第一話 子爵領と伯爵領、それは天国と地獄。
子爵領の設立から八年、十五歳のソラは大樹館の執務室で暗い顔をしていた。
八年、長いようで短いその期間を休まず改革につぎ込んだため、子爵領は完全に持ち直した。
技術面だけを見れば持ち直すどころか王国でも有数の発展振りである。
大型船解禁による輸送力の発達もあり、ベルツェ侯爵領やトライネン伯爵領との交易も順調に進んでいる。
だが、全て子爵領の中だけの事だ。
父であるクラインセルト伯爵の領地の荒廃振りには目を覆うものがあった。
伯爵領は難民の流出を止めなかったため人口が一度に減り、比例して下がった税収を残った領民で補填しようとしたせいで餓死者が続発した。
高まる不満をクラインセルト伯爵だけでは抑えきれなかったはずだ。早晩、革命が起こっていただろう。
だが、その不満を巧みにソラへと押し付ける者が五年前、クラインセルト伯爵領へ入った。
教会の最高位に立つ男、教主レウル。
荒廃した土地にそれを耕す手もない中でクラインセルト伯爵領の人々は互助会の働きを持つ教会にすがりついた。
ソラが手を回して生活を下支えしていた事実も、レウルの指示を受けた各地の教会が噂を流して功績を横取りしていった。
教主レウルはクラインセルト伯爵領の人々にとっての救世主となり、信者を増やし、権力を強めていった。
堅実な常套手段、しかし、つけ込む隙を見せずにそれを行う難しさを思えばレウルという男の有能さは察するのに余りある。
何時の間にかクラインセルト伯爵領から子爵領への難民は数える程度となった。
クラインセルト伯爵領の生活がレウルによって改善されたわけではない。
ただ、伯爵領の人々にとって教会が語る事は絶対の真実であり、その真実にはソラが史上最悪の悪徳貴族であるという嘘も含まれる。
伯爵領の人々は子爵領に行くよりはマシだと考え、教会に帰依して──餓死するのだ。
教会はクラインセルト伯爵領を建て直す術を持たない、その意志もない。食料を確保する力もない。
だが、権力がある。絶対の真実を錯覚させる力がある。
伯爵領の不満を煽り、怒りに繋げて、ソラへと押し付ける。
そのために餓死者が増えても目をつむる。
信者が幾ら餓死しようとも、教会が手を汚してはいないから教義に背くこともない。勝手に餓死しただけだから。
「腐ってやがる」
ソラも救う努力はした。あらゆる方法で手を伸ばし、間接的な援助を行おうと策を練り、実行した。
それが教主レウルの功績となっても構わないと様々な手法でクラインセルト伯爵領の人々を助けようとした。
例えば、行商人達に金を渡して伯爵領へ食料を届けさせようとして、関税をふっかけられ没収されたと報告を受けた。
例えば、警戒の薄い海から船を用いて援助物資を届けさせようとして、私掠船との戦闘になった。
例えば、伯爵領の村の品を現地で買いあさって現金を供給すれば、税を上げられ全て吸い上げられた。
どんな手を打っても常套手段でひっくり返される。
クラインセルト伯爵と教主レウル、教会勢力を排除しなければ事態の改善が見込めない。
それにも関わらず、ソラは指示を出せずにいた。
「……打つ手がない」
ぽつりと呟く。
ソラは考えられる手を打ち尽くしていた。
眉間にしわを作りながら知恵を巡らせているが、良案は浮かばない。
気分転換しようとラゼットに紅茶を頼もうとした時、執務室の扉が叩かれた。
入室を許可すると、ソラ同様に暗い顔のチャフが扉を開けた。
「辛気くさい顔だな」
「お互い様だろ」
チャフの言葉にソラが返して、揃ってため息を吐き出す。
ソラはラゼットに二人分の紅茶を頼み、チャフに椅子へと座るよう勧めた。
「それで、何の用だ。いつも通りに嫌な知らせか?」
投げやりに問いかけるソラにチャフは首を横に振る。
「“いつも以上”に嫌な知らせだ」
そう言うとチャフはソラの顔を窺う。
彼は机に肘を突いて苦笑いしていた。慣れたよ、と言いたげだ。
「それで、父上……いや、レウルの野郎は何をしやがったんだ?」
「本格的に乗っ取りを始めたようだ」
チャフの返答にソラは興味を覚える。
乗っ取るもなにも、現状でクラインセルト伯爵家の跡継ぎはソラだ。血縁関係にあるのだから当然で、乗っ取るためにはソラの暗殺が必須事項になる。
血縁ではないレウルが伯爵家を継ぐことは出来ない。ソラと婚姻すれば別だが、レウルもソラも男である。
一体、どんな手を仕掛けたのかとソラは首を傾げた。
それを見ながら、チャフは重々しく口を開く。
「……ソラ卿、お前はもうすぐ爵位を剥奪される」




