第三話 熱い気持ち
「官吏は逃げ出した後ですよ」
机に突いた手から力が抜け、ソラが転けた。
ゴージュが慌てて抱き起こすと、机の角にぶつけた白い額が赤くなっている。
構わずソラはラゼットに詰め寄った。
「逃げ出したってなんだ? 逃げ出したってなんだよ!?」
「今朝方、使用人と共に家財道具一式を持って西に向かったそうです」
いわゆる夜逃げである。
クラインセルト伯爵と敵対したソラのお膝元では、今までのように不正を行って私腹を肥やすことが難しい。伯爵にもいい顔をされないだろう。
それを見越して、西のクラインセルト伯爵領へ亡命したのだ。
ソラはふらふらと椅子に座り、うなだれた。
「ただでさえ人手不足だってのに……」
仕事の引き継ぎくらいしていけ、とソラはぼやく。
横目でちらりとチャフを盗み見ると、彼は苛ついた顔で握り締めた拳を震わせていた。
「クラインセルト子爵……」
怒りを押し殺した声が部屋に落とされる。
チャフはやおら立ち上がると、拳を机に叩きつけた。
ソラに頭突きされ、チャフに殴りつけられ、机も納得がいかないだろう。
「クラインセルトの家臣はどうなっている? 賊徒から民を守り、秩序と平和を与える崇高な役割を放棄するとは、意識が低過ぎるぞッ!」
「豚親父の家臣なんだから仕方がねぇだろ。俺も、ここまで根性なしだとは思わなかったよ」
「責任逃れとは見苦しいぞ、クラインセルト子爵!」
「がたがた騒ぐな。宿とはいえ町中だ。外を歩く住民が不安がるだろうが」
ソラが窓を指さして注意すると、チャフは歯軋りせんばかりだったが、辛うじて矛を収めた。
ひとまず決着したのを見て取って、サニアが机に頬杖を突く。
「でも、その官吏の家を事務所とかいうのに流用すればいいよね」
実に建設的な意見だ。
ソラの家臣一同が大きく頷く。
「そうですね。どの道、書類の確認も必要です。今から見に行くのも良いと思いますよ」
ラゼットの言葉に促される形で、ソラ達は官吏の家に向かった。
町の北、少し高くなった丘のような場所に官吏の家がある。町を一望できる一等地だ。
ソラが町を振り返って見れば、家とも小屋とも判断が着かない民家が立ち並ぶ漁師町が、寂しげな冬の潮風に撫でられていた。
──大型船の解禁と網漁の復活も必要だが、先に家を整えないとな。
やる事が山積みだと頭を掻くが、もっと大きな問題が彼の正面に鎮座していた。
「──それで、この家はなんで荒らされてるんだ?」
無人になって半日しか経っていないはずだが、官吏の家は見事に荒らされていた。
窓や扉は破壊され、割れ飛んだらしい木片が無惨に転がっている。
家の中は壁があちこち壊されており、持ち出されたのか、家具の類は見あたらない。
ゴージュは顎を撫でながら部屋の惨状を検分し、口を開く。
「家具は官吏が持ち出したのでしょうな。町の住民が隠し財産を探しつつ、腹いせで破壊したのが真相だと思いますぞ」
「穴の角度からみて犯人の身長はゴージュと同じくらい。上からの振り下ろしではなく横からの振り抜きによるもの。凶器は鋭利な物ではなく、槌などの鈍器で大きさは──」
良い笑顔で壁に開いた穴から凶器の大きさを推定し始めるリュリュに、サニアがドン引いている。
建物は二階建て。玄関を兼ねた中央ホールから左右に伸びる廊下に、それぞれ二つの部屋が向かい合い、その奥に階段がある。
「三人一組で各部屋を検めろ。犯人を見つけても捕まえる必要はないが、すぐに追い出せ。書類を見つけたら拾っておくように。以上、行動開始」
ソラは指示を飛ばし、サニアとチャフを伴って階段を登る。
二階は居住部分らしく、一本の廊下を挟んで十二の部屋が向かい合っていた。
町にある大手商会と同等の建物の規模だ。
「サニア、不審な物音は聞こえるか?」
ソラに問われてサニアは耳を澄ませる。
子爵領最大の権力者であるソラが獣人大好き人間なため、サニアは熊の耳をもう隠していない。
「大丈夫。音はしないよ」
サニアは首を振った。
ソラがジッと熱い視線を耳に注いでいるのを感じとって、サニアはゆっくりと距離を取る。ソラという名の猛獣を前にし、刺激しないよう慎重に行動しているのだ。
無言の拒絶に肩を落としたソラは、ふと気付いてチャフを見る。
「そういえば、チャフは俺の家臣に獣人がいる事に、文句とか言わないよな」
多くの貴族は獣人を嫌う。
それには歴史的な背景があるそうだが、詳しい話が残らないほど遠い昔のことらしく、ソラもよく知らなかった。
チャフはサニアとソラを一瞥して、不愉快そうに鼻を鳴らした。
「他家の臣に文句を付けるような間抜けではないからな。そもそも、クラインセルト子爵の“お気に入り”になど、なおさら興味がない」
チャフの言葉を裏返せば、自分の家臣なら文句を付けるという意味だ。
それを読みとったサニアの表情が暗くなりかけた時、ソラが輝く笑顔で拳を天井に突き上げた。
「あぁ、“お気に入り”だ。あまねく獣人の耳と尻尾を好む俺だが、サニアの耳と尻尾については“愛している”のだ。初めて出逢ったあの夜の裏庭より今日この場に至るまで、この気持ちは色褪せることなくむしろ鮮やかに心を満たすばかり。しかも、王都を出てからというもの隠す事をしなくなったあの熊耳が朝陽に、夕陽に、照らされる様は、まるで後光が差すかの如くこの瞳に焼き付いて離れない! そればかりか、雨や朝露に濡れたその姿は、艶めかしくも上品にその毛の黒さを浮き彫りにし、千変万化の美しさでもって俺の心をざわめかせ──」
「長い!」
「あれだけの言葉を以ってしても、俺のこの熱い気持ちの一割どころか一毛にも達していないのだ。止めたくば、その耳を触らせろ!」
「うるさい、こっちくるな。熱すぎて逆に背筋が凍ったよ、この変態!」
わいわいと騒ぐソラとサニアに、チャフは頭を抱えた。将来がとてつもなく不安になったのだ。
とにかく、探索を始めてしまおうと、近くの扉を開けて中を覗く。
何もない空虚な部屋だった。あるのは壁に開けられた四角い穴から吹き込む冬の空気だけだ。
「……思いの外、早く済みそうだな」
「チャフよ、それは皮肉か」
顔を見合わせて、二人はため息をついた。彼らの後ろでは、同じくがらんどうの部屋を引き当てて苦笑するサニアがいる。
念の為、室内に入って調べながら、五つ目の部屋を見回った時、階下から気弱そうな男がやって来た。コルである。
「ソラ様、あの、来客です」
ソラは首を傾げる。
ウッドドーラ商会長のツェンドを始め、訪ねてくる相手に幾らか心当たりはあった。
だが、ソラ自身がこの町に着いて間もないので、少々早すぎる気がしたのだ。
「誰だ?」
「見たことのない行商人です。それと──」
コルは戸惑うように視線をさまよわせ、続きを口にする。
「契約の履行を求めています」
8月27日修正




