21・花の社交
「愛人でも構いませんのよ?」と、耳打ちしたロベルティナの言葉に、エウフェミアはしばらく完全に動きを止めたままだった。
衝撃すぎて息をするのも忘れたほどだ。
「大丈夫か?」
内容が気になっていただろうアルフォンソに、いち早く異変に気付かれる。向かいに座るファウスティノもカリナもウィルフレドまで、固まったままの彼女に向いている。
「え……っと」
最初に思い出したのは瞬き。それから呼吸。そして声。まだ頭がうまく動いていない。ようやく目を動かせるようになり、首も動かして隣のロベルティナを見ると、彼女はいつもの自信に満ちた笑みを浮かべている。
次に首を非常に動かしにくい方向──アルフォンソの方に向けると、心配するな、という視線が返される。
これはどんな試練なのか。
ロベルティナの「作意」は、本当に力がある。
彼女の言葉をそのままアルフォンソに耳打ちするということは、婚約者が公認で愛人を斡旋しているような意味になりかねない。
ましてやうっかりここで公にしてしまえば、ロベルティナがとんでもないことを言い出したとバルラガン組が騒然となり、晩餐会どころではなくなってしまう。
カリナの大事な時間だというのに。
言葉にするかしないかという二択であれば、「しない」方がきっと正しい。一般的な婚約者の女性であれば、ここで憤慨して立ち去ってもいいくらいだ。
だがエウフェミアがそれをしないことを、この女性はよく知っている。それを「信頼」した上での発言だとも分かっていた。
「エウフェミア嬢?」
「妹が何か無作法でも?」
晩餐会包囲網の中、エウフェミアはもう一度ロベルティナの方を見た。
「え……ええと……」
「エウフェミア嬢……大丈夫だ」
テーブルに軽く乗せていた手の上に、大きな手が重ねられた。アルフォンソだ。
「心配せずに……君の思う通りにしていい」
どうせとんでもないことだろう? と、アルフォンソが視線で伝えてくる。エウフェミアはゆっくりと息を吐く。この手のぬくもりは婚約者からの支援であり、信頼だと感じていた。
エウフェミアがいましたいことは、晩餐会を無事終わらせることと、カリナとファウスティノにたくさん話をしてもらうことである。
ということは──
「アルフォンソ様……これはとても大切な話なので、後でゆっくり伝えたいのですが、良いでしょうか」
──いま、この場で伝えない、ということがエウフェミアの最善だった。
ロベルティナの話に特異性はあっても、緊急性はない。話をするのがいまだろうが、二時間後だろうが明日だろうが、極端に放置しない限りは問題がない。
だから、いまじゃなくてもいい。
「勿論だ、エウフェミア嬢」
悠然とアルフォンソが微笑んで答えた。
「あら」
ロベルティナが困ったような笑みを浮かべる。悪戯が発覚した時の子供みたいだと、エウフェミアは思った。
「ロベルティナ……後で兄にも教えておくれよ?」
「……はぁい」
エウフェミアの先送りは、ファウスティノにも伝わったのか、いまここで妹を白状させようという気はなさそうだ。兄の追及に、ロベルティナが正直に答えるかは別として。
エウフェミアも、後でロベルティナと話をしたいと思った。彼女と会話をしていると、頭が真っ白になることも多いが、その言葉の基礎となる心にちゃんと触れたわけではない。そこがとても気になった。
「カリナ嬢……」
「何でしょうか」
ロベルティナの話題はそこで終わり、ファウスティノがカリナと話す言葉が少しずつ増え始める。
人の話を盗み聞きするのは罪悪感があるが、エウフェミアはつい気になって食事をしているふりで、耳だけをそちらに向けてしまう。
「妹のロベルティナを……どう思われます?」
「……ここの魔法使いと似ていると思います」
「それって僕のことですかー?」
「……」
「なるほど……何となく言いたいことは分かりました。けれど、うちの妹の方が美人ですね」
「まあお兄様ったら。うふふ」
「僕も化粧をすれば中々のものですよ?」
「……」
しかし、話題の方向がよろしくない。エウフェミアは頭を抱えたくなった。ファウスティノほどの階位であれば、社交経験も豊富だろうしもっと話題もあるのでは──そう思って、はたと思考を止める。
本当にそうだろうかと。
ファウスティノの経歴は聞いたが内戦の最中に成人した人で、アルフォンソより年下だ。未成年の間は、年齢が合わないために特定の王族には仕えず、学校の寄宿舎にいたという。
学校を卒業してそのまま家族を捨てて東側に寝返り、終戦まで戦い、そして政治の世界で飛び回って一年と半分。
その間に彼が行った他の貴族との交流は、果たして「社交」と言うべきなのか。
アルフォンソがエウフェミアとようやく最近婚約したように、それより年下の彼もまた、今まで「それどころ」ではなかったのではないか。
そう考えると、気になる女性への話題が自身の妹になってしまうのも、仕方がないのかもしれない。何でもそつなくこなせそうな見た目をしているからこそ、少しの残念さが普通より大きく見えてしまうのは、彼にとっては損なのかもしれないとエウフェミアは思った。
「エウフェミア嬢……」
そんなことを考えている彼女に、アルフォンソが小さく囁く。
「その視線は、できれば……こっちに向けてくれ」
彼女の婚約者もきっとこれまで、「それどころ」ではなかったのだと思い出し、エウフェミアは「はい」と傷の残る顎を見つめた。
社交とは、という命題の中で続く晩餐会の真っただ中。
ふとアルフォンソの手が止まったことにエウフェミアは気づく。
皿の上にはシカ肉のソテー。フォークとナイフで切り分けている途中の停止に、エウフェミアはちらっと彼を見る。
アルフォンソは苦い表情を浮かべていた。もしかしてシカ肉が嫌いなのだろうか。
彼女の視線に気づいたらしいアルフォンソが、再び肉を切り終えるまで手を動かした。そしてナイフを置いた右手を、その人差し指を、そっと自身の唇に近づける。
静かに、という動きに、何か起きるのかとエウフェミアは鼓動を早くした。
この晩餐会は何か変だ。
少なくとも全員が一滴もお酒を入れていない。それを不審にも怪訝にも表していない。エウフェミア以外の全員が、その意味を理解しているような、そんな気がする。
何かが起きようとしているのか。
不安でどきどきしているエウフェミアに、アルフォンソがゆっくりと口元の手を下ろす。
しかしその右手はフォークに持ち替えられるわけでもなく、ワイングラスに手を伸ばすわけでもなく、テーブルの上に置かれるでもなく、膝の位置まで下りる。
人差し指は伸びたまま。
ゆっくりゆっくりと、エウフェミアの視線を引き連れてその指先が下りた先は──二人の席の間の下の方。
見えたのは赤。
真っ白く長いテーブルクロスを持ち上げるように、赤いものがそこにあった。
エウフェミアは驚きのあまり飛び出しそうになる声を、ぐっと吞み込まなければならなかった。
二人の間にあったものは、赤いもの、ではなく、赤い髪。
眠そうに目をこすりながらテーブルの下から顔を出した──ティアラだった。
さっきまで、そこで寝ていましたと言わんばかりの様子である。ちいさくあくびをすると、上を見上げて、アルフォンソとエウフェミアを視認した。
その鼻が、くんくんと動く。香ばしくシカ肉が焼けた匂いを拾うように。
「……おなかすいた」
ティアラは、二人にあーんと口を開ける。
本当に驚きばかりの晩餐会だ。




