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獅子王陛下の幼妻  作者: 小鳥遊彩
第六章
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133話「癒えぬ傷」

「……アスヴァレン?」


 私は室内に向かってそっと声をかける。

 前に訪れた時よりも綺麗に整頓された部屋を見渡し、その寝台の上に横たわる兄の姿を見つけた。

 陛下を振り返ると、彼は無言で私を室内へと促す。

 恐る恐る寝台を覗き込むと、アスヴァレンは仰向けの状態で眠っていた。

 穏やかな寝息を立てながら、まさに安眠と呼ぶに相応しい様子だ。

 けれども、私の胸中で不安を伴った違和感が膨れ上がっていく。


 おかしい、明らかに何かが変だ。

 そうだ、アスヴァレンならば陛下が近付く気配を察して目を覚まさない筈がない。

 私が再び陛下へと視線を向けると、首を左右に振るのを感じた。


「……美夜が、あいつが負傷した件について知らせてくれただろう。すぐにあいつのところに赴いて怪我の様子を確認した」


 陛下はそう言いながら、アスヴァレンの腕をそっと取る。

 そこに巻かれた包帯を解いていくと、やがて素肌部分が現れた。

 それを見て、私は思わず息を呑んでしまう。


「傷、まだ血が……」


 思わず不明瞭な言葉が口から零れた。

 それでも陛下は私の言わんとすることを察してくれたようで、重々しく頷いた。

 アスヴァレンの前腕部分の皮膚は、火傷を負った直後のように爛れて変色していた。


 とは言え、規模で言えばそう酷い火傷でもない。

 私が何よりも目を奪われたのは、まだ血を滲ませる傷跡……否、生傷だ。

 火傷部分の中心に、獣に噛まれたような傷ができていて、そこからまだ鮮血が滲む。

 完全に言葉を失った私に代わり、陛下が言った。


「あの日からはそれなりの日数が経つが、まだ傷が塞がる様子さえない。……いや、そもそも普段のアスヴァレンなら、この程度の怪我などすぐに治る」

「すぐに……?」

「ああ。『賢者の石』の効果で」


 賢者の石……?

