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寝衣の宴はまだ遠く、空の酒瓶抱えて眠る



その日、アンバラ、ゼノビアの姉妹、そしてサファーウィを連れて俺は都へと降りた。


サファーウィは、飾り気の無い本物の美人だと思う。多少つり目なので人を選ぶかもしれないが、装いによっては万人向け美人になる。性格もはっきりしていてわかりやすい。付き合うには楽なタイプと見た。ただし、惚れた男相手では豹変するかもしれないので、要経過観察だ。俺には関係ない? いいじゃないか言うはタダだ。


サファーウィを連れて来たのは、下町に詳しいから。それと、サファーウィ自身の身元の裏付けを取るためだ。彼女には両親と兄が居る。実家は王都で靴屋を営んでおり、父が三代目、兄が四代目となる。父は腕の良い職人らしく、騎士の間では知らない者が居ないのだとか。調べるまでもないしっかりした身元だが、丁度近くまで行くことだし、ついでに挨拶しておこうと思ったわけ。


今回、従者はAからEまでとなり、これにセーヤとラシュート、俺とナタラで、総勢十二名。結構な大所帯になってしまった。が、別にお忍びではないのでいい。俺だけがフードローブで風体を隠しているのは、単に目立ちたくないからだ。俺だとバレても構わない。要は目立たせたい女の子達の邪魔をしないため。彼女達は、『小奇麗な町娘風』の薄い水色のドレスで揃えた。三人に差が出ないようナタラも頑張ったんだが、どう見ても……。ほんと悪いとは思う。思うが、サファーウィが長身細身のつり目美人なだけに、短身小柄のたれ目の姉妹はどう見ても白い小熊猫。しかもサファーウィの周りをちょろちょろ動く。これで小熊猫の首根っこに縄でも繋いだら、貴婦人のお散歩風景のできあがりだ。


「姫、離れないでください」


セーヤが俺のローブを引く。今日は、いつもより緊張感がある。セーヤだけ。


「こっちねー」


先頭を歩くラシュートが振り向いて、進む方向を指で示した。こいつは緊張感の欠片もない。


「お嬢さん達、もうすぐだから、俺の後ろに大人しくついて来るんですよ」


小熊猫は散歩紐をラシュートに預けた模様。

縦列にて大人しく彼の後を歩き始めた。


 さて、この隙に。


俺はサファーウィの横へ滑り込む。もちろんセーヤも付いて来る。


「私たちの交渉中、主様は、お顔を出さないでくださいね」


わーい、先制パンチ。いや俺はMではない。喜んではいない。


「顔を出してはいけないのはあなたの方です。お父様のご商売のこともあるでしょう?」

「父は、あのごうつくばりとは取引してません。親子そろってしょーもないこと言いだすから…」


言って慌てて口をつぐんだ。その顔で、セーヤをチラ見。


サファーウィは以前からミーシャを知っていた。ミーシャが、サファーウィの実家である靴屋に二度ほど来たことがあるのだと言う。一度目は採寸。二度目は受取り。ミーシャは出来上がった靴を非常に気に入り、他へ同じものは出すなと言った。オーダーメイドだ、全く同じものなど作らないが、偶然似る場合もある。その旨を伝えれば、では同じ材料は使うな、質を落とせと言う。奇しくも同時期に、ミーシャの父親から『商会専属』で靴を作らないかとサファーウィの父親に打診があったという。二年ほど前のことになる。ミーシャの父は、当時、同じように老舗の仕立屋や帽子屋、宝石店などにも大掛かりに声をかけていたらしい。大手布地屋の幾つかがそれにノり、いつの間にかミーシャ父の商会に吸収されて、今は影も形もないのだとか。


 織布の流通や価格が歪だったのはこれが原因。


利幅の良い高級品か、薄利多売用の安物しか市場に出ない。女の子達に丁度良い中間品がないのだ。今のところ、彼女達のドレスは、後宮に残されていた中古品をリフォームしているが、それほど数がない。ミーシャ父の商会に踊らされたくなければ、生産地と直契約するしかなく頭の痛い問題だ。


