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陛下が今日も来てくださった。今日も陛下と語らいができる。その味わったことが無い、仄暗い歓喜。
今宵も、陛下は腰を悪くしてしまうと存じ上げておきながら、ソファで眠ってしまわれる。お互いの協定の上、男女の関係など築かないと承知の上だのに、信頼されていないのだろうか……。そんな、どこにも棲みつくことができぬ、やり切れぬ身勝手な悲しみ。
アマリリス妃の正真正銘の旦那さまを、身分と地位を使って奪っている。愛する夫婦の仲を、裂いているのだ……。なんて姑息で、みっともなく、陋劣なのだろうかという、絶望と罪悪感。
それらが頭の中を支配するかの如く入り乱れ、しかし融合できず、1つの個体を装い当然の如くそこに在る。
そして、毎日、息をするのもやっとな程の苦痛を、表現し難い悲しみをもたらすのだ。
加えて、追い打ちをかけるように、陛下とアマリリス妃が喧嘩したということを知った。それも壮絶で、仲直りが困難なほどの喧嘩らしい。
もう取り返しがつかない。どうしてくれるのだ。全ては身分と権力に物を言わせた、卑劣なおまえのせいだ。おまえのせいで、陛下とわたくしの仲に亀裂が入り、おまえのせいでわたくしは捨てられるかもしれない。
わたくしはもう2週間も、お目通りがない!おまえが、陛下の優しさに付けこんだせいだ!返して!陛下を、わたくしの陛下を、返しなさい!
……後宮から届いた手紙には、震えた字でそう書かれていた。
側妃が皇后に宛てる手紙にしては、品が無く礼儀に欠ける……。英邁なお方だと聞いていたが、違ったのだろうか。これでは処罰してくれと言っているようなもの。
ビビが私に渡すのを躊躇するのも頷けた。
しかし、必死の虚勢が垣間見える、悲しい手紙であることに違いは無い。手紙を細かく破ると、暖炉に投げ入れた。炎はよく燃え、美味しそうに塵となったそれを呑み込む。
「ビビ。手紙の封を開けた者に口止めをお願いできるかしら。あと、アマリリス妃と陛下の仲違いについて調べて、細大漏らさず報告を頼むわ」
「畏まりました」
窓を叩きつけるような大雨と共に、雷が落ちる音が驚くほど静かな室内を震わせた。
逃げたいと、そう思い始めたのはいつだったのか、もう私には分からぬ。
卑怯者らしく、愚かで高飛車な小娘らしく、身分を盾に剣にとする狡猾な貴族令嬢らしく。
愛する人と、その大切な女人を他でもない私が、意図して苦しめ、敢えて彼らの仲に割り込み、亀裂を入れている……その現実から、逃げたかった。
私は再び、梟が持ってきた手紙の封をあける。
ここ最近は、文字通り毎日やってくる。社交界で流れている噂を気にしているのだろう、まったく、何処までも過保護だと苦笑いを漏らす。
そこには各々の字と個性的な文章で、私を憂う言葉と、近況報告。そして「実家に帰ってこないか」という決まり文句が、丁寧に綴られていた。
こんな私でも大切なのだと言って抱きしめてくれる、家族から差し伸べられる温かい手。その手を、取りたいと漠然と思った。
私は家族の温もりを、いやというほど知っている。
それゆえ、嘘と偽善と使命感が張り巡らされたこのごっこ遊びは、泣きたいほど哀しく、縋りつきたいほど冷たい。
他人の犠牲によって成り立っている、私の我儘。
皇后だからと許される。皇后だから、あの公爵の娘だから、いいのだよ……と。
世も、家族も、敵でさえ、仕方ないなと苦笑し、許してしまうのだ。……いいえ、許さざるを得ない。苦言を呈せば、間違っていると諭せば、私の耳に届く前に消されてしまう。
万が一、運良く私を堂々と貶し、辱めることができたとしても……周囲によって、彼…もしくは彼女は、その何倍もの苦痛を味わうことになるだろう。
だから、誰も何も言わない。
ただただ、陛下がやっと目を覚まし、皇后陛下を愛されるようになったと、道化師の如く、わらうだけ。
傷付き、大量の出血による悲痛に喘ぎ、不平等な現実を呪っている者が下敷きになっていると、誰もが分かっているのに、誰もが無視を決め込み、誰もが侮蔑すべき対象だと除け者にし、私のご機嫌を取ろうと必死になる。
相手が平民だから、元高級娼婦だから。所詮、側室に過ぎないから。貴族出身の皇后を差し置いて、陛下の寵愛を賜ったから。
それらは相手の意思や、尊厳を蔑ろにして良い免罪符にはなり得ない、はずなのに。
ほうっと低い鳴き声が、私に早くしろと急かす。せっかちな梟。でも、私よりも聞き分けがよく、利口な梟。
私は「少しだけ待ってちょうだい、いいこだから」と頭を撫で、ペンを滑らせた。
――その次の日の夜。
案の定、梟と鷹が仲良く私の寝室の窓にやってきた。やや開いていた窓から威風堂々と侵入し、自由に家具の上で羽を休ませる彼らには、いつだって勝てぬと苦笑する。
そして手紙の封を開け………私は涙を零した。自分で決めたくせに、悲しくて、辛くて、寂しくて仕方なかった。
