第197話 下手くそな笑顔
或いは俺の血か、それとも雨漏りか、何かが石畳の上に滴る音を聞いて、目を覚ました。
足に張り付く冷たい煉瓦の感触と、ケツの軋むような痛み。
そして最初に目に映るのは決まって、手枷のハマったボロい彫像みたいな俺の手。
顔をゆっくりとあげる。
目の前の鉄格子越しに薄っすらと差し込む蝋燭の光。
意識の覚醒から少し遅れて、手足……より詳細にいえば指先の痛みがやってきた。
王宮に忍び込んで暴れ回って、そして親父に一撃でやられて投獄されて……あれから一体何日が経っただろう。
「ッ……」
ちょうど昨日看守き殴られた脇腹の痛みがぶり返してきて、顔を顰める。
後悔は無い……とは言えない。
一日刻みで迫る結婚式に焦り、単身策もなく王宮に飛び込んでこのザマ。
だがまあ、入念に策を練って乗り込んでも所詮は結婚式までにできる準備程度だ、結果は今変わらなかったかもしれない。
つまりは俺の自力不足。
じゃあラトーナを諦めて国に帰るべきだったかと言われれば、それもやっぱりあり得ない。
釣った魚を手放したくないと言って仕舞えばそこまでだが、今まで彼女との再会のために辛い旅や殺しにまで手を染めて来たのに、それを手放せば俺の中での何かが死ぬ、そんな恐怖が漠然とあったのだ。
だからこれは避けて通れぬ道ではあった。
ラトーナもそうだが、何よりもまず俺自身の為にこうするべきだったとは思ってる。
……それでも、頭でわかってても後悔の感情が押し寄せてくる。
だって、拷問がこんなに辛いなんて、想像出来てなかったんだ。
俺はこの世界に来てから、比較的痛みには鈍感になった方だと思う。前世の俺なら包丁でちょっと指の皮膚を切っちゃったくらいで大騒ぎしてたが、今の俺にはそんなの些事だ。
それはひとえに治癒魔術の存在、傷はすぐに治るものという常識が根底にあるからだ。だから本能的な恐怖は和らぐものだ。
でもここは違う。
この地下牢の独房や拷問部屋には魔術の使用を封じる結界が張られているから、俺は傷を自分で癒すことが出来ない。
前世じゃそんなの当たり前だったが、これがどうして怖いのだ。
じっくりと丁寧に壊されていく自分の体。
爪を剥がれ、指を潰され、骨を砕かれ、気絶するまで殴られる。
ゆっくりと何も出来ずに死に近づけられていく恐怖が、俺の脳内で虫のようにかき回る。
痛みもたしかに辛いが、俺の人生がこれで終わるのかと考えると、どうしようもなく恐ろしい。
避けようもなかったことを悔いてしまうのだ。
くそ、なんだよ。
賊なんだから一思いに処刑してくれよ。
なんでこんな、何日も監禁されて毎日拷問されてるんだ。
クソ垂れ麻薬バイヤー蛮族どもめ、基本的人権の概念も持たないほど教養が低いのか。
こんなクソ結界がなけりゃ、脱獄してあの拷問官もクソ親父も何としてでも皆殺しにしてやるのに……
そもそも体外での魔力制御を阻害する結界とか反則だろ。龍脈術すら使えない。
もう一回転生できたら、あいつら真っ先に殺しにいってやる。今度はシンプルに川の上流とか水路に毒流すんだ。
「……はぁ」
思いつく限りの復讐の光景を頭に浮かべていたら、なんだか虚しくなってきた。
気づいたらまた涙が溢れ出していた。
正直もう、この惨めさにも拷問にも、恐怖にも耐えられる気がしない……耐えたくない。
いっそ、舌を噛んで死のうか。
「うぎ!?」
なんて考えが頭によぎった時、地下牢への入り口に立つ看守のおかしな声がドア越しに聞こえ、直後には入り口の鉄の扉がゆっくりと開く音が独房に響いた。
また拷問の時間かと身構えたが、俺の前に現れたのは想像と全く違う人物だった。
「クロハ……?」
「助けに……来た」
鉄格子を隔てて俺の前に立つのは黒髪の少女は、肩で息をしながらそう言った。
「おいクロハ! 一人で勝手に走るにゃ!」
少し遅れて、騒がしく階段を降りる足音共にレイシア、リオンが駆け込んできて……
「アイン……」
そして、最後に部屋に入ってきたアインと目が合った。
「なんで——」
「話は後、まずはお前を独房から出すのが先にゃ」
気まずい空気になる間も無く、レイシアがそう言ってテキパキと独房の格子を開け、手枷と怪我のせいで上手く立ち上がれない俺に肩を貸しくれた。
「傷……酷い……」
鎮痛な面持ちのクロハが懐からスクロールを取り出して、俺に当ててくれる。
すると、みるみるうちに体中の拷問の痕が消えていった。
「超級の治癒魔術スクロールか……?」