余談だが、ほんっとーに余談だが、ミーシャが採寸に訪れた時、セーヤも一緒に付いて来たらしい。サファーウィと時期を細かく照らし合せたところ、それはセーヤが騎士の社交場でミーシャを紹介した後、ミーシャが王太子を落とす前となる。


 けッ


商会専属ではなく、ミーシャ専属チーム、対王太子戦ってとこだ。今は対王宮戦かもな。ヘンなもの買ってないだろうな、王太子。そういえば、王にも後宮があったな。王妃の存在感が薄すぎてすっかり忘れていた。


「主様には感謝してます。お力になれることは何でもいたしますので。主様が居なければ、あのコたち今ごろどうなっていたことか。私もどうなっていたことか」


 いや、サファーウィに感謝されるのはちょっと違う。ん? 私もって言った? なんで?


くいっと首を傾げた俺に、サファーウィは艶やかな笑みを浮かべ、


「後宮からの公布がなかったら、私は今ごろ花嫁修業してます」


 それはいいことではないの?


聞き返そうとしたタイミングで、


「ここです」


ラシュートが止まった。

ここが姉妹が王都に来てから寝泊まりしていた場所。少し傾いてるくせに五階建て。


 まずは実地検証。


どれほどの対価が必要かを目算する。事実の確認だ。


オーディションを受ける子たちの宿泊所なんか全く考えていなかった。たまたま今回は、受けた全員をすぐに後宮に引き取ったから良かったが、落とした子が居たらと思うとぞっとする。


この姉妹に関しては、オーディションのために王都に来たのではないから、自己責任だと言ってしまえばそれまでだが、王都外からわざわざやって来たルゥルゥも近い状態ではあったんだ。旅慣れている彼女はどうということもなかったらしいが。


ギシギシ鳴る階段を四層ほど上って案内されたのは雑魚寝部屋。あちらこちらに散らばった毛布の上だけが個人の占有場所。


「ここで間違いないです?」


ラシュートの確認に、何度も頷く姉妹。


「雨も風もなかった」と妹。

「ごはんは一日に二回くれたのです」と姉。

「お肉もたまに入ってた」妹が言えば、

「顔も洗っていいと、言われたのです」姉も。


「わかりました」とラシュートが両掌を姉妹に見せて制し、どうでしょうかね? と俺に向かって口パク。


それを受けて、サファーウィが小声で、「この部屋ですと言い値の二十分の一ほどでしょう」と俺に耳打ちした。


宿からの請求額は三十二日分×二人分で百二十八万。一人一泊二万の計算だが、一泊千が相場とすれば、正規の金額は六万四千となる。凄い差だよな。


案内の男に目をやれば、彼は寝違いでもしているかのように一方向をじっと見ている。

吹き出す汗が己の罪を雄弁に語っているが、ここは敢えて突っ込まない。


姉妹を親切ごかしで宿に泊め、公布に応募するよう仕向けたのは、他ならぬこの男だとわかっていても。


男は、姉妹を励まし日数を稼いだ。その間働かせないように手を回したのかもしれない。会場から宿に戻りしなの姉妹を、借金のカタで売り飛ばそうと待ち構えていたんだ。後宮に入れないなら、売られた方がよほど幸せだからと事前に承諾させてもいた。


