28・花の花
「ロベルティナ・デル・バルラガンよ、どうぞよしなに」
宣言通りロベルティナは、アルフォンソの屋敷に通ってくるようになった。
午前中にやってきて補佐の仕事をして、午後にエウフェミアと共に花師の学校に通う。
ロベルティナが、主に引き継いでいる仕事はウィルフレドの仕事だという。抱えている仕事が多すぎて、コレクションの銃を磨く暇もないみたいよと、ロベルティナが楽しそうに語っていた。
「まだまだ人が足りていない」
忙しい合間を縫って、アルフォンソはエウフェミアとの時間を作ってくれる。今日は、彼女を自宅へ送る時の馬車に同乗していた。カリナも一緒だが。
ガラガラと夕闇の中を、明かりを吊るした馬車が走る。
彼が慢性的な人材不足に悩まされているのは、エウフェミアもよく知っている。何しろ、最初に訪問した時の執事役がウィルフレドだったのだから。
どこもかしこも穴だらけの状態を、必死に埋めながら毎日を乗り切っているのだろう。その一部をロベルティナに託すという考えは、とてもよいことだと彼女も思った。
「あの……ひとつ思ったのですが」
だから素朴な疑問が思い浮かんだ。
「何だ?」
疲れ気味な表情を消しながら、彼は少し身を乗り出した。
「執事の仕事など……女性では駄目なのですか?」
「………………なるほど」
長い沈黙は、思考を巡らせている時間だったのか。ぼそりと呟かれた最後の言葉は、低い声。誰かのために彩られた声ではなく、完全な素の声。
「その方向でも検討してみよう……しかし」
ふと、アルフォンソが言葉を切る。大きな手で自分の顎に軽く触れながら、何とも言えない表情で彼女を見つめる。
「どうかされました?」
変なことを言っただろうかとエウフェミアが瞬きをすると、彼は「いや」と少し歯切れが悪い反応を返す。
「申し出は非常にありがたいが……この調子でいくと、俺の周りは女性だらけになってしまうかもしれん」
彼女の目をじっと見ながら紡がれる言葉は、どこか探るようで。
確かにと、エウフェミアは頷いた。現時点でカリナがいてティアラがいて、ロベルティナが加わった。そこに女性の執事まで入ると、屋敷での彼の周囲は女性だらけ、と見られてもおかしくない。
「そうなると、おそらく望まない噂も数多く生まれるだろう」
現時点でロベルティナがその噂の筆頭だろう。噂に疎いエウフェミアでも簡単に想像できる。
「その噂は……真実になりますか?」
彼女は恐る恐る問いかけた。
「しない」
返答は断定的で簡単なものだった。
なるかならないかではなく、するかしないかで彼は答えた。彼はそういう人だと、エウフェミアは微笑んだ。
「ふふ……心配になったら直接相談しますね」
「そうしてくれ。カリナに相談する前にこっちに頼む」
沈黙を守っている女性に、アルフォンソがちらと視線を向けると、カリナは表情を変えないままこう言った。
「疑われるようなことをしなければいいのです」
未来の夫の側にたくさんの女性が並ぶ姿は、きっと壮観なことだろうとエウフェミアは思った。そしておそらく誰よりもそれが似合う人だとも思った。
そういう人だからこそ、エウフェミアを結婚相手に選んだのだろうから。
貴族の女性の多くは、政略結婚をする。その道だけが、分かりやすく周囲から示されているためだ。けれど他にも道があると分かった時、彼女たちはどう反応するだろうか。保守的な環境の中で、どれほどの人が行動を起こせるだろうか。
不幸なことに、この国は内戦が起きた。けれど戦後のこの人手不足という大穴は、女性たちにとっても貴重な機会にも見える。
「女性が花師になれるのですもの……ロベルティナ様のこともありますし、きっとこれから時代は少しずつ変わって行くのでしょうね」
「変わって行くんじゃない」
「え?」
「変えていくんだ……君が花師になりたいと、そう決意したように」