 そういえば前にアスヴァレンからそんなことを聞いた気がする。

 結局、詳細については知らずじまいだった。

 気にはなったものの、陛下はアスヴァレンの包帯を新しいものに取り替え始めたため、その邪魔をするのも気が引ける。

 ショック状態から抜け出せぬまま、それでも黙って突っ立っているのも気が引けて陛下を手伝うことにした。


「ありがとう、美夜」

「いえ……あの、アスヴァレンはいつから……」

「……昨日から眠ったままだ。今日も何度か呼び掛けたが、目を覚まそうとしない」


 陛下の口調はあくまでも平静だった。

 けれども、努めてそうしていることに気付かない私ではない。

 胸の痛みを覚えながら、未だ目を覚まさぬ兄へと視線を向ける。

 今日も陛下は、私と出かける前に彼に向かって呼び掛けていたのだ。

 呼び掛けに応えないアスヴァレンを置いて部屋を出る時、どんな気持ちだったのだろう。


 不意に、頭に何かが触れるのを感じた。

 一拍の後、それが陛下の手だと気付く。


「陛下?」

「……美夜が何を考えているか、大凡はわかる」

「……」

「どうか、自分を責めたり罪の意識を感じたりはしないで欲しい。……俺にとっても、貴女が隣にいてくれることが慰めになったのだから」


 そう言いながら私をそっと抱き締める。

 私はどう答えて良いかわからなくて、「はい」とだけ呟いた。

 陛下の言う自責の念とは違うけれど、何とも名状し難い感情が私の胸中で渦巻いている。

 陛下に抱き締められながら、私は躊躇いがちに尋ねた。


「アスヴァレンは……ずっとこのままなのですか?」


 どう表現すべきか悩んだ末にそう言葉を紡いだ。

 数拍置いて、陛下は口を開いた。


「わからない。……と言いたいところだが、おそらくはそうだろう。あいつは、数日前からこのことを予見している様子だった」


 陛下の言葉に耳を傾けながら、脳裏を過るのは最後に見たアスヴァレンの姿。

 例の本を燃やすと言った時、彼はその行為に伴う危険性を理解していた筈だ。

 燃え尽きるのを見届けた後、アスヴァレンは私にその場から去るように言ったけれど、もし留まっていたなら……そこまで考えて、首を左右に振った。


 もし、などと言ったところでどうしようもないことだ。

 ならば、考えるべきはこれからどうするかである。

 詰めていた息を吐き出し、再び大きく吸い込んだ時、思わぬ方向から声が聞こえた。


「はい、この話はもうこれでおしまい」


 酷く嗄れた声だった。

 聞き覚えのない声に振り向けば、扉付近に一人の老人が立っているのが見えた。

 記憶の中の祖父母よりもずっと高齢で、百を超えているのではないかと思える。

 元は長身だったようだけど、枯れ枝のように痩せ細り、しかも腰がすっかり曲がってしまっているせいか小柄な印象を受ける。


 全く心当たりのない人物を前に、いったい誰だろうかと思わず目を瞬かせる。

 ちらりと陛下へと視線を向ければ、彼の顔には喫驚と困惑が浮かんでいる。

 どうやら心当たりがあるらしい。

 不意に、老人が咳き込んだ。


「アルヴィース殿!?」


 陛下はそう叫んで老人の側へと駆け寄り、その身体に手を添える。

 私は、目を見開いて改めてその老人を眺めた。

 まさか、と思うと同時に老いたその姿に父の面影が重なる。


「ああ、エルくん、ありがとう」


 老人……アルヴィースは、息も絶え絶えと言った様子で言葉を紡ぐ。

 それからちらりと私を見た。


「君はすぐに私だとわかってくれたね。娘とは大違いだよ」


 ……この当てつけめいた言い方、間違いない、我が親愛なる父アルヴィース本人だ。


「……お久しぶりですね、お父様。暫くお目にかからない間に、随分と雰囲気が変わられましたね。一見しただけでは気付けませんでした」

「そうだろうね。君のように、物事の表面しか見ようとしない者にとってはね」

「いえ、美夜の言う通りですアルヴィース殿。その姿はいったい……いや、まさか……」


 アルヴィースは自分を支える陛下を見上げ、幾重にも深い皺が刻まれた顔に弱々しい笑みを浮かべる。


「テオセベイアとアークヴィンの……父母の不始末を片付けて来たのだよ」


 そう聞いた陛下は大きく目を見開き、それから「やはり……」と呟いた。

 二人の会話を聞きながら、私はこの数日間でアルヴィースが何を行っていたか理解した。

 以前、彼はフラルヴァーリとアヴィスとを隔てる障壁を修復するためにこちらの世界に戻るのだと言った。


「〝障壁〟の復元には成功したのですか?」

「こんな姿になった父を前に、真っ先に気にするのはそこなのか」

「それはお互い様でしょう。で、首尾はどうなのです?」


 アルヴィースは震える右手を持ち上げ、不器用にピースサインを作ってみせた。

 それから苦しげに息を吐き出す。


「一応は、ね」

「一応ですって?」

「取り敢えず二千年間は持つだろう」


 二千年、と私は小さく反芻する。

 惑星規模で考えればほんの一瞬だけど、人類にとっては永遠にも近い年月だ。前に彼が言った「半永久的」という言葉もあながち嘘ではないだろう。


「アルヴィース殿……」


 陛下が憂いを帯びた顔で、変わり果てた姿のアルヴィースを見つめる。


「そんな姿になってまで、この世界を……」

「それこそが、私がここに戻って来た理由だからねぇ」


 そう言ってアルヴィースは、骨と皮だけになった手を陛下の手へと重ねる。


「私は……私たちは、君がいる場所を守りたかった」


 半ば独白のように呟くと、アスヴァレンへと視線を向けた。

 彼は未だ眠ったままで、目を覚ます気配さえない。

 そうだ、と私はそこに思い至った。

 今のアスヴァレンの状態も、彼なら何かわかるのではないか。


「お父様、アスヴァレン……いえ、お兄様は……」

「大丈夫、何も問題はない」

「……え?」


 あまりにも断定的な言い方に思わず目を丸くした私へと、彼は「問題ない」と繰り返す。

 それどころか、踵を返して覚束ない足取りで扉へと向かおうとする。


「お父様? それはどういうことですか? どこに行くのですか?」

「はぁ……この老体に鞭打ってここまで来たのだよ。そろそろ休ませてくれ」

「待ってください、アルヴィース殿」


 私が言っても全く意に介した様子のないアルヴィースだったけれど、陛下に呼ばれた途端に足を止めた。


「……エルくん」


 陛下へと向けた顔には相変わらず茫洋とした笑みが浮かんでいるものの、どこか苦悶の色が混じる。

 それから彼は小さく嘆息した。


「君の言いたいことはわかっているつもりだ。アスくんを目覚めさせることはできないか、そういうことだろう?」

「はい。アスヴァレンは今、いったいどのような状態なのですか?」

「それは……」


 アルヴィースは口籠もり、視線をアスヴァレンへと、次いで私へと向けた後、再び陛下へと向き直る。


「アトロポス、つまり君の弟が深淵で……正確には、クラヴィスが深淵の中に創り出した空間の中で、取り込まれた君の魂の一部を守っていることは娘から聞いたね」

「はい」

「しかし、アトロポスはもう長く持たない。だから代わりにアスくんが向かった、そういうことさ」

「つまり……アスヴァレンの魂は、ここにはないということですか?」


 私の問いに、アルヴィースは頷いた。

 長く喋ったせいなのか、老いた父は苦しそうに息を切らせている。

 そんな彼の背に、陛下がそっと手を添える。


「大丈夫ですか、アルヴィース殿」

「……少し、疲れたかな」


 掠れた声で言って瞼を落とす。

 冗談ではなく辛そうなその様子に、さすがにこれ以上尋ねるのは気が引けてしまう。

 ところが、アルヴィースは不意に目を開いて、口を噤む私を見た。


「だから、君は何もする必要はない」

「え?」

「言っただろう、私たちはエルくんがいる場所を……君たちの幸せを守りたかった」


 彼の言葉に陛下ははっとしたように顔を上げ、それから再び目を伏せた。

 ややあって、静かに口を開く。


「今は休まれたほうがいい。部屋へとお連れします」

「ああ、助かるよ」

「美夜、一先ず部屋に戻っていてくれ」


 そう言い残して、陛下はアルヴィースを伴ってアスヴァレンの部屋を後にした。


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