ある意味、姉妹の境遇を思えばそれもアリだとは思うがな。しかし、また借金のカタだよ、木賃宿の代金ごときで。


俺は、話を進めろ、とラシュートに手を振ってみせた。


「このご姉妹の代金をお支払いに来たのですがねえ。それで? 宿代を立替えていったという奇特な方とはどなたでしょう?」


オーディション帰りの姉妹を待ち構えていたのは、宿の主であるこの男と、姉妹の売り渡し先だ。奇特なそいつの名は、男の口からも滑り出た。調べた通り、ミーシャの父親だ。


「金額も間違いないですね?」


男はびくっと震え、小さく「はい」と答えた。


ラシュートは言質だけ取ると、男を残してさっと踵を返した。


 俺たちも残されちゃう訳だが。


なんか言えよと言えないまま、その背を追う。


「姫君、せっかくです。どこかで食べていきませんか?」


階段を下りつつのラシュートが無理な体勢で俺を見上げる。

このイケメン、色々勝手で軽くて天然だが、こんな浅いつきあいでもわかる。


 かなり怒っている。


俺も負けず劣らずムカついているがな。

姉妹は、おいしいものだけ食べさせて後宮に帰す。後始末まで見せない。

ラシュートもそのつもりだと思う。


「良いお店は、ありますか?」


何気なくを意識したのがマズかったかも。声がちょっと震えた。


「姫」


その声に反応したらしいセーヤが気遣わしげに俺の背に手を添える。


 そんなもん気付くな、細かいな、おまえ。


「お店、そうですね…」


ラシュートが思案している間に、サファーウィが口を挟んだ。


「主様、この時期、西の広場に屋台が出ていますよ。フェニックスの花が見頃なんです」


ホント連れて来て良かったよ、君。














フェニックスの花咲き乱れる西の広場。下町庶民の憩いの場。

屋台は広場の縁にずらりと並んでいた。ほとんど、いや、全部、食い物だ。


サファーウィが選んでくれたのは、肉。もろにニク。しかし、これが一番無難なのだそう。大量に頼んだので、店頭の大皿二つをそのまま預かり、それを石の上に置いて皆で囲んだ。手づかみが基本だ。鶏と言いつつ蛙も混ざってるが、味に文句はないからいい。


 うわ、また落とした。

 お? あ。また。

 拾わなくていい。食べ終わってから片付けような?

