137話「エル」
「美夜、足が疲れないか?」
「平気です、陛下」
陛下のことを見下ろしながらそう答えた。
同時に、それにしても、とも思う。
こうして私のほうが見下ろす側になるというのは、何とも妙な心地である。
今、私たちがいるのは陛下の執務室の隣に設けられた部屋。
陛下に昼食を持って行き、一緒に食べた軽い後、カウチに腰掛けて休憩中いるところだ。
陛下はその長身をカウチに横たえ(若干余り気味ではある)頭を私の膝へと乗せている。
この、俗に言う膝枕というものを申し出たのは私だ。
元いた世界において、世のカップルというのはこういうことをするらしい、という知識が頭の片隅にあった。
もちろん、私は今までに一度もしたこともなければ、してもらったこともない。
というより、仮に元いた世界で誰かと恋愛関係になる機会があったとしても、敢えてしたいとは思わない。
陛下の言う通り、足が疲れる上にこうしている間は他に何もできないし、不合理極まりない。
だったら、他人の膝を枕代わりにするより、簡易的な枕を用意したほうが遙かにいい。
ならば、何故自らこんなことを申し出たかと言うと、陛下だからとしか言い様がない。
今から思えば、元いた世界で陛下と一緒に過ごす間に、もっと色々なことをしておきたかった。
即ち、恋人としてということだ。
けれども、私たちは恋人になると同時にすぐこちらへと戻ることとなった。
それはそれで仕方ないとして、それならできうる限りの「恋人らしいこと」全てをしたいと、そう思う。
これは、その一環である。
とは言うものの……。
私は、見るともなく前方の壁へと視線を向けたまま、その視界の端で陛下の顔を捉える。
直視するのは、その、抵抗があった。
何というか、正直言って落ち着かない。
その時、唐突に頬に触れられるのを感じた。
「陛下?」
驚きと困惑、そして非難混じりに言って視線を向ける。
陛下は私の頬に手を添えたまま、悪びれた様子もなく笑う。
「ああ、やっとこちらを見てくれた」
「……あの、何か?」
「いや、特に何ということもないのだが、やはり美夜の顔が見えるほうがいい」
私は思わず小さく呻いた。
そう言われて悪い気はしないのだけど、正直、何と言っていいかわからない。
「……そうですか」
やっとの思いでそれだけを口にした。
ならば、こうして見つめたままでいるほうがいいのだろうか。
とは言え、ずっと視線が絡んだままというのも、どうにもそわそわする。
不意に陛下が目を細め、小さく嘆息する気配があった。
その目は真上を、つまり私のほうを見ている筈なのに、「私」が映っていないのは気のせいだろうか。
「陛下」
そう呼び掛けると、明らかに雰囲気が変わった。
今度は「私」を見つめている。
……やはり気のせいではなかったようだ。
「美夜? どうした?」
「どうした、というのは」
「……いや、何だか怒っているように見えてな」
「私は別に……」
いつも通りです、と言いかけて口を噤んだ。
代わりに、思い切って踏み込んでみることにした。
「今、一瞬ですが心ここに在らずといった様子に見えました」
「ああ……」
陛下は言葉を濁し、決まり悪そうに笑った。
遠回しな肯定に、私は再び低く呻いた。
「すまない。少し、昔のことを思い出していた」
「……陛下にとって『これ』は初めてではないということですか」
殴られたような衝撃を受けながらも、私の頭はその相手は誰なのか、どんな女なのかと思い巡らせる。
まさか、と思うと同時に脳裏にクラヴィス・クレイスの姿が浮かんだ。
「アスヴァレンだ」
陛下は常より早口に言った。
同時に、私の思考がぴたりと完全停止する。
「……アスヴァレン?」
「そう、アスヴァレン」
「アスヴァレンというのは、私の兄に該当する人物ですか?」
「ああ、俺が知る限りアスヴァレンと言えばあいつしかいない」
陛下の言葉に耳を傾けながら、今聞いたことを頭の中で纏める。
つまり陛下は、アスヴァレンに膝枕をしてもらったことがあるということか。
まぁ、別段不思議なことではない。
多少、複雑に思わないこともないけれど、それでも安堵のほうが大きかった。
「てっきり、女性なのかと思ってしまいました」
「前にも言っただろう? 美夜以外の女性には触れたこともないと」
苦笑交じりに言って、陛下は私の髪の一房を手に取る。
そのまま、指先で弄りながら言葉を続ける。