アルフォンソの力強い言葉は、エウフェミアの中に染み入ってくる。あの時の彼女の決意は、強く野心溢れる男の心に届いたのだ。そう思うと、エウフェミアの中にも気恥ずかしさの陰に、少しの強さが芽生えた気がする。
彼女がふふと微笑むと、アルフォンソもにこと笑った。
幸せな時間だと思っていた──突然、発砲音が聞こえてこなければ。
「何事だ!」
「待ち伏せです!」
護衛は六騎。
先行していた二騎が、駆け戻ってきて叫ぶ。
その声の横では、既にカリナがカードを蜂にして窓から飛ばしていた。
「馬車ごと温室で囲みますか?」
エウフェミアはそう提案した。もしもの時は、温室の祈りを避難場所とすること。それはアルフォンソの周囲の女性たちの常識となっていた。いまはカリナも貴族の子女となり、洗礼を受け、使うことができる。
ロベルティナ、カリナ、エウフェミアの三人により、温室研究も始まっていた。女性が自身の身を守ること──それも必要な戦いだとして。
「そうだ。エウフェミアが馬車を防御したら、カリナは前方で防弾壁を作ってくれ」
防弾壁。
何も障害のない路上では、銃の的になってしまう。そこで考えられたのが、小さな温室を盾にするという方法。温室は何も、曲線でなければならないわけではない。そこで人間が隠れられるような壁の形で、展開する方法が編み出された。この展開は、カリナが一番うまい。
緊張と不安で心臓を高鳴らせながらも、エウフェミアは馬車を覆うように温室を張る。腕を抜いてアルフォンソとカリナの足音が前方へと遠ざかる。パンっとまた銃声があがり、一人馬車に取り残された彼女は、ひっと小さな声をあげた。
アルフォンソと結婚するまでに、そして結婚した後も、こういうことがきっとまた起きるのだろう。政情が安定し、内戦の傷跡が癒えるまで。
それまで何度も何度も、大事な人の命の心配をしなければならない。それは、とても恐ろしいことだ。
けれど、とエウフェミアは思った。けれど、それはエウフェミアと結婚しなくとも、彼に降りかかり続ける火の粉であることには変わりはない。もし、結婚を取りやめたとしても、アルフォンソが無事に過ごしているかどうか、心配せずにいる自信はなかった。
それならば、せめて側で心配している方がよほどマシだと、彼女は己の中の恐怖と折り合いをつけることにした。
パン、パンッと銃の音がする。ガンッと馬車を覆う温室に当たったのか、固い音が弾かれ、エウフェミアは身を竦める。
みなの無事を、彼女は馬車の中で震えながらも祈り続ける。自分の安全を自分で守れるだけでも、足手まといにはならない。
それにはとてつもない価値がある、とアルフォンソは言った。危険な時に、彼が婚約者の心配をしなくて済むからだ。
銃声と怒声と剣戟と悲鳴といななきと鈍い音と重量のあるものが倒れる音。平和と真逆の音の群れを、エウフェミアは祈りながらやり過ごした。
けれど、時は確実に過ぎ、状況も変化していく。
「魔法使い到着ー、あ、まだ解かなくていいよ」
馬車の温室が二回叩かれ、セシリオの声が後ろから前へと流れていく。それに追従する武装した多数の足音も。救援が到着したのだ。
増える銃声と衝撃音。
それが少しずつ小さくなり、ついに消えた。
代わりにざわつく人の声が大きくなる。
「エウフェミア……」
ふぅと息を吐いた音と、膜ごしに呼びかけられる声。アルフォンソが無事だったことに、ほっとしようとした時、こう続けられた。
「……頼みがある」
その声は厳しい音をしていた。何か深刻な事態が起きたのだろうか。
「私で出来ることであれば」
「……温室を解いて出てくれ」
「はい」
何に対して覚悟を決めたらいいかも分からないまま、エウフェミアは馬車を下り、自分を守る盾であり目隠しである膜を解いた。
目の前のアルフォンソは泥と血で汚れ、髪は乱れていたものの、大きな怪我を負った様子はない。しかし、争いの激しさを表すように、彼の胸のディローザはボロボロだった。
「来てくれ」
普段、多くの言葉を紡ぐ彼の口は重く、エウフェミアの手を取りエスコートというには少しばかり早足で、前方へと進む。
