第十八話 曖昧な境界
自身が持つ商館の二階の部屋を、アイクはぐるぐると歩き回っていた。
数週間前から、ロジーナ商会の者達に余裕の表情が出てきていた。
異常な安値で布を売り出しながら、赤字に焦る様子が見えない。
とうの昔に限界を迎えていなければならないロジーナ商会が、未だに営業を続けている事実は、アイク商会の面々に焦りを生んでいた。
挙げ句、ロジーナ商会が黒字を出しているという話まである。
──有り得ない。嘘に違いない。
いくら否定しても、ロジーナ商会が潰れていない理由を突き止めない限り、アイク自身も否定し切れない。
ロジーナ商会が出している価格で利益が出るとすれば、布を織る職人の給料を絞るくらいしかアイクには思いつかない。
そんな無茶をすれば、商売敵のアイク商会に職人が泣きついてくるはずだ。
──奴隷を使えば……いや、違う。
奴隷とはいえ、食事が必要な上、購入費の問題もある。
先行投資をする資金など、ロジーナ商会はおろか、アイク商会にだって存在しない。
仮に奴隷を使っているとしても、職人としては素人だ。生産効率は高が知れている。
あれこれ考えても、納得がいく答えに辿り着けず、アイクはまた部屋をぐるぐると歩き回る。
「クラインセルト子爵が何かした。それだけは確実だが……」
考え悩むアイクだったが、扉をノックする音に気付いて顔を振り向ける。
「……入れ」
アイクが入室を許可すると、部下が扉を開けた。
「クラインセルト子爵から、手紙が届きました」
アイクは怪しんで眉を寄せる。
──この期に及んで、向こうから仕掛けてくるのか。
「こちらです」
アイクにソラからの手紙を渡し、部下が退出する。
扉が完全に閉まるまで待って、アイクは手紙を開ける。
文面に目を通したアイクは部屋を出て、馬車を用意させた。
──わざわざ秘密を見せようなどと、いったい何を考えている。
子爵に会う以上、服にも気を使わねばならない。
慣れた仕草で服を着込み、アイクは外に出る。
既に部下が動き、馬車を待機させていた。
数名の部下に見送られながら乗り込むと、馬車が土の路面を進みだす。
進む先には雨雲が垂れ込めていた。
日向と日陰の境界を無くし全てを曖昧にぼかすような、不気味な天気だ。
馬車がクロスポートに着く頃には、雨が降り始めていた。
遠くに一瞬の光が落ちたかと思えば、音が空気を伝ってアイクの鼓膜を震わせた。
悪天候の中、ソラが待つ大樹館へと馬車を乗り入れる。
出迎えたのは、以前訪れた時にも見た美しい娘だった。
「アイク商会長、ソラ様がお待ちだ」
短く告げて、リュリュはスカートを翻し、アイクを大樹館の中に案内する。
雨の影響か、大樹館の中は薄暗く、静けさに包まれていた。
冷えた空気が床近くを流れ、アイクを足先から凍えさせた。
──この妙な薄ら寒さはなんだ……?
アイクは廊下を見回し、明かりが点いていない燭台を見つける。
記憶を探ると、大樹館に入ってから人とすれ違うどころか、声すら聞いていない。
──大樹館に人がいない? 有り得ないな。
人の気配を探ろうと耳を澄ませば、微かな音が聞こえてきた。
しかし、人の気配を感じさせる音ではない。
ギリギリとカタカタと、あるいはパタンと、複数の音がアイクの耳に届く。
総じて微かな音ではあったが、聞き覚えのある音が混じっている事に気付き、アイクは首を傾げる。
──はて、どこで聞いたのだったか……。
アイクは音の正体を探ろうとするが、応接室に到着する方が早かった。
リュリュが扉を押し開け、アイクを応接室に手招く。
アイクは応接室に一歩足を踏み入れ、部屋の奥に佇む少年に息を飲んだ。
「──アイク、よく来てくれた」
歓迎するような言葉を紡ぎながら、冷笑を浮かべる大樹館の主、ソラ・クラインセルト。
「まぁ、ひとまず座れ」
友好的とはとても言えない表情でありながら、あくまでも客人に対する態度は崩さない。
緊張がアイクの体を包み込む。
──ただ仕掛けてきただけではない。これは、勝負をつける気だ。
ソラの態度から敏感に察して、アイクは気を引き締める。
ソラが口だけで笑んだ。
「アイク、まだ安値競争を続けるつもりか?」
ソラの問いかけに、アイクは顎を引いて無言のまま肯定した。
ソラはこれ見よがしにため息を吐く。
「既に勝負は着いている。布の仕入れ価格に絶対的な開きがあるんだからな」
ソラがロジーナ商会との契約書を掲げて見せた。
ロジーナ商会へ布を卸す契約が記されている。
布の卸値を見て、アイクは驚きに目を見張った。
糸を輸入して領内で生産しても、契約書に記された価格にまでは下げられない。
「……ロジーナ商会への形を変えた資金注入ですか?」
「ロジーナと同じ事を言うんだな」
ソラが呆れ混じりの口調で言って、小馬鹿にするように肩を竦めた。
商売敵と発想が同じだと言われ、アイクは顔をしかめる。
しかし、他に考えつかないのも事実だ。
──大丈夫、資金力ではこちらが上だ。ザシャ様とホルガー様からの融資が続く限り、負けはない。
アイクは自身の有利を再確認し、気を落ち着ける。
落ち着きを取り戻したアイクを見て、ソラが喉の奥で笑った。
また一枚、ソラが羊皮紙を取り出す。
「先に宣言しておこう。俺はお前達を叩き潰し、倒産に追い込む」
ソラの宣戦布告に、アイクはごくりと喉を鳴らす。
ソラが取り出した羊皮紙は、アイク商会が潰れた際の失業者を引き受ける確約書だった。
アイクは更に肝を冷やす。
──子爵は本気だ。本気で、潰す気だ。
確約書まで用意している以上、単なる脅しではなくなっている。
アイクは喉の渇きを覚えて、机を見る。
しかし、期待していた飲み物の類は、何も用意されていなかった。
もはや、水の一杯すら渡すつもりはないかのようだ。
「お前は金を使いすぎた。退こうと思っても覚悟が追いつかないんだろ? なぁ、アイク──」
机を見るために下げられたアイクの頭に、そっと手が添えられる。
冷たい指先が頭の上を滑り、アイクのうなじを捕らえた。
「俺が、諦めさせてやるよ」
8月28日修正