「あまり良くない考えを巡らせていると思った」
「……当たり、でしたね。まぁ、私にだってそういう時もあります」
この数日、陛下は……というより、私たちはアスヴァレンについて言及するのを避けていた。
彼は以前と、そう、アスヴァレンが深い眠りに落ちる前と何ら変わりない様子だ。
アスヴァレンについて、一切話題に出さなくなったこと以外は。
私は私で、陛下の意図を汲んで、やはりアスヴァレンの話題を徹底的に避けている。
けれども、私は知っている。
陛下が毎日欠かすことなく、アスヴァレンを訪れていることを。
正直、陛下にアスヴァレンの名を出させてしまったことに少しばかり罪悪感を覚えないでもない。
ここは一つ、それとなり話題を変えるべきだろう。
そう考えながら、意に反することを口に出してしまった。
「それは、いったいいつ頃のことなのですか」
「そうだな、確か……」
自分で話を続けておきながら、居心地の悪さを覚える私とは逆に、陛下は意に介した様子もなく続ける。
「俺が九つの頃だったな。あの頃、眠れない日々が続いた。……ある日、日中だというのに寝入ってしまったことがあり、気付けば傍にあいつがいた」
「目を覚ますと、アスヴァレンに膝枕をされていたということでしょうか」
「ああ」
陛下は短く答えて、目を細める。
どこか、遠い昔を懐かしむような目だ。
「全く、あいつは。すぐに起こしてくれればいいのに」
そう語る陛下の声音には、言葉とは裏腹にアスヴァレンへの愛情を感じさせた。
ああ、そうだ。
私は、パズルのピースがかちりとはまるように、何かが腑に落ちるのを感じた。
そして、気付けばこう口に出していた。
「アスヴァレンが恋しいですか」
私の言葉に、陛下は目を見開く。
金色の双眸に喫驚が、次いで困惑と狼狽の色が浮かぶ。
美夜、と掠れた声が私を呼ぶ。
「俺は……」
彼は数拍の逡巡の後に再び口を開いたけれど、何を言おうとしたのかは永遠にわからないままとなってしまう。
陛下の言葉を、私たちの時間を遮るように、扉を叩く音が聞こえた。
陛下は素早い所作で立ち上がると、王の顔に戻る。
「どうした?」
「失礼いたします、陛下。シルウェステルです」
そんなやり取りの後、陛下が扉を開くとそこにはいつも通り白い軍服を一分の隙もなく着込んだシルウェステルが立っていた。
彼は深々と一礼し、それから言葉を続ける。
「お休み中のところ申し訳ありません。神使様が……」
一瞬だけ言葉を濁し、私を横目で覗う。
けれども、本当にごく僅かな間のことで、すぐに主君へと視線を戻す。
「意識はないまま、陛下のことを呼んでおられますが、その……」
「……そうか」
そう答えた陛下には、どこか躊躇うような素振りが見られた。
私は、彼らが私に対して気を使っているのだと理解した。
誰にも聞こえないように小さく舌打ちすると、あくまで優雅にかつ華麗に立ち上がる。
「陛下、どうかクラヴィス様のところへ行って差し上げてください」
「美夜」
そう言って振り返った陛下の顔には、申し訳なさそうな表情が浮かんでいる。
私は花のかんばせに、見る者全てを魅了する笑顔を作ってみせる。
胸元に添えた拳を強く握り締めていることを悟られぬよう、もう片方の手でそっと包み込む。
「私のことはどうかお気になさらず。陛下がお側にいて差し上げることで、クラヴィス様の慰めになるのなら、そのようになさるべきです」
笑みを貼り付けたまま言葉を紡ぐ私に、陛下は何かを言いかけてから口を噤む。
それから、小さく笑みを浮かべた。
「わかった。では、そうさせてもらおう。……すまない、美夜」
最後の言葉は殆ど囁くような声音で、おそらく私以外には聞こえなかっただろう。
部屋を後にした私たちは、それぞれ別方向へと向かう。
陛下はシルウェステルと共にクラヴィス・クレイスの部屋に、私はマティアスに付き添われる形で自室へと。
その間、一瞬たりとも握りこぶしを解かなかったため、部屋に着く頃には手の平に血が滲んでいた。
ああ、この拳をクラヴィスの顔面へと打ち付けることができたなら、どんなにいいだろうか。
自室にて一人になった私は、まずこの煮えたぎる怒りをどうにかしなくてはと考えた。
取り敢えず、枕に何度か拳をめり込ませた後、紙にクラヴィスの顔を描いてから、その上に落書きをした。
