27・花のうろこ
「ああもう……たまらないわ」
バルコニーの二人は、微笑みながら手を取り室内へ戻って来ようとする。ロベルティナの表情は喜びを通り越して恍惚と言っていいほどで、頬は薔薇色に染まっていた。その視線はエスコートしている隣のアルフォンソにずっと向けられており、夢中になっているのは明らかだ。
エウフェミアは身の置き所がなく、戸惑っていた。この二人の前に立ちはだかるには、彼女はあまりに貧弱である。それにこの立ち位置は、いかにも盗み聞きをしに来ましたと言っているようなもので。早くどこかへ隠れないとと、彼女は無駄な抵抗をしようとした。
「エウフェミア?」
しかしあまりに距離は近すぎたし、彼女はそれほど素早くはなかった。ほんの少し視線を前に向けられるだけで、簡単に見つかってしまう。
「あの……これはっ……」
どう答えたらいいのか言葉を探せないまま、中途半端な音だけがこぼれ落ちる。そんな彼女に、ロベルティナが小さく笑う。
しかしそちらの反応よりも、アルフォンソが浮かべた苦笑いの方が、よほど彼女には堪えた。見えるところに立って話をしていた彼の誠実さを、信じ切れなかったかのように取られてもおかしくなかった。
「あの……私……」
「エウフェミア、彼女は……」
だから彼女は、ちゃんと自分の気持ちを説明しなければならないと思った。遅すぎる言葉の回転を婚約者が補おうとしてくれるが、それより早くなければならないと思ったのである。
だからエウフェミアはとにかくこう彼に告げた。
「あの……私……私でも戦える場所があればっ……戦います。簡単に、倒されないように、勉強しますっ」
アルフォンソと出会って、彼女は出来ることが広がった。花師になる道さえ出来た。その学校に通って気づいたことは、知識を得る前と後では、世界が違って見えるということ。
土を見る目も、枝葉を見る目も、花を見る目すら前と同じではない。
新しい世界を見る目を獲得することができるかは分からないが、何も知らないよりは絶対に己の血肉になる。
エウフェミアはそれを彼に伝えようとした。結果として、盗み聞きをしてましたと告白するようなものだったが。
「エウフェ……」
「ふふ、ふふふふふふふふふふっ」
虚を突かれたアルフォンソと、こらえようとしてこらえきれないロベルティナから漏れ続ける笑い声。
気づいた時には室内はシンとしていて、中にいる人間たちの視線が彼ら三人に集中していた。
「ふふふ、素敵ねエウフェミア様……では」
ロベルティナは、エスコートする隣の男から手をするりと離した。ドレスの裾を優雅に揺らし、エウフェミアの方へと歩み寄る。
そして彼女の方へとその手を差し出すのだ。
「では……一緒に“あの方”を倒しましょう」
ロベルティナの視線は、エウフェミアを飛び越した。彼女は混乱しながら、その視線を追いかけるために振り返る。
視線の先は、さっきまでエウフェミアがいた辺り。
そこにいるのは──ウィルフレドとセシリオ。ウィルフレドはいつもの真顔でこちらを見ていて、セシリオは微笑みながら軽く手を振っていた。
それを見たエウフェミアは、首を傾げながらロベルティナへと視線を戻す。
「あの……どちらの……えっ? どうしてですか?」
エウフェミアの解けない混乱に、ロベルティナは更におかしそうに笑った。しかし、その問いに答える前に、彼女は瞳を動かして方向を変えた。
「お兄様、私、決めました」
ファウスティノの方である。
彼らに注目していたのは、彼女の兄も同じだ。カリナを口説くために二人で少し離れていたが、身内の騒動にさすがに集中力がそがれたのだろう。
そこに、ロベルティナが目を輝かせながら兄を呼ぶ。淑女の声というには、しっかりとした張りのある音階で。
「何をだい?」
冷静だが疑念は隠していない。どこか妹の次の言葉を歓迎していない音。
自宅でもなく、兄妹だけの秘密の会話でもない。みなのいる場で、みなに聞かせようとする言葉である。
それは言うならば──