 う、拾って、きょろきょろして、ささっと口に、放り込んだーっ、


 この小熊猫がああ。


俺の腰が浮きかけるのを、ナタラがそっと制止。


「死にゃしません」


そういうナタラの腰も浮いている。

姉妹の手元からぽろぽろとこぼれ落ちる度に、残りの十名が前後に揺れた。

落ちる前に受けてやろうと、つい体が先走るんだな。


「美味しいです? 良かったですねぇ」


ラシュート、姉妹に向けて満面の笑み。俺も笑んで悪魔のささやき。


「この後、彼女達をセーヤ様に送ってもらいます」


ラシュートは俺の言葉に笑みを崩さず頷いた。


しかしセーヤは「姫、従者三名を回しますのでご安心を」すかさず反論。


サファーウィは笑いたいのだか笑う途中なのだかの、おかしな顔を晒し、セーヤに睨まれて俯いてしまった。


「ご姉妹お二人だけ、後宮に戻されますか?」


ナタラの念押しに、「そのつもり」と返答し、「セーヤ様、少しよろしいでしょうか」


誘って立ち上がる。付いて来ようとするナタラと従者Bを目で抑え、俺はセーヤと二人きり、フェニックスの下まで。


 いい香りだ。


鼻を上向けてクンと嗅いだらセーヤが蕩けそうに笑った。俺たち二人を外野で見たらきっとデートっぽいんだろうなあ。だが、良い雰囲気はここまでだ。


「これから、ミーシャ様のご実家に参ります。セーヤ様にはご遠慮して頂きたいのです」


ズバッと言ってみた。


「なぜ?」

「セーヤ様……」


いや、おまえ、なぜ、とか言うな。言葉が出なくなっちゃうだろうが。


「姫、セーヤと呼んで」


微笑む。じゃない、そっちじゃないし、笑ってる場合でもない。でも、関係ない言い争いはしたくないので、「セーヤ」と素直に呼び、


「アンバラとゼノビアを後宮に送ってください。あなたの護衛はそれで終わりです」

「無理ですね。姫を一人残せるわけないでしょ」


一人じゃないし。寧ろ、おまえが一人(と二匹)で後宮に帰るんだし。


「ミーシャ様のお父上とのお話は、セーヤにとってイヤな話になるでしょう。聞かせたくないのです」

「どこがイヤな話に?」

「全部です」

「姫」


ずいとセーヤが寄る。


「俺にとってイヤなのは、姫と離れることしかないのに? 許される事なら…」


下を向いてしまった。どうする俺。もう少し下がり、ちょい右か。


「名を、呼びたい。リグレットノア……リグレッ、とっ??」


セーヤが抱きしめたそれ、木だから。セーフ。俺にかわされるようじゃまだまだ甘い。


「許してもらえない? リグレットと呼ぶ事を」


その情けない顔はやめたほうがいい。よくわからないが布団を被りたくなる。


「許すも許さないも、私の名はリグレットノア。リグレットでもノアでもお好きなように呼んでください」


こいつ、嬉しそうに笑うなあ。


「では、後宮へ彼女達を送ってくださいね。セーヤ」


でも、名はよくてもこれは譲らないから。


「できないと言ったはず。俺は、リグレット、あなたと共に居るから」


どうしてこうも頑固なんだか。俺?………いいや、こいつが頑固なんだ、俺はこんなに頑固じゃない。


「聞き分けてください。辛い思いをさせたくないのです、セーヤ」

「大丈夫だよ。俺は辛くない。優しいね、リグレットは」

「私は、優しくなんかありませんっ」

「俺のために怒ってくれるの?」

「………あの」


違うというに。俺は自分が可愛いだけだ。耐えるセーヤ(=俺)を見たくない。俺の居ない所でならミーシャの父だろうがなんだろうがいくらでも会ってくれ。


この借金問題が明るみに出たのは偶然だった。そこから姉妹の曖昧な記憶を頼りにようやくここまで探り出せた。今日はその確認とまとめとケリ入れなんだよ。


きっかけは、アンバラが『殿下がどうして可哀想なのです?』などとわけわからん質問を俺にしたことだった。


姉妹はミーシャ父に、宿代を弁済する代わりとして王太子殿下を守る、というよくわからん主旨の約束をさせられ、証文に名前を書いたのだという。控え書は無い。


 また証文が鍵かよ…


証文には他にもなにやら項目があったようだが、二人には定かでない。それじゃどうしたって履行できない。履行させる気もないのだろう。


 こんな時、狙いとして一番妥当なものは返済を引き延ばした挙句の暴利だ。ぼったくりの百二十八万をさらにトイチ複利で貸し付けられてみろ。今ここで全額返済したって百五十万超えだ。姉妹が払えなければ、保証人である俺やラシュートからふんだくればいいのだし。


 とはいえ、ミーシャ父の今回の目的は金じゃない、と思う。タダ同然で手に入る女二人を逃した上に、これだけの額をミーシャ父が払ったのが本当だとすれば、額面通り、たとえ倍額にしたって受け取らないだろう。


 別に目的がきっとある。


いずれにせよ証文を確認し、弁済のうえ破棄しなくては、おちおち寝てもいられない。こうやってまんまと嵌められて言うのもなんだが、汚い商売は法に触れない以上、それも在り方だとは思う。倫理的にはアウトだろうが、金額を承知で泊まったのは姉妹だ。嫌なら泊まらなければ良い。他を当たれば良い。選択権は姉妹にあった。無手無知の罪。まさにこれ。理不尽だが確かにこちらにも非はある。姉妹には説教し、俺が立て替える分は給金から少しずつ天引きする予定だ。金銭のやりとりは非情にしなければ、また同じことが起きる。 


このように事情がすでに不穏当だ。ミーシャ父とは修羅場になるのは間違いなく、そんな場所にセーヤを連れて行くのは忍びない。


「リグレット、俺も絶対に行く。でなければ、俺は…」


感情を押し殺したセーヤの声に、背筋がゾクっとする。


「姫君ー」タイミング悪く(良く?)セーヤを遮るラシュートの声。遠いところから手を振って「花、奇麗だけど、姫君はもっと奇麗ですよー」


こんなところがイケメンの天然さだ。


「俺のリグレットに軽々しく声をかけるな」


声、出てますけど、わかってます? セーヤさん、と言ってしまうと後が怖いので、俺は聞こえてないフリをした。













馬車から降りて、見てみれば。


 家、でかい、豪邸。そこらの貴族の邸よりでかい。


ミーシャの家は、裕福な商家と報告では聞いていたが、これほどとは。門ですら、ほー、と見上げてしまう。しかし、趣味悪い。門柱のてっぺんにどーんと鷹、か? 足太いけど、なにこれ。