「リディがいざという時のために持たせてくれてたやつにゃ」
「そうか……ありがとう」
「任務だからにゃ。それよりお前、魔術はちゃんと使えるのかにゃ?」
言われて確認してみるも、魔術は発動しない。
原因を考えるなら……
「その手枷かにゃ」
「多分」
俺の両手にはめられた見たこともない質感の金属で作られた手枷。
独房内に張られた結界だけかと思ったが、どうやらこの手枷も俺の魔術行使を妨げてる要因になっているらしい。
「僕に見せて」
すぐさまアインが剣で破壊を試みてくれたが、傷一つつかない。
特殊な魔石か、もしくは物理耐久を上げる術式が仕込まれているか——
「誰か来る!」
手枷に頭を悩ませていたら、突然リオンが地下牢の入り口の方に矢を構え出した。
耳をすませば、確かに何者かが駆け降りてくる足音がある。
まずいな……たしか入り口にはクロハが気絶させた看守が倒れているはず。
「上は今大騒ぎのはずなのに、なんでこっちに人が来るの……」
「何でもいい、ここに入ってくるのと同時に仕掛けるにゃ」
全員が戦闘態勢に入ると直後、鉄の扉がゆっくりと開き始める。
「……今!」
「待て味方だ!!」
レイシアが号令と共にアインと揃って飛び出すも、二人は扉を開けた人物が叫んだ言葉に思わずその足を止めた。
白髪と浅黒い肌、そしてエルフ耳。
どういうわけか、現れた人物は俺達がよく知る人間ではないか。
「ランドルフ王子……!」
「エルロード君!? それに奥にいるのはグリム•バルジーナじゃないか!!」
「おい、それより味方ってどういうことにゃ」
久々の再会ムードになりかけたところで、レイシアが会話の路線を戻す。
「あ、ああ……僕はここに囚われている者を解放するために来たんだ」
「ディ……じゃなくてグリムを? どうしてにゃ」
「え、捕まった馬鹿ってグリム•バルジーナだったのかい!? ……いや、理由は何となく察せられるが……」
「いいから理由を話せにゃ!」
「あ、ああ。僕の協力者に彼を解放するように頼まれたんだ。その人がグリム•バルジーナの処刑を延長していてくれたらしい」
なるほど、だから俺は捕まっても処刑されなかったのか。
おかげで毎日拷問三昧だったが……いや、生かしてもらっただけ有難いことだ。うん。
ていうかさっき馬鹿って言ったよな。
「その協力者ってのは誰ですか? 心当たりがないんですけど……」
そう尋ねるも、ランドルフは静かに首を横に振った。
レジスタンス北軍の出資元であるらしいが、名前は明かすなと言われているらしい。
「え、じゃあ殿下もレジスタンス側なんですか?」
「一応はそうなる……が、僕にもあまり時間はない、手枷の鍵と……このよくわかんない防具を渡しておくから、それで存分に暴れてくれとのことだ!」
ランドルフは忙しない動作で持っていた包みから押収されていた俺の補助魔導具一式や服を渡してくれた。
「じゃあ僕は行く!」
「忙しいって、おみゃーも何かするつもりか?」
そんなレイシアの問いに、ランドルフはやけに締まった顔つきで『使命を果たす』とだけ口にして、地上への階段を上がっていってしまった。
まあひとまず、傷も治って装備も戻り、コンディションは絶好の状態。
あとは状況確認だが……
「今日が結婚式!?」
思わず二度聞きしてしまったが、どうやらレイシア達は他のレジスタンスと同調して王宮に総攻撃を掛けているらしい。
結婚式当日を選んだのは、工作員が透明化して内部に侵入しても唯一バレない日だからとのこと。
「王宮を囲う外壁の防護結界も解除したから、今頃大軍が流れ込んで地上は大混乱にゃ」
「それはわかったけど、ラトーナは今日……」
「そうにゃ、ラトーナ嬢は今日結婚する。けど別に、あいつの貞操にこだわってないなら今無理に救出する必要はない。もっとお前一人でどうにか出来る強さになっから行けば良いにゃ」
貞操にこだわってるわけじゃないが……いやでも、やっぱり嫌だ。ラトーナが他人の女になるなんて。
それにクロハがこの場にいて、結界の探知が機能していないこの状況は絶好の機会だ。これを見逃す手は無い。
「俺が行くと言ったら、お前らはどうするんだ」
「手伝うよ」
クロハが即答し、他の三人もそれに続いて頷いた。
「……そうか、ありがとう」
しかし、それによって俺には迷いが生まれてしまった。
もちろん、味方してくれるのは嬉しいことではあるんだが……親父や未来予知野郎みたいな人外が闊歩してるこの王宮に彼女らを連れて行って良いのか?