周囲は暗いが、増援が持ち込んだカンテラの灯りが照らしていた。武装した男たちは、アルフォンソが近づくとざっと道を開ける。
その男たちに作られた道を抜けた先には──カリナが横たわっていた。
誰かのマントが敷かれただけの地面の上。カリナは目を開けてはいたが、その顔は作り物の蝋細工のようだった。カンテラの黄色い灯りに照らされていても、まるで生気を感じない。
そして腹部に赤い花が、違う、花ではないとエウフェミアは分かった。
血だ。彼女はその腹に銃弾か刃を受けたのだ。
「カ、カリ……」
「全員カリナの周囲に背を向けて壁を作れ!」
茫然とエウフェミアが呼びかけようとするより先に、アルフォンソが大声を上げる。
その号令に、練度を感じさせる動きで男たちが速やかに移動を始めた。倒れるカリナと、その側に立つエウフェミア達を囲むように彼らは人の壁を作る。
「エウフェミア……カリナはまだ生きているが、このままでは確実に死ぬ」
恐ろしい言葉をアルフォンソは口にする。不安と恐怖がエウフェミアの足を掴もうとした。
しかし、一筋の希望が彼女の心をよぎる。
「わ、わたくしのディローザを……」
彼女は自分のドレスの胸についている花を、震える手で外した。
それは、もうひとつの命の花。
カリナも貴族という立場になり、ディローザをつけるようになった。しかし、それは彼女の自宅の花だ。艶の悪い、まだ内戦の傷跡を色濃く残す花。本当に失われかけた命を、取り戻せるかどうか分からない。
だからエウフェミアは自分の花を差し出した。これならば、カリナを助けられるのではないかと。
彼女に伸ばされる大きな手が花を受け取る前に、軽く頬に触れる。言葉にならない感謝の祈りが、そのぬくもりにはあった。
エウフェミアのディローザが、カリナの花の代わりに胸に置かれる。そこではっと気づいたように、アルフォンソは上着を脱いで彼女に預けた。
「終わったら、すぐにその上着をかけてやってくれ」
彼の指示によく分からないなりに、エウフェミアは頷いた。とにかく早く彼女を助けてほしかった。
なのに、アルフォンソは腰の剣を抜く。抜いた切っ先を、カリナの胸へ、ディローザの上に載せる。
カリナを助けるのではないのかと、悲鳴をあげそうになるが、彼女はそれを必死に呑み込んだ。
ひどいことをアルフォンソがカリナにするはずがない。その信じる気持ちだけを頼りに、彼女はそこに踏みとどまった。
「生きろ」
花のど真ん中。真上から。両手で。一気に。
アルフォンソはカリナの胸を花の上から突き、引き抜いた。
「あ……」
生まれて初めて見る光景に、エウフェミアは声を漏らす。
花の中心に空いた穴から、カリナの血があふれ出す。花の色と血の色が混じり合い、外側へと広がって行った。それは新しい花びらを作り出す。十重に二十重に百重に──花びらが絨毯のように広がり、カリナの姿を覆い隠していく。
赤い花の棺。
エウフェミアには、そう見えた。
カリナの全てが花びらで隠された後、今度は元のディローザのあった場所から散り始める。
はらはらと、カリナの形から花びらが落ちていく。
最初に肌が見えて、エウフェミアは驚き慌てた。自分の手に、アルフォンソのジャケットが握られていることに気づき、それを広げながら、彼女の側にひざまずく。
ドレスの胸が切れているのは、アルフォンソの剣のせい。しかしそこに血の跡はない。まるで花びらが全て吸ってしまったかのようだ。
花びらが次々落ちていく。
腹部も穴が空いているが、肌は無事。ドレスにも血は残っていない。
ジャケットをかけながら、エウフェミアはカリナを見た。カリナの顔を見た。
目は閉じられている。
けれどその頬はもう蝋人形ではない。
そして──瞼が揺れた。
「……ただいま戻りました」
散り落ちた花びらに囲まれたカリナが、呟くように言った。
「……おかえりなさいっ」
そんなことを言われたら、エウフェミアだってそう答えるしかないではないか。




