第九話 麦角
大樹館の一室に、深刻な顔をした家臣団が集まっていた。
ベッドにはソラとサニアが座っている。
「トライネン様が帰って来たよ」
玄関にいたはずのリュリュが、部屋に入ってきた。
ソラはリュリュに目を向けると、家臣団同様に深刻な顔で口を開く。
「今すぐ、呼んで来い──」
「それにはおよばない」
リュリュに続いて部屋に入ったチャフは、ソラの言葉に被せた。
ベッドに座っているソラを見て、チャフは眉根を寄せる。
「倒れたと聞いたが、本当らしいな」
「あぁ、サニア共々、この様だ。チャフは体に違和感がないか?」
ソラの問いかけに、チャフは腕を見る。
フェリクスと行った朝の試合で打ち据えられた部分が痣になっている。
ソラが訊いている不調と違う事は知っているので、チャフは首を振った。
「オレはなんともない」
「そうか。手足が冷える事もないんだな?」
「くどいな。特に感じたことはない」
チャフは首を傾げる。
朝、腕に力が入るかを調べる際、ソラと握手した事を思い出したのだ。
握手を交わしたソラの手は、少し冷たかった。
「クラインセルト子爵が倒れた事と、手足の冷えが関係しているのか?」
チャフが二つを結びつけて問うと、ソラは深刻な顔で頷いた。
「まだ確証はない。だが、俺の予想が確かなら、相当な問題になる」
ソラは悔しそうな顔をして、言葉を続ける。
「──毒だ」
ソラが口にした単語に耳を疑ったチャフは、思わず料理人のコルを見た。
厨房に置けるコルの優秀さは、地味だが他に類を見ないものだ。
毒の混入を見過ごす事はまずない。
ソラは溜め息を吐く。
「コルは関係ない。というより、恐らく計画的なものではない」
チャフはコルから視線を外し、眉根を寄せた。
「どういう意味だ?」
チャフに問われ、ソラはサニアを気にするような素振りをした。
サニアが苦笑して頷く。
ソラは腹立たしげに息を吐き出し、チャフの問いに答えた。
「王国内では“獣人の黒爪”と呼ばれているそうだ。だが、俺はこう呼ばせてもらう──」
麦角菌、とソラは強い口調で王国の呼び名に抗った。
ジロリと、強い視線で睨む姿から、麦角菌としか呼ばせないつもりらしいと分かる。
チャフは緊張からくる急速な喉の渇きを覚えた。
獣人の黒爪、ソラの言葉を借りれば麦角菌、それは──
「口にし続ければ四肢が腐り落ちる、疫病の種……」
チャフが呟く。
ソラは静かに首を振った。
「この病は移らない。集団発生しやすいから、疫病と見るのも仕方ないがな」
獣人の黒爪、麦角菌は麦に寄生する微生物だ。
慢性的に摂取し続ければ、四肢の冷感や目眩から始まり、血管が詰まることによる四肢の壊死、脳梗塞を引き起こす。そして、最終的には死亡する。
麦に寄生し、そのまま製粉されると気付かずに食べてしまう、厄介な菌なのだ。
急性症状を起こすほどの量であれば、パンに変色が見られるため警戒して口にはしない。そのため、発生事例は慢性中毒が多い。
小麦やライ麦を宿主にするので、日常的に摂取されやすく、慢性中毒の発症事例が一地域に偏り、知らない者には伝染病と認識されてしまう。
説明しようとして、ソラは頭を悩ませた。
菌の存在を証明できないのだ。顕微鏡で見せた所で、トリックとして扱われる未来が目に見えている。
しかし、チャフも麦が原因である事は理解したらしい。
「麦角菌とやらが混入している麦は、オレ達が食べている物だけか?」
チャフの質問へ答える前に、ソラはゼズを見る。
