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皇后の仕事は、大まかに分けて2つある。
ひとつ。国の母となり、国を導く皇帝陛下と共に国を守ることに尽力すること。
ふたつ。皇帝陛下の血を引く皇子を産み、良き指導者となれるように教育を施すこと。
一見、それほど難しくはないように思える。
実際、厳しい妃教育を乗り越えることができたら、国外の貴族との会談や、貴族夫人たちとのお茶会等々可愛く見えるものである。
だがそこには、陛下の協力が無くては成り立たない。
陛下の態度次第では、皇后という存在を軽んじても良い、又はそれほど気にする相手ではない……と周囲に思わせることも可能である。主上というのが絶対の貴族界隈の中、最も権力を得るのは皇后ではなく、寵妃と皮肉られることも多々ある。
そう思われては、皇后がどれだけ奮闘しても、身を粉にしても、報われるものも報われない。自分の意思を通すことでさえ、できぬのだ。
なので、どれほど陛下が皇后という存在を疎んじていても…蛇蝎の如く嫌っていても。
建前上は尊重し、皇后として扱ってくれなくては困る。無論そういった規則や暗黙の了解などは無いが、一種の常識である。
皇帝陛下と貴族令嬢の契約結婚であり。
1人の男と1人の女の結婚ではないのだから。
―――だがその考えは甘かった。
蓄積された噴煙は決して軽くなく、どろりとして禍々しく、それでいて鋭利な棘を持っていた。
・・
――数か月前に皇后になった私は、未だに陛下が寝所にいらっしゃることはなく、今宵も期待と絶望に塗れた夜を過ごす。
来てくださるかもしれない。いいえ、今日もきっと来てくださらないわ。陛下は私のことが、大嫌いだもの……。けれど、けれど、今日こそは少しは許してくださるかもしれない。少しは微笑んでくださるかもしれない。
その逞しい腕の中には閉じ込めてはくれなくても、共にお茶かお酒でも飲もうか……そう、思って下さるかもしれない。
いいえ、己惚れては駄目よ私……。
そう己の期待を律するが、愚かにも毎回そう願ってしまう。
私を蛇蝎の如く嫌い、恨み、憎悪を煮やしている陛下のこと。有り得ぬ話だというのに。
恋という沼に両足をとられ、心を盗まれてしまった成れの果てというのは、かくも恐ろしいものなのか……我ながら、そう戦慄してしまったこともある。
そこで至極悲しそうに、辛そうに、静かに入ってきた侍女の表情を見て……ああ、今日もかと私は奥歯を噛みしめた。今日もまた私は選ばれなかった。振り向いてはもらえなかった。
屈辱という名の辛酸を舐め続けるのは構わない。それは私の当然の罰であると甘受するつもりだ。
けれどそれは……一体いつまで続くのだろうか。
償い終えることは、あるのだろうか。
出口の見えぬ果てのない迷路のような道を想像し、くらりと眩暈がする。
「オリビアさま。今夜も陛下は……アマリリスさまの宮へと……」
「そう……」
アマリリスの名を聞き私はそうだろうな…と瞼を伏せた。
最初は寵妃の存在に激怒し、悲痛のあまり泣き暮れたものだが……今となっては、胸の奥底の古傷に針をさされたような、そんな痛みとも違和感ともとれる感覚だけ。随分慣れたものである。
慣れというのは、本当におそろしい。人を麻痺させる。
いつしか、冷遇され、蔑ろにされる環境にもなれてしまうのではないか……そう思うとぞっとする。
矜持、外聞、世間体、女としてのオリビア……そういったものが抜けていく感覚はきっとすごく気持ちが良くて……そこで待ち受ける死まで、受け入れてしまうようになるのだろう。
(たったの数か月だけなのに、こんなにも傷が深い……)
私は痛覚を失いつつある心を顧みて、下唇を噛んだ。
それだけ陛下を愛している、私をひどい目に合わせ、これみよがしに他の女を抱いても、気にならないぐらいには。愛しているのだ。
振り向いてもらえないまま老いて枯れていく花。
それはなんて、残酷で悲しいことだろうか。
だけれどそんな愛を捨てきれない。まったくの愚者である。いっそ捨てたら楽になれると言うのに。
古参侍女であるビビは、沈む表情を見せる私の前で膝をつき、私の手を握った。
「どうか、そのようなお顔をなさらないでくださいませ。今日は、チョコレートと葡萄酒をご用意いたしました。甘いものを召し上がれば、ご気分も優れますよ」
「……太ってしまうわ」
微笑みながら不安を漏らせば、ビビは柔らかく笑む。
「問題ありませんよ、少しぐらい。気になさるようでしたら、明日、乗馬でもなさってはどうですか。最近は執務室と寝室以外どこにも参られてはいないではありませんか。こう申し上げてはなんですが…侍女一同、とても心配しております…」
「分かっている。けれど、庭に出る気にもなれないの……」