目の周りを丸で囲んだり、鼻の下に髭を書き込んだり、更にはその顔の周りにありったけの悪口を連ねていく。
そうこうしている内に少しは溜飲が下がったものの、そうすると今度は別の考えが再度浮上して来た。
私がずっと目を背けて来た問題……そろそろ、それと向き合う頃合いだろう。
次に陛下と会ったのは、夕食や湯浴みも済んでからのことだった。
「美夜、遅くなってすまない」
「……いえ」
バルコニーに出た私たちは、向き合って座りながらお茶を飲んでいるところだ。
大抵の場合、陛下は夕餉の時間も一緒に過ごしてくれる。
けれども、多忙な時はそうもいかない。
……今日に関して言えば、クラヴィスのせいだろう。
あの女に手を取られて午後からの仕事に支障が出たのではないか、そう思えて仕方ない。
内心ではムカムカして仕方がないけれども、陛下に対してはおくびにも出すことなく対応する。
「美夜……」
陛下が私の名を呼ぶ。
その顔を覗うと、そこには何とも言えない複雑な感情が入り交じったような苦笑が浮かんでいた。
「できれば、でいいのだが。俺の前では、そういうことを控えてもらえないだろうか」
「そういうこと、とは?」
「端的に言えば、本心を偽ることだ。言葉であれ、表情であれ」
私は思わず口を噤んだ。
虚を突かれた思いで、何も言えなくなってしまう。
彼は淡々と続ける。
「今日のようにシルウェがいる時や、あるいは他の者と接する時はそういう必要もあるのだと思う」
「……それはつまり、こういうことでしょうか?」
そう言って、改めて愛想の良い笑顔を作る。
今日、クラヴィスのところへ行く陛下を見送る際に向けたものと同じ顔だ。
陛下は小さく呻き、それから頷いた。
諦観した私は、嘆息と共に笑みを消す。
「私なりに、陛下のお立場を理解した上で配慮したつもりだったのですが。あからさまに不機嫌な態度を見せるべきではない、と」
そう口にした言葉には、不満がありありと滲み出ている。
もちろん、私と陛下の時間を邪魔したクラヴィス……更には、シルウェステルへと向けたものだ。
もっとも、その立場を理解しているとは言え、陛下にも思うところがないと言えば嘘になる。
けれども、陛下は安堵したような笑みを浮かべる。
「ああ、それでこその美夜だ」
「陛下はこういう私のほうがお好み、ということでしょうか」
「そういえば、美夜は知っているかな」
私の問いかけに答える代わりに、彼はそう言った。
こちらの答えを期待してのことではないようで、そのまま言葉を続ける。
「俺の部下たちの間で、美夜は大層な人気だ。心優しく淑やかで品位があり、まさに国母に相応しい女性だと彼らは口々に褒めそやしていた」
「まぁ、そうでしょうね」
私はさらりと答えながらも、実のところ悪い気はしない。
部下、というのは陛下が率いる騎士団の面々のことだろう。
私も何度か顔を合わせているけれど、皆、好感の持てる者ばかりである。
これは、騎士団の大半が神域の落とし子であることと無関係ではない筈だ。
そういえば、こちらの世界で出会ったいけ好かない男連中……アスヴァレンを筆頭に、サリクス、シルウェステル、彼らは例外なく有性生殖で生を受けた者ばかりだった。
何はともあれ、誠実な者に対しては私もそれ相応の誠意でもって接している。
何しろ、私は寛大なのだ。
陛下は笑いを噛み殺すような物言いで続ける。
「彼らの言うような美夜も、確かに悪くはない。それでも俺は、自分のよく知る美夜が一番いい」
そう言って目を細め、テーブル越しに私の頬へと手を添える陛下。
思わず、口に運んだばかりのクッキーを喉に詰まらせそうになる。
同時に、脳裏の片隅に漂っていた靄のような思考が、徐々に明確な形を取り始める。
今日の昼間、一度は口に出したものの最後まで言えなかったこと。
どう言葉を構築して良いかわからぬまま、彼の手に自分の手を重ねた。
陛下、と呼び掛けて直前で口を噤む。
「エル」
一瞬の逡巡の後、半ば無意識に口から零れた言葉。
私の目の前で、金色の双眸が驚愕に開かれる。
そこに映る自分の顔を見つめながら、今度は明確な意思を持って言葉を紡ぐ。
「そう仰るのであれば、エルも本心を話すべきです。少なくとも、私にだけは」
言いながら、陛下の……否、エルの手に重ねた手に力を入れる。
驚きを湛えたその双眸を真っ直ぐに見つめて言った。
「アスヴァレンに会いたいですか」




