滞在 3
昨晩遅くまで降り続いていた雨も、翌日には既に小雨となっていた。
キエイが屋敷の廊下を歩きながらふと窓の向こう側に目を凝らすと、分厚い黒灰色の雲の隙間からは、地上へ一筋の光が伸びており、もうまもなく雨が上がることを予感させた。
この時間は、まだ早朝と言っても差し支えない頃合いだった。普段なら絶対に目を覚まさないだろう己の主は、仮にこんな時間に目を覚ましたところで、そのまま二度寝を決め込むのがお決まりのパターンだが、生憎今日の彼はいつもの彼ではないだろう。
果たしていつものようにノックもせずに、毎度お馴染みの無表情顔を装備して主の休む部屋の扉を開ければ、そこにはフカフカの布団の呪縛を自らの力で振りほどき、ちょうど寝台から体を起こしたジェーダスがいた。
「やはり起きておられましたね」
「お前は相変わらずだな。主人の部屋に入るのに、普通はノックするだろう」
「どうせいつもはお眠りになられていて、したところで気付かないではありませんか」
キエイの言葉は最もである。そして、『眠り伯爵』と呼ばれることもあるジェーダスだ。彼のノックの返事を待っていては、いつまでたっても部屋に入れない。なので、キエイはジェーダスの従者になってからというもの、早々にノックをするという無駄な行為は省くようになった。
「それにしても、よく俺が起きていると分かったな」
ジェーダスが尋ねると、キエイは当たり前ですと言わんばかりの顔で主人の身支度を整えながら言葉を返す。
「リリアン様をその手にするため、久しぶりに本気を出しておられるのでしょう? そんなあなた様が、呑気に睡眠にかまけて時間を無駄にはしないでしょう。まあ、眠そうではありますが」
その通りだった。
ジェーダスは返事をする代わりにふんと鼻をならすと、顎が外れんばかりに口を大きく開けて欠伸をかましてみせた。
しかしそんな顔にも関わらずジェーダスの美貌は保たれたままなのだから、本当にこの主人の顔面偏差値は無駄に高いものだ――と密かにキエイは感想を心中に漏らす。何度も何度も常人だと間抜け面にしかならない大欠伸を繰り返し、ようやくそれを終えたタイミングを見計らうと、キエイは準備の手は止めないままジェーダスに尋ねる。
「ちなみにリリアン様の攻略に関しましてなにか考えは浮かんだのですか?」
その質問に、欠伸のしすぎで目の端に涙を溜めたジェーダスはゆっくりと首を縦に振る。
「まあ、いくつかはな。……しかし、予想はしてたことだが、彼女をこちらに引き込むのは時間がかかりそうだ。あそこまで譲歩したのに首を縦に振らないとは。こういう時、一番手っ取り早いのは、金銭面で苦労しているであろう子爵家に援助を申し込む代わりに彼女を娶ることなんだろうが」
けれど、いくら莫大な金額を支払おうとリリアンから快い返事は得られないだろうことは、はじめの調査の過程で分かっていた。
「そうですね。例えばリリアン様がジェーダス様からの援助の見返りとしてこの地を離れるとあれば――――」
「その金を目当てに、パイロン家の人間がハイエナのように寄ってくるだろうな」
それでなくとも、パイロン家は領民に対して平均の倍以上の税金を課し、人々にギリギリの生活をさせながら自身は羽振りのいい暮らしをしているという、金の亡者である。あの家を何とかしない限り、リリアンは心配でこの話を受け入れてはくれないだろう。
それに、弟のこともある。
けれど、この話に首を縦に振らない一番の理由は、彼女の過去にあるということもまた、ジェーダスは重々承知していた。
「余程『あのこと』が尾を引いているらしいな」
「リリアン様が代理領主としての道を歩み始めた最初の年のことですね」
「ああ。そのことが今も重く彼女の心にのしかかっている。この婚姻関係を結びたがらない一番の根本は、彼女自身にある。だからあそこまで自分の能力や手腕に対して悲観的で卑下する言い方になるんだ。いくら周囲がそうではないと言っても、数字で示しても、リリアン自身がそれを認められなければ意味はない」
ジェーダスは本当に、彼女を無理やりに自分の元へ来させるつもりはない。ただ、リリアンを伯爵家に迎え入れる為には、子爵家に、そして彼女自身に絡み付いたあるしがらみを一つ一つ丁寧に取り除く必要がある。それは一足飛びにはいかないことだ。
「しかし仮に時間がかかっても、彼女を諦めるという選択肢は我が主にはありませんよね?」
従者の言葉に、主人は口元に肯定の意を示す弧を描く。
「当たり前だ。彼女以外と婚姻関係を結ぶくらいなら、俺は口煩い親戚共の小言を聞き続ける方がましだ」
そこまで言わしめるほどに、ジェーダスの第六感はリリアンを選べと言っているようだ。端から聞けば、情熱的な愛情をリリアンに向けていると勘違いしてしまいそうだが、勿論違う。
相変わらず、自身の欲望の為には惜しみ無く全力を注ぐよう気合いを入れる男である。
思えば先代の伯爵が亡くなった時もそうだった。
ジェーダスが優秀な人材を、各方面から己の直感で選出し、彼らに役割を与えた結果領土は先代の頃以上に発展したが、それもこれも彼がなんの憂いもなくぐうたらな生活を送れるように、という目的のもと行われた人事だった。