部屋の入り口を塞ぐよう、ソラが目線で合図した。
「クラインセルト子爵、なんのつもりだ?」
扉に寄りかかるゼズを見て、チャフが怪訝な顔をする。
ソラは腕を組み、深呼吸する。口にしたくない言葉を押し出しているようだった。
「俺達が食べているライ麦粉は、ベルツェ侯爵領からの輸入品だ。領民も一部を除けば、同じ物を食べている。幾つかの軽度症例の報告も上がっている」
チャフが眉を吊り上げた。
その場で反転して部屋を出ようとするが、扉を塞いだままの姿勢でいるゼズを見て、動きを止めた。
「……クラインセルト子爵、貴様の部下が邪魔だ。どけろ」
殺し切れない怒りが、チャフの声に滲んでいた。
ゼズは怯みもせず、扉を塞ぎ続けていた。
チャフの要求を無視して、ソラは声を掛ける。
「チャフ、頭を冷やせ」
「頭を冷やせ? 領民が毒に侵される様を眺めていろと、そう言いたいのか、ソラ・クラインセルト!」
チャフの怒声を浴びても、ソラは顔色一つ変えなかった。
「チャフ、よく聞け、そして考えろ。毒麦はどこから来た? 他のどこから麦を輸入出来る?」
立て続けに質問を並べられて、チャフは苛立ちを募らせる。
「毒麦の出所はベルツェ侯爵領だろう。他の輸入先は……」
口を閉ざし、チャフは悔しそうに歯を食いしばった。
ソラは溜め息を吐いて、チャフの言葉を引き継ぐ。
「他の輸入先は、ない。毒麦を回収しても、新しい麦はベルツェ侯爵領からしか輸入出来ないんだ。そんな今、ベルツェ侯爵領に対する不信感が芽生えた場合にどうなるか、考えろ」
子爵領の食料自給率は未だに低い。
ベルツェ侯爵領からの輸入品に頼らなければ、麦を始めとしたあらゆる農作物が手に入らない。
領民は栄養失調で倒れるだろう。
また、財政の柱でもある、燻製シラカバ材貿易などへの打撃にもなる。
ベルツェ侯爵領に不満の矛先を向けてはならない。
例え事実であっても、領民に知らせてはならない事があるのだ。
チャフは反論しようと言葉を探す。
だが、見つからなかった。
チャフは敵意すら込めた視線をソラへと向ける。
「クラインセルト子爵は、領民を見殺しにするつもりか」
チャフがなじった瞬間、リュリュが聞こえよがしに舌打ちした。
「ちょっとは考えたらどうなの? 正義で食事が賄えるなら、その正義とやらを説明しなよ」
リュリュが呆れたような口調で、現実を突きつけた。
チャフは怒りの形相で振り返る。
睨み合う二人の間に、ゴージュが割って入った。
「そこまでで、止めておいた方が無難ですな。チャフ殿の言葉も、ある種の事実ではありますからな」
「……はぁ、分かった」
不機嫌にリュリュは呟いて、チャフに背を向けた。
珍しく噛みついたリュリュを見て、チャフはようやく気付く。
誰一人、今の状況に納得してはいないのだ。
「……子供ですね」
ラゼットがぽつりと独り言を落とした。
「人に怒りをぶつけている場合ではありませんよ」
ラゼットはチャフに視線を向ける。
「ソラ様は毒麦の回収を諦めている訳ではありません。ベルツェ侯爵領へ疑惑の目が行かないように、手を打つ時間が必要なんです。幸い、この病は毒麦を食べる事を止めさえすれば、自然と快方に向かいます」
ラゼットの説明を聞き、チャフは胡散臭いと言わんばかりにソラを見る。
「ベルツェ侯爵の事だ。毒麦の話を聞けば、すぐに安全な麦を送ってくれるだろう。だが、領内に散らばった毒麦を回収するには理由がいる。どうするつもりだ?」
ソラはただ、一言で応じた。
「──囚人のジレンマ」




