になった小娘を。わたくしを不安の底に陥れた小娘を。
蛇蝎の如く、忌み嫌っていたではないか。
廃后の二の舞にはさせぬと、徹底的に避けていたではないか。
いくら病気になったからって、そんな小娘のことを考え、案じ、あれこれ配慮するなんて信じられない。
なのに……。
「そう言っているんだ」
陛下は静かにそう言った。
雨音が硝子窓を叩く音がぞっとするほど音が消えた部屋にいやに響いた。




