128話「口さがない噂」
恐怖よりも困惑が勝り、全く動けなかった。
次の瞬間、一度にいくつものことが起きた。
一気に距離を詰めた陛下が、私を庇うように抱き込んだ。アスヴァレンが何かを叫ぶのが聞こえた。
ようやく事態を理解した私は、次に襲ってくるであろう音と衝撃に、陛下の腕の中で身を竦ませる。
ところが、いつまで経っても何事も起こる気配はなかった。
「……?」
恐る恐る、といった様子で陛下が私から離れる。
「アスヴァレン……」
陛下が詰めていた息を吐き出す。
彼は私に背を向け、視線の先にいるアスヴァレンのほうを向いている。
アスヴァレンはと言えば、いつになく真剣な表情で私たちに……というより、陛下に駆け寄る。
「エル、大丈夫かい? 怪我してないよね?」
陛下は私に視線を向けた後、再びアスヴァレンに向き直る。
「いや、大丈夫だ。俺も美夜も、何ともない。お前のお陰で助かった」
二人の会話に耳を傾けながら、私は視線を巡らせる。
落下したシャンデリアは、まともに私の頭上に降って来るところだった。
陛下が私を落下地点から移動させてくれたのだとしても、硝子が砕け散る音が聞こえないのはおかしい。
絨毯の上に転がったシャンデリアを見て、思わず我が目を疑った。
それは、どう見てもシャンデリアを模した羊毛フェルト製品にしか見えない。
戸惑う私の眼前で、羊毛フェルト製シャンデリアが揺らいだ。
次の瞬間、それは精巧な硝子と金属製の灯具へと変ずる。
そうか、と合点がいった。
これこそが、物質のエーテル構造式を書き換える錬金術なのだ。
そして、それを行ったのはアスヴァレンである。
いや、それよりももっと気にかかることがある。
再び視線を巡らせると、やはりと言うべきか、アトロポス王女の後ろ姿が見えた。
あの女……。
私は舌打ちしたい衝動を抑えつつ、アスヴァレンを見た。
アトロポス王女の姿は見えていないにしても、どうやら彼も同じことを考えているようで、小さく頷いた。
やっぱりそうだ。
アトロポスが狙っているのは私ではない。
陛下だ。
その後、私はアスヴァレンを伴って自分の部屋へと戻った。
陛下は私たちと一緒に昼食をと考えていたようだけど、アスヴァレンが「これから出来の悪い生徒を指導しなきゃいけないから」と辞退した。
陛下からの誘いを断るとは、アスヴァレンにしては珍しい……というより、有り得ないことだ。
おそらく、陛下はこれが建前(……建前、よね?)だと気付いている筈だ。
それに、ここ最近の出来事から、私たちが一緒にいることで却ってお互いを危険に晒しかねないことも。
「アトロポス王女は、急速に力を付けているのだと思います」
「んー。だろうね、やっぱり」
そう言って頷くアスヴァレンは、いつになく深刻な表情を浮かべている。
目の前に山盛りに積まれたクッキーを、まるで親の仇のように乱暴に食していく。
酷く苛立っているのは、まさに目の前で陛下が傷付けられそうになったからだろう。
「君、昨日もその前の日もエルと寝たんだよね?」
「えっ? 昨日はありましたけど、その前日は何も……」
「や、君の性生活なんか興味ないよ。そんなことより、君がエルにくっついてるのは危険なんだよ」
その言い様にむっとしたけれど、確かにアスヴァレンの言う通りだ。
私自身、同じことを思っていたところなのだから。
「アトロポス王女は、エルを直接狙うよりも、あの子が見てる前で君をヤるほうが確実だってわかってるんだね」
「……でしょうね」
陛下の身体能力なら、自分の身に危機が迫っても回避することは容易い。
けれど、アトロポス王女の攻撃対象が私となれば、彼は必ず守ろうとする。
死んで初めて完成する登場人物。
以前、アスヴァレンが口にした言葉を思い出した。