しかし自分勝手過ぎる理由とはいえ、民衆からしてみれば彼のお陰で自分達の生活が楽になるのだから、ジェーダスがぐうたらだろうがなんだろうが人々は決して彼を悪く言わないし、むしろ愛されているくらいだ。
新たに役職についた者達もはじめは戸惑っていた。中にはしがない庭師だった男や、街を徘徊するゴロツキのような者も含まれていた。
そんな彼らがいきなり領地経営の中核を担う役職に抜擢されたのだ。仕事のやり方も内容も分からないまま任命された人事であり、ジェーダスが彼らを起用した理由を問われれば、お得意の直感と目で決めたとあっさり答える始末。
だがジェーダスの見立て通り、彼らは存分に己の能力を発揮し、以前は死んだ魚のような瞳で日々を凌ぎ、負のオーラを撒き散らしていた人間が、今は生き生きと仕事をこなしている。日々の生活を、人生を、実に楽しそうに送っている。
そしてジェーダスは最初の目論見通り、優雅な生活を手に入れた。
自身の欲望を完全に達成させながら、なお且つそれに振りまわされた周囲も幸せになるという不思議な図柄を作り出すのだ。
そんな男がリリアンを伯爵家に欲しいと望むということは、それがリリアン自身も一番幸せになり、己の能力を存分に発揮できるということなんだろう。
ただ、彼女をその立場に持っていくには、強引にいっても無駄なのだろう。だからこそ己の主人はこんなにも考えている。リリアンを手にする為の策を。
今のジェーダスの様子は、先代が亡くなってさあこれから改革を始めようか、と珍しく重い腰を上げて積極的に走り回ったあの頃と非常に似ている。その証拠に、気だる気な顔つきはともかく、その目は何かを思い悩んでいるかのように細まり、真剣味を帯びている。
あの時も、惰眠をむさぼる彼にしては珍しく、朝からきっちり頭を働かせ、自身の理想とする体制作りに尽力を尽くしていた。勿論その体制がきっちり整うと、途端にいつものものぐさでぐうたらな彼に戻ったのだが。
「まあ、ジェーダス様にそれだけやる気がおありなようでしたら、いつかはリリアン様は伯爵家にやってくるということなのでしょう。でしたら私は、いつリリアン様がジェーダス様の妻になり、我々使用人の上に立ってもいいように、準備をしておくだけです」
「ああ、頼むぞ。だがなキエイ、とりあえず今考えなければいけないのは……」
ジェーダスはそう言うと、もうすぐ太陽が顔を出しそうな明るくなりつつある空をふと見やる。
ジェーダスと話をしている間に、すっかり雨は止んでしまった。だが、そうなると困ることがあった。
彼らがここにいるのは、あくまでも雨宿りの為である。こうして快晴になってしまっては、リリアンの屋敷に滞在する理由はない。しかしリリアンとの関係性が全く進んでいない状態で、おめおめと退散する訳にもいかない。
「まあ、別にジェーダス様があと数日滞在したいと幼子のようにみっともなく駄々をこねられたり、また、動くのが億劫なのでしばらく布団にこもりたいと要求されても、拒否をされることはないと思いますが」
「常々思うんだが、お前は俺を馬鹿にしている節があるな」
「いいえ、決してそのようなことはございません。……第一、私が毒を吐きたがる習性なのはご存知ではありませんか。それでも構わないからと、私をパブリックスクールの教師という立場からご自身の側近に引き抜いたのは他ならぬあなたですよ」
「そういえばそうだったな。だが、側に仕えてもうすぐ十年にはなるだろう。少しくらいは俺を敬う気になれないのか」
「なれませんね。本気を出されているあなた様ならともかく、ほとんど無気力に日々惰眠をむさぼる主をどうやって敬えと? ああ、それとも心ない称賛の声がお望みですか? 上辺だけの言葉なら、主が望むのであれば私はいくらでも言って差し上げますが」
「いや、もういい。試しに言ってみただけだ。それより、今はリリアンのことだ。お前の言う通り、望めばいくらでも滞在を許してはくれるだろうな。俺もそう思う。だがじり貧の子爵家の懐具合を考えると、その好意にただ甘えるのはいささか心苦しい。滞在費を払う、とお金で解決しようとしても、そんなものは受け取れないと首を大きく横に振りながら提案を拒否する姿が目に浮かぶ」
何せ伯爵家の方が立場は上だ。仮に滞在を迷惑に思っていても、ジェーダスがそれを望めば子爵家はそれを拒絶できない。それに、リリアンやデジリーは人もいいのが見た感じからして分かるので、むしろ何日でも滞在して下さいと言ってもてなしてくれる予感はする。お礼に金銭を渡そうとしても、決して受取ろうとはしないだろう。
さて、どうするのだろうと思いながらジェーダスを見つめていると、彼はとどめの一発とばかりに声を上げながらもう一度大きな大きな欠伸をしてから、瞬き二つ程熟考した後ややあと口を開くと、キエイにあることを命じた。
その言葉を耳にしたキエイはすぐにジェーダスの意思を理解し、かしこまりましたと頭を軽く下げて了承の意を示す。
そして主人の命に従うべく、早々に部屋を後にした。