「獅子でしょうね」


凝視する俺に笑ってラシュートが答えた。


 獅子に見えないし。


アンバラとゼノビアは帰した。従者CDEとナタラも。なぜおまえが帰るんだ、とは思ったが、後宮も放ってはおけないし、いいかと。


 だがしかし、今になって沸き上がる疑念が。


ナタラが帰ったのは、もしかして、兄上に連絡するためか? ミーシャ父への暗殺を願い出てないだろうな? もし兄上が動けば止める間なんか無い。ナタラに早まった真似はよせと伝令を出した方がいいだろうかと逡巡していたら、


「これはこれはぁ、リグレットノア姫様でいらっしゃいますか」


大げさな身振り手振りで男が現れた。後ろに大勢の人間を従えている。王陛下すら上回る従者の数だ。


「お噂通り、なんと、お美しい。わたくしめに会いたいなど、光栄のいたり」


俺が会いたいだって? 従者が言ったのかな。間違ってないが、ニュアンスが違うような気がする。とりあえず俺はフードローブを従者に渡し、当り前にきちんと礼を取った。


「どうぞ、こちらです、どうぞ」


案内されるまま、奥へ奥へと廊下を歩く。甲冑やら、彫像やら。色っぽい裸体が多いのが気になる。


「お国へお帰りになられたいと?」


言ってない。って、おまえ、閉めるなよ、扉を。俺だけしか入ってないじゃん。


「ではでは私めがおもてなしいたしましょうぞ。ここは良い国ですからな。お好きなものはなんでしょうか? なんなりと取り寄せましょう。美しい薄衣の下衣はどうですかな? いやいや見せるお相手がいらっしゃらないのは承知しております。わたくしめが見立てましょう。ささ寝屋までエスコートいたします。どうです? わたくしほどの男はおりますまい? きっとご満足いただけますぞ」


ミーシャ父はべらべらと訳のわからないことを喋り続けている。

ふと横を見ると大きなベッドだ。どうしてこんな場所に客人を案内するんだ。

ぽけっとしていたら、ずずいと間合いを詰められ、


「姫、湯殿など使わなくても、よい香りがいたします」


ふがふがと俺の首元で鼻を鳴らす、おっさん………。


 うわああああ、なんだ、このいきなりのバカ。ニヤリと笑うなああ!


い、いかん、あまりのことに、悲鳴を上げそうだった。


これはヒドイ。下衆すぎる。ダメージ無限大。


落ち着け、俺。わかってたじゃないか。宿へ姉妹を貰い受けに、つまり自ら人買いの場に出て来たのは娼館に渡す前に、姉妹を味見するためだ。こいつは掛け値なしの好き者だと。


 だが、なぜ俺がこんな目に遭っているのかよくわからん。


「姫はうぶですなぁ。真っ赤になっておられる。どれ、お熱でもありますかな? 儂が診立ててあげましょう」


 うっぅぐううううう、後ずさりたいのに、できない。怖いもの見たさで目がそらせない。全てのパーツが肥大している顔面が、間近にーーーさわるな、俺に、それ以上近づくーなーー


ドカンと音がして、不意に体が軽くなったと思ったら抱き上げられていた。


「大丈夫? 俺の時はあんなに華麗に避けたのに」


耳をくすぐるようなセーヤの声。

ラシュートが俺たちとミーシャ父の間に立ち塞がる。


「いくらミーシャ殿の父上とはいえ、この無礼、許されるものではないっ」


剣を抜いたよ。飾りだと思っていた剣だ。

いきなりバッサリか? これ、計画的? ラシュート、ミーシャ父をあっさり殺っちゃったほうが楽とか思ってるだろ?