「いい度胸じゃないか。僕のエルを傷付けようとするなんて」
そう言って、ラングドシャをぱきっと折るアスヴァレン。
その様は、まるで憎い相手の骨に見立てているかのよう。
声音も、纏う雰囲気も、いつもの気怠そうなアスヴァレンとはまるで別人だ。
完全に目が据わっている。
彼は、不意に顔を上げて私を真っ直ぐに見つめる。
「美夜、今度こそ覚悟はできただろうね?」
「……ええ」
私は喉を鳴らして頷いた。
「いつでも構いません」
「よし」
アスヴァレンは頷くと、皿に残ったクッキーを凄まじい勢いで平らげ始める。
完食するのに、数分もかからなかった。
例のごとく、砂糖を大量に加えた紅茶でそれを流し込むと、椅子から立ち上がる。
「改めてクラヴィスの予定を組み直すよ。なるべく近い内に、部屋を空ける機会を作るからね」
「……よろしくお願いします」
一拍置いて、そう答えた。
これでもう後戻りはできない。
近い内にという言葉通り、彼はその日の内に新たな知らせを持って来た。
「決行日は一週間後だよ」
「一週間後?」
私は緊張感を湛えながらその言葉を反芻した。
長いとも短いとも言い難い。
けれども、その間は陛下と距離を置いて過ごさなければならないのだと思うと、途轍もなく長く感じられる。
「因みに、その日はいったい何があるのですか」
「……あー」
何気なく投げ掛けた質問に、けれどもアスヴァレンは決まり悪そうに視線を泳がせた。
何だろう。
何だか嫌な予感がする。
アスヴァレンはちらりと私に一瞥をくれたかと思うと、頬を掻きながら再び明後日の方向を見る。
「……何です? いったい何があると言うのですか?」
「んー、ちょっとね。今、名の売れた旅芸人が王都に滞在してるんだよ。それで無理を言って日程合わせてもらって、王城に招いたってわけさ。クラヴィスのための演奏会を開催する目的でさ」
「……なるほど」
「もちろん、本来なら国王の婚約者である君にも鑑賞のため同席してもらうべきだけどね。事情が事情だから、今回は見送ってくれるよね」
「ええ、構いません」
私はあっさり頷いた。
正直言って、面白くないという思いもある。
別にその演奏会をどうしても見たいわけじゃないけれど、この私を差し置いてクラヴィスが優先されるのは気に入らない。
とは言え、今はアトロポス王女に一泡吹かせてやるのが最優先事項だ。
忌々しい女め、今に見ているがいい。
「自分の手を汚したくない、って情けないこと言ってたけど覚悟が決まったみたいで安心したよ。じゃ、これ渡しとくね」
「私はそんなこと言っていません」
アスヴァレンを軽く睨み付けながら、彼に手渡されたものを受け取る。
それは、二本の鍵だった。
「これは?」
「クラヴィスの部屋の鍵だよ。長いほうは、寝室の鍵」
前にクラヴィスの部屋に入ったことはあるけれど、廊下から最も近い部屋だけだった。
あの部屋は応接間のようなもので、寝起きする部屋はもっと奥にあるのだろう。
そして、例のものもそこにある筈だ。
不安は残るとは言え、やるしかない。
その翌日。
起き抜けの私は、侍女たちに身支度を整えてもらいながら、早くも落ち着かない気分になっていた。
とは言え、あまりそわそわして訝しがられるわけにはいかない。
クラヴィスの部屋から例の本がなくなれば、彼女は真っ先に私を疑うだろう。
彼女に疑いの目を向けられるのは仕方ないにしても、その疑いが周囲に伝染することは避けたい。頭のおかしい女の戯れ言、という体にしたいのだ。
違和感を抱かせていないだろうかと侍女たちの様子を窺うと、どうも様子がおかしいことに気付いた。
彼女たちは、慣れた手付きでドレスの釦を止めて飾りリボンを結び、髪を梳る。