微温湯のような日々に幸せを見出していたのも、やはり事実であったのだ。
この場にビビがいなくて、陛下がいなくて良かったと涙を拭う。
しかし、拭っても拭っても、涙は止めどなく溢れては、家族からの手紙に水玉模様を作っていく。
もし私が陛下のお側を合法的に離れたら……陛下はきっと安堵する。これで無理しなくて良いのだと、これでアマリリス妃を傷つける原因が一時的ではあるが、いなくなったのだと。安心するだろう。
そしてその次に、大病を患い、暫しの間政界を離れての療養を与儀なくされた私を心配し、宮殿に早く戻ってくるようにと仰りながらも……内心では、どうにか1日でも遅く帰ってきてくれと、または、己への恋心が完全に腐り果てて消滅していてくれと、希うのだ。
最愛の奥さんの隣で。
「……っ」
いつだって、私は覚悟なんてできていない。
・・
私は出発前日に、陛下の執務室に顔を出し、公爵家専属医師が出してくれた偽の診断書をお見せした。
お父さまは、もっと前からお報せした方が良いのではないか、と仰っていたが、その必要は無いと断った。
陛下に不必要な心配をかけてはならぬ。見舞いに来てほしくて、私に構ってほしくて、実家に戻るわけではないのだから。
私が机の上に音もなく置いた書類を、陛下は受け取り……驚いたように顔を上げた。動揺からか、琥珀色の瞳が僅かに揺れている。
「これは、本当なのか?病気というのは……」
「はい。大した病ではございませんが、陛下にはお伝えしておいた方が良いと思いまして、こうしてご報告に参りました」
「……一体いつから……。いや、取り合えず座ってくれ。体は辛くは無いのか」
陛下は私に近くの椅子に座るように促し、私は僅かに躊躇いながらも、素直に従った。それに付き添うかの如く、陛下も立ち上がり、ソファに腰を下ろす。
こんな時でさえ、陛下の優雅な身のこなし方に、陛下の優しさに心臓を撃ち抜かれてしまうのだから、もう救いようがない。
馬鹿に付ける薬は無いと言うが、まさにその通りである。
「はい、今のところは」
「皇后自ら報告しに来るということは、深刻な病ではないと判断しても良いのだな?」
「ええ」
穏やかに笑み頷いた。
「ですが、身体が思うように動かないのも事実。ですから、明日の夕刻には実家に戻り療養することにいたしました」
「……は?」
陛下のお顔から色と表情が抜け落ちた。
「何故実家に戻る?……大した病ではないのなら、屋敷に戻らず、皇后宮で療養すれば良い話だろう。宮廷医師がいやなのならば、別の医師を用意する。仕事もする必要はない、完全に治るまで休んでいれば良い」
「有難いご提案ではございますが、皇后の病のことで、陛下の手を煩わせてはなりませんわ」
丁重に、だがしかしきっぱりと断った。
陛下のお言葉は凄く嬉しい。しかし、もう頷けない。陛下の優しさに付けこんだ結果がこれなのだ、同じ愚行は犯せぬ。
私は両手をぐっと握り、溢れそうになる涙を堪える。
「いつ、戻ってくるつもりだ」
陛下は何故か、親と逸れて迷子になったような、どうしたら良いのか分からぬというお顔をなさった。狼狽を隠そうともせず、心なしか、声に覇気もない。
唐突過ぎて、理解が追い付いていないのだろうか。
しかし、私が消えたあと1人でよくよく熟考すれば……きっと――。
「完治すれば、皇后宮に戻ってくるつもりです」
嘘だ。
いつまでも皇后が不在ではいけないので、戻ってくるつもりでは無論ある。
しかし、その時は私が陛下に対する恋心を捨てた時か、もしくは、アマリリス妃がご懐妊されたという情報が入ってきた、その時である。
それまでは、戻れぬ。陛下に会いたい、辛抱ならぬと戻れば……振り出しに戻るだろう。
私は再び、陛下にどうしようもなく惹かれて……今度こそは、分別を失い、理性を葬り、アマリリス妃を敵、憎悪の対象として仕留めにかかるかもしれない。
アマリリス妃は私にとっては、庭の中で飼っている仔猫も同然。首を取ることぐらい、なんてことがない。
そこまで考えて、はっと息を呑んだ。
脳裏に、アマリリス妃の亡骸を抱えて、琥珀色の美しい瞳から血の涙を流している陛下が過ったのだ。
背を研ぎ澄まされた剣でなぞられたような感覚を覚え、唇をぐっと噛みしめた。
――それだけは駄目。絶対。
愛してくれないのならば、大切な女だと見てくださらないのならば……陛下にとって、私は害の無い皇后であるという認識でいてほしい。
あの氷のような冷たい瞳で、取り付く島もない声音で、奸悪な皇后だと冷ややかに罵倒されるのだけは、もういやなのだ。
口を噤み不吉な思考を追い払おうとする私を、陛下が一体どんなお顔で見ていらっしゃったのか、知る由も無かった。
・・
出発する日。
大勢の使用人に見送られる中、ビビと共に公爵家から来た馬車に乗り込み、皇后宮を出た。
陛下は来てくださらなかった。