「ほ、ほおお。斬れるのかねえ。儂をねえ、いいのか? ギュスターブ将軍、お約束はどうしたね? ミーシャのために正妃は儂にくれる約束だろう?」


背伸びして、ラシュートの肩越しからこちらを窺いつつ言い募るおっさん。


 俺? 俺を貰う約束をしていたと?


うーん、一考すべき。まだミーシャへの未練があって、セーヤがそういう約束をしたのかもしれない。でも、セーヤに王太子の正妃をどうこうする権限はないからなあ。


「世迷い言を抜かすなっ」


ラシュートはますます激高する。邸の使用人は戸口に集まって前のめりに見物していて将棋倒しにならないか心配だ。


「さ、先触れが、そう言っておった。内々の話だと、姫が儂に会いたがっているとっ、今がそのとき、お好きにとっ」


ということはさっきか。俺はまんまとセーヤに騙されたのか? 王太子ともグルならあり得る。でも、ここで俺を傷物にするのは無理だろ。セーヤは疑惑があるから外すとしても、ラシュートも従者もサファーウィも居る。全員が俺を裏切るならアリだが…。いや、セーヤが向こうに加勢したら形成逆転だ。実際にはそうなってないが、旗色を見たのか…ああ、わからん。


「連れて来た、と言ったではないかぁっ」


なんか吠えてるが、おっさんは放っておいて、曖昧な事と確かな事を分けてみる。


俺を襲ってもいい、好きにしていいとセーヤが言ったかどうかはわからないが、以前に正妃をやりとりする何らかの口約束はあったとみていい。このおっさんにしてみれば、俺を、その約束のもとに差し出されたと思っての行動だ。


うん、おっさんの行動は理解できる。


 ま、なんだな。はあ。


俺を抱きかかえるセーヤに、離せ、と言ってみる。

黙って、でもそっと降ろされた。足をつけたら途端に崩れる。腰が立たない。


本物の恐怖(肥大化親父のどあっぷ)とは計り知れないものなんだな。こう、力が抜けるというか。


四つん這いになりながら、一人賢者の時間。


「下郎が。このラシュート、貴様の命、貰い受ける」


しかし、周りの時間は止まらない。待てと思ってもどんどん進む。


 セーヤ、ラシュートを止めろ……あれ、口が動かない。


「待って。そんなの、あなたの剣がもったいないでしょ。やめておきなさいな」


サファーウィが止めた。マジで天使。俺の天使。


「これ、使って」


ぶわっとドレスの裾を捲って太腿に括り付けてあったナイフを外して差し出す。

脚線美が目に沁みる…って違う違う。そんなものラシュートに渡したらダメだ。太腿はいいけど、ダメ。なんかもう、どうしたいんだ、俺。


「主様」


そしてサファーウィは俺の前に跪く。四つん這いの、俺の前な。


「護身用を身につけていました。お許しください。下町は危険ですので」


そんなことはいい。

けど、ほんとにただの平民か? 君。


「ラシュート、そこまでにしておけ。ボウには追って沙汰をする」


俺の頭上からセーヤの声。


「沙汰? ほほお。約束を違えた貴様が言うか? 儂は罰せられんぞ。殿下が付いておるからな。ほれ、今からでも許す。姫を置いて貴様らは去れ」


セーヤも跪いて、俺と視線を合わせる。


「確かに罰することは難しいかもしれない。だが、姫は置いて行けない」


そのまま俺を抱きかかえようとするから、咄嗟にはね除けた。動けたよ。


「歩けます」


なんだろう、この惨めな気分は。


「夜毎の寂しさを儂が埋めてやろうと言うのだ。相手にされない姫よ、ここに居たほうが幸せというものだぞ」


おっさんのことなんかもう考えたくもない。それよりも、


「ラシュート様、証文を。あのコ達の」

「はん? 証文? 欲しければ儂の言うことを聞け、この小娘がっ」


おまえに言ってないって。罰せられないと知ってまた横柄な。

ラシュートはおっさんに見えない角度で俺に目配せを寄越した。


 OK? なにがだ。なにも終わってないだろ。俺が罵られただけじゃないか。


「リグレット、さあ、こっちに」


差し出されたセーヤの手をまた撥ねつける。おまえに抱えられるのはイヤだっつったろ。


「姫様、ご無事ですか?」


ナタラだ。いつの間に。帰ったんじゃなかったのか? 