けれど、時折ちらちらと私に視線を投げ掛け、かと思えば目が合いそうになると明後日の方向を向く。
まさか、これから何を行おうとしているか勘付かれたのだろうか。
そう考えたところで、いくら何でもそれはない筈だとその考えを打ち消す。
「皆、どうしたの? 何か、良いことでもあったのかしら」
「……あー、いえ」
「そういうのとは、ちょっと違いますけど」
花のかんばせに無邪気な笑みを浮かべ、それとなく探りをいれたところ、彼女たちは思わせぶりな様子を見せた。
ある侍女は吹き出しそうになるのを必死に堪えるような顔で、手元に集中しようとしている。
「気になりますかぁ?」
一人の侍女が顔を覗き込み、そんなことを尋ねて来た。
思わずむっとしてしまう。
「気安いわね」
「あ……すいません」
「すいません、じゃなくて正しくはすみませんでしょ? 本来なら、申し訳ありませんと言うべきだけれど」
私は笑みを絶やさぬまま、優しくも有無を言わせぬ口調で言ってやった。
マルガレータを除いて、彼女たちは最近宛がわれたばかりの侍女なのだけど、正直なところ「なっていない」と感じる。
マルガレータも及第点ではないものの、まだマシなほうだ。
どことなく、私を小馬鹿にしているみたい。
確かに、私は昔から軽んじられたり侮られたりすることが多かった。
それに、手際もあまり良くない。
それだけならまだしも、私を満足させるために自己研鑽しようという意思が見られない。
彼女たちを前に、大仰に溜息をついてみせる。
さすがに不味いと思ったのか、誰もが顔色を変えるけれど構うものか。
「もういいわ。下がりなさい」
追い払うような仕草をして、自分で釦を止め始める。
私は使用人たちに傅かれるべき高貴なる女性だけど、だからと言って自分一人じゃ何もできない馬鹿じゃない。
着物の着付けだってできる私は、一人でも器用にドレスを纏い、それから髪をハーフアップに纏める。
美少女たる者、ヘアアレンジだってお手の物だ。
「あの、王女殿下……」
媚びたような笑みを浮かべ、おずおずと声をかけるマルガレータを冷たく一瞥する。
「近々、陛下にお話ししてお前たちの処遇を決めることにするわ」
私が言うと、侍女たちは一斉に響めいた。
「そんな! 王女殿下!」
「な、なんで……! なんでいきなりそんなこと言うんですか?」
「心当たりがないとでも言うの?」
私が言うと、誰もが決まり悪そうな表情を浮かべる。
まぁ、そうだろう。
彼女たちの、私に対する手抜きや不敬な態度は日増しに酷くなっていた。
陛下から直々に選んでもらった侍女ということもあって、角が立たないように接していたのが却って仇となったみたい。
近い内に、なるべく穏当に(それこそ陛下を通して)改善を試みるつもりだったけど、ここ最近は気が張り詰めていたこともあって、改善より先に我慢の限界が来てしまった。
「あ……あたしたち、王女殿下への口さがない噂に胸を痛めてただけなんです!」
「そうです! 本当ですよ!」
マルガレータのわざとらしい涙ながらの訴えに、他の侍女も便乗する。
全く、人間というのはいつの時代もどこの世界線でも「こう」なのか。本当に調子がいい。
冷めた目で彼女たちを眺めながら、その一方で気にかかることがあった。
「噂、ですって?」
「ええ、ええ、噂です。いや、あくまで噂なんで、あたしたちの誰一人としてマジに受け止めてないですけど」
「ええ、そうですよ!」
「話してごらんなさい」
「……実はですねぇ」
マルガレータの話によると、私と陛下が実は不仲であるといった噂が流れているらしい。
きっかけは、私が陛下の寝室を「追い出された」ことにあるのだとか。