「ここはオリビアさまの宮殿にございます。お庭も、お部屋も、侍女も騎士も下女も全てオリビアさまのもの。したがって、オリビアさまを害する者などおりません」
「けれど、」
心の底では分かってはいるが、無意識に恐れてしまう。
私という厄介な存在が身分を使って陛下を奪った……。仲の良い恋人であった、陛下とアマリリスさまは、私によって引き裂かれた……。
無くすことも、消すこともできないその過去を、きっと彼らも知っている。陛下の息がかかっている使用人に、あからさまに睨まれたこともあった。
(私ったら、皇后なのにそんなことも怖いから)
いつまでたっても、陛下の寵を賜るどころか関心も得られず、こうして冷遇され、愚弄されるのだ。
貴族令嬢として申し分なく過ごしてきたと自負していたが……お父さまとお母さま、大好きなお兄さまとお姉さまがいないだけで、こんなにも何もできない女と化す。
なんて愚かなことか。私は無意識に、虎の威を借りていたのだ。
そうやって、うずうずだらだらねっちねっち考える私を、ビビは呆れつつも、笑みを浮かべながら見ていた。
「存じ上げてはおりましたが、オリビアさまったらとっても頑固にございますね。そのお話は、明日でもできますので明日、もう一度ご提案させていただきますね。取り合えず今は、お風邪を召されてはいけませんので、湯に浸かりましょう」
「いつも助かるわ、ありがとう…」
「当然のことにございます」
毎回毎回毎回……こうして、もしかしたらと期待して、ああやはりね……と絶望の淵を見る度に、ビビを含めた侍女たちはせっせと世話を焼いてくれる。
本当は放っておいてもらっても構わないのだが……彼女たちの優しさは、時に私の血が流れた心の薬となり、包帯となる。
それだけ、私はここ数か月で侍女たちに心を許し、ただの使用人ではなく、友人のような感情も抱いていた。
身分の高さゆえ、同年代のお友達がいなかったこともあり、同い年であり幼い頃から仕えてくれているビビのことは、親友だとさえ勝手に思っていた。
「それにしても、オリビアさまの今宵のネグリジェは……なんと申しますか、艶美ですね」
「に、似合わないかしら」
私は、とてもたわわとは言えぬ果実が辛うじて守られている程度の己の姿を改めて見て、苦笑しながら戦々恐々と聞く。
ビビ曰く、アマリリスさまは舐瓜のような果実を持ち、艶やかな黒髪と異国風漂う雰囲気が特徴的な、絶世の美女らしい。
興味を持ち調べさせると、身分こそないが、彼女が蠱惑的に笑み、紅い唇をちろりと舐めるだけで、並の男なら蜜に群がる蜂の如く、彼女に心酔してしまうという。
おまけに聡明なお方で、陛下は顔だけに惚れた愚物ではなく、その聡い思考力や決断力に目を止めたのではないかとさえ、言われている。
すなわち要するに。才色兼備ということである。
金と権力に傾倒する蛇であってくれたら、儚さが売りの狐であってくれたら……どれだけ良かったことか。
報告書を見ながら、完全敗北を私は悟った。
何を隠そう、私はお世辞にも美女とは言えない。
家族は、それはもう可愛がってくれたが……。それは親や兄姉の欲目というものであり、鏡越しに見る私は至って平凡だ。
亜麻色の髪は常に各々の意思を貫き、あっち行ったりこっち行ったりと我儘。くすんだ桃色の瞳は甘い苺色と言われているが、どちらかと言えば血を限りなく薄めたような、少し汚い色をしている。
身体は決して細いわけでもなく、かといって筋肉がついている引き締まった身体でもない。ぷよっとお肉を摘めるという、欠点もある。
頭も良くない。どちらかと言えば、悪い。
皇后にはなれるぐらいには足りてはいるけれど……陛下を虜にはできなかった。
駄目押しに、私は幼い。
陛下は御年19。アマリリスさまは21歳と年上の美女で、私はと言えばたったの15歳の少女。又は餓鬼とも呼ぶ。
これも身分の高さ故のごり押し。
私が10歳も行かぬうちに、当時は皇太子だった陛下に恋をしてしまい……お父さまにうっかり「私、殿下のお嫁さんになりたい」と言ったのが、全ての始まりだ。地獄の開幕を知らせる鐘だったとも言い換えられる。
後悔はしていないけれど、下調べはしておくべきだったと悔やんでいる。
無論、お父さまやお母さまがしてくれてはいたと思うが……アマリリスという存在を、軽んじて見ていたのだろう。
寄ってたかってアマリリスさまを、見縊った結果がこれである。
「変ではありませんけれど。オリビアさまの雰囲気とは違います……」
戸惑ったように私が脱いだ衣装を見たビビにそう言われ、私は赤薔薇が浮かぶ湯に浸かりながら、次は清楚系で行こう……と決めた。
―――絶対に来ることは無い。分かっていても毎日期待してしまう。
なんて愚かで、哀れで、惨めな女なのだろうか。