「もう、心配で心配で、戻って参りましたの」


ん? なんか芝居がかってない? 笑顔が悪魔に見えるし…。


「姫君、証文の件は沙汰が下りてからでも良いでしょう。お疲れの姫君をこれ以上ここには置いておけません」


ナタラとラシュートが俺を立たせてくれた。けど、そそくさ感が半端ない。

なに? ここを早く出たいわけ? わかったよ。


「……帰ります」


サファーウィの家にな。








そんなこんながあって、サファーウィの家に着く頃には、街は夕闇に包まれていた。


靴職人の店だと聞いていたから、街の○○屋さん!という可愛らしいものを想像していたら、かなりデカかった。可愛いのは靴型の看板だけ。軍靴も作っているそうで弟子もたくさんいるのだとか。


ナタラは今度こそ、ラシュートと従者Bを連れて帰った。ミーシャの父、ボウの家から掠め取った証文も一緒に。知らないうちに何をしてたんだよ。


ラシュートが騒ぎを起こしている間に、ナタラが証文を盗むと。これは西の広場で俺が傍を離れた時に二人で決めたことらしい。


ちらっと見た証文の内容は、本当に下らないことだった。口が腐りそうなので言いたくない。一番怖かった利子の取決めは無かった。バカだろ、あいつ。


ボウのおっさんを従者を使ってけしかけたのはセーヤだ。罪に落とせないとわかっていながら、なぜそんなことをしたのか、理由は言わず。だが、正妃を差し出す約束が本当のことだと、これで証明されたようなものだ。


 惨めな気分続行中。


気持ちが下を向くと、顔も下を向いてしまうが、俺を見たサファーウィの親父さんの最初の言葉と態度にちょっと救われた。


「天使がいる……」


あなたのお嬢さんの方が俺の天使です、はい。

そしてなぜかお兄様が、俺の足下にベタ座り、


「天使の足……」


職人ですね、お気持ちわかります。カラダはどこも自慢だが、特に足の指は自慢中の自慢。また気分が浮上。褒められれば嬉しい。このコは俺の最高傑作だからな。


そしてなぜか採寸に入りました! もしかして、靴、作ってくれる? 

そして俺の足を肴に(なぜ)酒盛りにも入りましたー!


酒が回ると親父さんの愚痴も回る。くどい酒だな、親父さん。

おもにサファーウィのことだ。

三件隣の鍛冶屋の息子との縁談を蹴ったらしい。

もしも後宮に入ることができれば、結婚しなくていいという条件を、酔っぱらい親父の胸元に突きつけて了承させたのだとか。


鍛冶屋の息子は、悪い男ではないようだが、

「変態は嫌いよ」

だそうだ。


ちなみに彼女の護身用ナイフは彼のお手製。

サファーウィ、変態さんの作ったものをあんなところに装備していいのか…。


セーヤはあれからずっと黙ったまま。俺だって喋る気はない。

何を喋っていいのかわからない。わからないままはしゃいで騒ぐ。そうでなければやってられなかった。


後宮のことが心配なのは本当なんだ。

王太子が我がもの顔で練り歩いてるから、俺の可愛い羊さん達が怯えてしまうんだよ。だから、帰るつもりだったんだ。


この世に生まれて十六年、酒瓶抱えて目覚めたのは初めてだ。

俺は飲んでないのに。なぜこんな恰好で?


セーヤは、俺の横で、俺に触れず、そしてずっと起きていたと。


俺が起きるのを見届けてから、眠りに落ちた天使がそう言った。


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