「お兄様、私はレオカディオ四位の……側近になります」
──宣言。
「私は自分で決めたかったの」
「……決めたかった?」
エウフェミアは、ロベルティナと向かい合ってソファに座っていた。
向こうの方ではアルフォンソとファウスティノが顔突き合わせて何かを言い合っている。ウィルフレドはあちらの側近と何かを話しているし、こちらに興味津々のセシリオはその腕をカリナに握られて拘束されていた。
結果的に女性二人だけでの会話となっていた。
「内戦時、私には東も西も選ぶ権利はなくて……ただ外国に逃がされ、生かされることだけを望まれて……」
そもそも親と違う陣営を選ぶなんて、発想すらなかったとロベルティナは言う。
「けれど、レオカディオ四位は自分で選ばれましたわ。私の周囲の誰もが裏切者と叫ぶ中、そこに兄が加わったと聞いた時は、姉と一緒に倒れかけたほどよ」
そして勝ち残ったのは、第三王子でありアルフォンソでありファウスティノだった。女であるが故に、ロベルティナと姉は寝返った兄により生かされた。
「内戦が終わった後、私は多くを考えてみたわ……もし私が男だったら、どちらについていたのか。もし私が既に東軍の貴族に嫁入りしていたとしたら、どちらの陣営を選んだか……実家か、婚家か」
だから、と。ロベルティナはまっすぐにこちらを見つめてくる。胸の下で指を組み、ほぉっと息を吐いて。
「だから……私はレオカディオ四位を自分で決めたの」
ふふふっと、嬉しそうに彼女は微笑む。自信に満ちているというよりは、自身の決断を愛している顔。
ロベルティナは、確かにこれまでアルフォンソの妻になるために知恵を絞った。それはエウフェミアにも伝わっている。ついには愛人でいいとまで言わしめた。
「でも……まだ私の決断は、私のこれまでの常識に縛られてたわ……そうでしょう? だって私、レオカディオ四位の“妻”しか選択肢がないと思っていたんですもの」
彼女の言葉は、パリパリとエウフェミアの目からも鱗をはがす。さっきまでと違う世界が広がろうとしている。
「だから……側近になると決めたのですね?」
「ええ、レオカディオ四位が提案してくださったの……妻には出来ないけれど、鷹蜂の翼になる気はないかって……右側は埋まっているが、奪えるものなら奪っていいぞ、と」
ロベルティナの声が、途中からアルフォンソの声で聞こえてくるような言葉だった。
恋敵だったはずの彼女の決断の力強さを、エウフェミアはとても眩しく見つめた。
貴族の女性の“こうあるべき”を、ロベルティナがこれからことごとく壊していくのではないか、そう予感してしまうほど。
「だから私は、あの方を倒すつもりで働くわ」
獲物のように視線を固定している先にいるのは、ウィルフレド。今度はちゃんとエウフェミアも分かった。
アルフォンソの右の翼である男と、その地位を争うのだと。
「ふふ、そういえばエウフェミア様も、一緒に戦うのでしょう?」
そんな眩しさの先にいる女性が、突然エウフェミアに矛先を向けた。
えっ、と時を止める。
少し前、勘違いして宣言してしまった言葉を、楽しそうにほじくり返されたからだ。
「そ、それは……」
首から耳まで赤くしながら、エウフェミアは恥ずかしさで言葉を途切れさせる。
「のんびりしてると、どんどん置いて行ってよ?」
艶やかな微笑みは美しく、けれど彼女もまた少し眩しそうにエウフェミアを見つめていた。
エウフェミアが顔を赤くしている頃──
「レオカディオ四位、私の妹を都合よく使う気ですか?」
「都合よく、などとは人聞きの悪い……この国の素晴らしい未来を一緒に作るのですよ、バルラガン三位」
「それは、私の元でもいいはずです」
「選んだのは、本人ですよ」
「妹を行き遅れにさせる気ですか?」
「魅力のある者は、決して周囲が放っておかないでしょう……バルラガン三位、もっと彼女を信頼したらいかがですかな」
「しかし……」
男たちの顔を突き合わせの言葉の応酬は、まだ終わりそうになかった。