そもそも、以前から「陛下が真に愛しているのはクラヴィスである」説がまことしやかに囁かれていて、そんな中、私が独り寝を強いられるようになった(もちろん実際には違う)ことで、その説に信憑性が出たようだ。
更に、追い打ちをかけるようにクラヴィスのために招かれる楽団の件だ。
病気がちで外に出られないクラヴィスのために、陛下が無理を言って楽団を王城へと呼んだのだと、彼女たちは信じて疑わない。
いや、おそらく彼女たちに限ったことではない筈だ。
けれども、私は演奏会に出席することを許されていない。
これはいよいよ不仲確定か? ……というのが、大凡のところだった。
マルガレータの話を聞き終えた私は、笑顔のままで暫く押し黙っていた。
怒り心頭に発するあまり、逆に冷静になる。
そうか、アスヴァレンが口籠もっていた理由だったのか。
考えてみれば、クラヴィスのために開催される演奏会なら、陛下の出席は必須だ。
そこに、婚約者である私の姿がないというのは由々しき事態だ。
私は知らずの内に拳を握り締めていた。
「そう。だいたいのところはわかったわ」
「それで、あたしたちはこんな噂が流れてることにめっちゃ腹立ってるんです」
「ええ、もう許せないですよねー」
「許せないですー」
綺麗な笑顔を貼り付けた顔を、侍女たち全員へと順に向けていく。
「話してくれてありがとう。ああ、それと、もう明日からは来なくていいわ」
ここ一週間ほど私が陛下の寝所に出入りしていないことを知っている者は、限られている。
その最たる例が、私や陛下に近しい立場にいる侍女である。
本当に腹が立つったらない。
私室から出た私は、供も付けずに王城の渡り廊下を歩いていた。
最初に向かった先はクラヴィス・クレイスの部屋だ。
最近、下見のために何度かその付近を訪れたのだけど、常に見張りの兵士が立っている。
この日も例に漏れなかった。
クラヴィス不在時にも見張りが立つとしたら、侵入はほぼ不可能だろう。
さて、どうしたものか。
一先ずアスヴァレンに相談することにした。
これから彼に語学を学ぶ予定だから、自室に帰れば会えるだろう。
先ほど「噂」の内容について聞いてからというもの、必然的に周囲に対して注意深くなる。
確かに、耳を欹てると私に対するゴシップの類がそこかしこから聞こえて来る。
「ねぇ、聞いた? 明日の演奏会の話」
「ええ、聞いたわよぉ。王女殿下は参加を許させないんですってね」
「あーあ、可哀想にねぇ」
廊下の一角にて、四人の女……下級使用人が、輪になってお喋りに花を咲かせていた。
その様子を、私は少し離れた場所から眺める。
彼女たちは、私に同情する口振りの割に声音には笑いが含まれている。
「陛下も露骨なことをなさるわね。いくら神使様のほうが大事だからって、ねぇ」
「テオセベイアの孫だか知らないけど、あんな小さい子供を嫁にしろって言われても、そりゃあ陛下だって困るでしょ」
「まぁね。私、初めて見た時は陛下の隠し子かと思っちゃった」
「ねぇ、あの子もしかして陛下とアスヴァレン様の隠し子だったりしない?」
「えっ? やだー! 二人とも男じゃないの!」
「だって、アスヴァレン様ってば錬金術師よ? 錬金術で妊娠できちゃったりして!」
「確かにねぇ。陛下も、あんな小さい子よりアスヴァレン様のほうがまだ『立つ』ってもんよね」
口々に好き勝手なことを言って、甲高い笑い声を立てる女たち。
何なの、この女連中?
こんな女どもが王城の下働きですって?
何か言ってやりたかったけど、決行日まで余計なことはしないと決意していたことを思い出す。
そうだ、このまま気付かれない内に退散するのが最善だろう。
私は深呼吸を繰り返し、暴れ出そうとする怒りを無理矢理抑え込み、その場を離れることにした。