「勿論、あーしらだって死んでまでお前を守るつもりはないから、ヤバかったら即逃げるにゃ」
俺の懸念を読み取ったかのように、レイシアがそう付け加えた。
「わかった」
なら俺はいざという時にコイツらを逃すことに全力を注ごう。
多分捨て身になるが……なに、今度は捕まりそうになったら王宮ごと巻き込んで自爆してやる。
「そういえばラトーナの位置とかってわかるか?」
「三階の大広間が式場になるから多分そこにゃ。戦線が城外で維持されている分には、多分そこから動くことはないにゃ」
「そこまでわかってるのか。ありがとう、じゃあ透明化して一撃離脱でラトーナを攫う感じかな」
「指揮はお前に任せるにゃ」
諸々の確認が終わり、いざ出発というところで、アインが俺を呼び止めた。
「ディン」
「何ですか?」
「これで最後になるだろうから、言っておこうと思って」
気恥ずかしそうに首元を掻きながら苦笑するアイン。それは彼女がよく見せる作り笑いの仕草だ。
そして気まずそうに俺達から視線を外すレイシアとリオン。
ああ、何となく何を言われるのかわかった気がする。
「僕は君のことが好きだ」
友達として? なんてのは愚問だろう。
そんなのは彼女の目を見れば、嫌でもわかることだ。
「君と一緒になりたいと思ってる」
知ってるよ。知った上で、俺は断るのが怖くて君を突き放す様な最低な真似をしたんだから。
「こんな時にごめん。でも、君の答えをしっかり聞いておきたいんだ」
もう逃げられない。いや、逃げてはいけない。
だってアインは、これからラトーナを助けるのに手を貸してくれると言ったのだ。
敵に塩を送る……という表現は違うかもしれないが、とにかく彼女にとっては何もプラスにならないどころか、酷くマイナスな結果にしかならない事をしてくれるんだから。
これはケジメ、せめてもの礼儀を見せなきゃならない。
「……ごめん。俺はアインの望みに応えられない」
傷つけないように少し遠回しに、けれどしっかり彼女に向き合って、目を合わせてハッキリと口にした。
「……そっか、わかった。答えてくれてありがとう……!」
今にも消え入りそうな声で、彼女は首元を落ち着きなく撫でながらぎこちなく笑った。
それを見て、俺達の間で長く続いてきた何かが終わったのだと鮮明に自覚した。
多分、俺はたった今彼女が見せた下手くそな笑顔を忘れる事が出来ないだろう。
「三人も待たせちゃってごめんね! ほら、早くラトーナさんを助けに行こう!」
罪悪感か、言葉に出来ない感情を噛み締めていた俺の背をアインが叩く。
レイシアもリオンも、そしてクロハも何か言ってくる様子は無く、ただ俺が動くのを待っている。
「ああ、よろしく皆んな」
正しいか正しくないかで言えば、きっと俺は間違っているのだろう。
それでも俺は……彼女に背を押された俺は、地上への階段に足をかけた。
ーーー
「魔術師ー! 魔術師はいるか! 魔術師は二階より上のテラスに迎え!」
「第一、第二弓兵隊も着いて行け! 残りは俺と共に来い!」
王宮一階には何人もの伝令兵が駆け回っており、小隊規模の集団が忙しなく行き交っていた。
しかしそれほど兵士が多くとも、クロハの透明化魔術のおかげで俺達は誰にも見つかる事なく、二階への階段に向かって移動する事が出来ている。
俺一人だったら、この一階を突破するだけで既に騒ぎを起こすことになっていただろうな。
「回り道ばっかで煩わしいなぁ」
「我慢しろ、バレるよりマシにゃ」
リオンの呟きも最も、透明化で潜伏に徹しているとはいえ、物理的に接触されれば普通にバレる。
だから廊下全てを埋め尽くす集団が前方から迫ってきたりでもすれば、どうしても迂回せざるを得ない。
どこかの大泥棒みたいに、咄嗟に天井に貼り付けたらな……
なんて考えつつ十分ほど移動しているうちに、二階へと続く階段までなんとか辿り着けた。
「二階以降は魔術師がいるって、さっきの連絡兵が言ってたにゃ」
「感知されても良いように警戒はしとこう」
二階を移動し始めて五分ほど、一階と比べて廊下が狭く入り組んでいるので少し慎重に移動をしている。
今のところ、誰かに気づかれてる事態には陥っていない。
だが、ディフォーゼ家の魔術師連中なら俺達の反応を拾って攻撃してくるかもしれない。
奴らの配置が分かればそこを迂回できるが……こればっかりは後手に回る前提で対策を考えておくしかない。
「誰か来る! 魔剣使いだ!」
そう結論づけた直後、リオンが切羽詰まった声で敵の接近を告げた。
魔剣使い……親父か未来予知か、それとも不治の槍使いか……俺達に気づいているかは知らないが、なんにせよ会敵は避けるべきだ。
「一応そいつを避けて迂回する。リオン、ナビゲートを」
「違う! 突っ込んできてるんだ! 真っ直ぐ壁をぶち抜いて——」
リオンが言い終えるのを待たずして、その男は俺の真横の壁をぶち破って現れた。
「ッ!?」
嫌な予感がして咄嗟に踏んでいたバックステップが功を奏し、壁をぶち破って来た男のダンプカーを想起させるシールドチャージは、俺の残像を轢き殺すに留まった。
いや、少し掠ったか。俺の透明化がその余波に当てられて解除されてしまった。
「予知野郎……」
「見つけたぞ、今度こそは、殺し切る」
目の前に立ち塞がった大剣と盾を構えた巨漢は、兜の隙間からその眼光を鋭く光らせた。




