117話「これが、この世界の真実」
「誰?」
慌てて身を起こし、苛立ちを抑えようともせず誰何の言葉を投げ掛けるも、女は何の反応も示さない。
年の頃は十の半ばぐらい、つまり私とそう変わらないだろう。
ぞろりと長い金髪を垂らし、豪奢なドレスを着た……早い話が、貴族の令嬢のような女だ。
色素の薄いその髪を見て、白髪になるのが早そうだなと思った。
ノックもなしに、勝手に部屋に上がり込む無礼な女を睨み付けるけれど、女は茫洋とした表情で佇むばかりだ。
……いや、表情だけではない。
輪郭というか、この女の存在そのものから茫漠とした印象を受ける。
まるで死霊のような……。
ここに至り、今の今まで何の物音もしなかったことに気付く。
以前、アスヴァレンが何の物音も立てずに部屋に入って来たことがあったけれど、こんなドレスを纏いながら同様のことができるのだろうか。
そんなことを考えながら、同時に彼女が普通の人間ではないことを悟った。
「お前は何者なの? 名乗りなさい」
死霊の類か、あるいはマナやそれに近い存在か。
おそらくは前者だろう。
何にしても、私の部屋に不法侵入するという狼藉行為を見過ごすことはできない。
不意に女が口を開いた。
「……もう忘れてしまったの?」
私はぎょっとした。
正直なところ、問いかけたところで本当に意思疎通ができるとは思っていなかった。
とは言え、ここで驚いたり狼狽えたりしては美少女が廃るというもの。
私は努めて平静を装いつつ、形の良い眉を顰める。
「生憎と、貴女なんかに会った覚えはないわ」
「私はアトロポス」
不覚にも、その名を聞いて再び吃驚してしまった。
アトロポス。
陛下の弟にして、十二という若さでこの世を去ったブラギルフィア第二王子。
私は彼に、「夢」の中で会ったことがある。
でも、今目の前にいるのは紛れもない女だ。
私は改めてこの女を観察する。
よく見れば。クラヴィス=クレイスが娘と呼んだ人形とそっくりだ。
それこそ、人形が不思議な力を得てヒトの身体を手に入れたかのような……。
そこまで考えて、ぞくりと寒気を覚えた。
アトロポス王女は、クラヴィスの妄想の産物。
そして彼女の別人格。
その別人格が、こうして私の前に現れたというのはいったいどういうことなのか。
途轍もなく嫌な予感がした。
「アトロポス王女が、私に何の用?」
あくまでも淡々と問いかける。
アトロポスは……アトロポスを名乗る女は、暫しの間、茫洋とした目で私を見るともなく見つめた。
でも、その目に本当に私が映っているのだろうか。
女は、手をゆっくりと持ち上げた。
右腕を肩の高さまで持ち上げると、五本の指を私へと向ける。
「以前、伝えたでしょう。お兄様はね、私が側にいてあげないと容易く崩れてしまうほど脆い……可哀相な人ほど不安定な人なの。そして、お兄様にとっての私は、叶わなかった夢の抜け殻を詰めた器。最愛の人の魂を映し出す鏡。……お母様の、身代わり。これが、この世界の真実」
「……は?」
私の声は、地の底から響くように低かった。
唇を引き結び、完全な無表情でアトロポス王女を見据える。
黙って聞いていれば、陛下に対して何と言う侮辱だろう。
彼のことを僅かでも知っていれば、そんな馬鹿げた発想ができる筈などないのに。
静かな、けれども激しい怒りが内側から込み上げて来る。
「そのくだらない妄想が真実ですって? クラヴィス=クレイスの妄想の産物に過ぎない虚構の存在が、よくもまぁそんなことが言えるわね」
どういう原理で、クラヴィスの脳内にしか存在しない筈の女が私の目の前にいるのかはわからない。
ただ一つはっきりしているのは、この女は許されざる存在だということだ。
この女は、一分一秒たりとも存在しているべきではない。
よし、消してしまおう。
その方法について何の計画もないまま、私は彼女に掴み掛かろうと距離を詰める。
アトロポス王女は、怯えるでも驚くでもなく口を開いた。
彼女が何らかの声を発した瞬間、脳天を貫くような痛みを感じた。
「……や……美夜?」
「う……」
生温い闇の中を漂っているような心地だった。
光どころか、時間の感覚さえない無音の闇。
そこに慕わしい声が聞こえ、闇の中に溶け消えそうになっていた私の意識を浮上させる。
恐る恐る目を開けると、心配そうに見下ろす陛下の顔があった。
「陛下……?」
「ああ、良かった」
陛下が心底安堵したように、嘆息混じりに呟いた。
でも、すぐに深刻な表情に戻る。
「美夜、気分が優れないのか? 見たところ熱はないようだが……」
「私……私、は……」
記憶が混濁していて、自分がどこにいるのかすぐには思い出せなかった。
見れば、陛下は床に膝を着いて私を抱き起こした体勢でいる。
ということは、私は床の上で寝ていたのだろうか。
不意に意識を失う前の記憶が戻り、勢い良く半身を起こした。
部屋の中を見回しても、あの女の姿は見当たらない。
まさか、夢……いや、違う。
陛下の様子からして、彼はあの女を見ていないようだけど、それでも間違いなく「いた」のだと確信している。
思わず歯噛みしていると、温かな手が頭に触れるのを感じた。
「美夜、暫くは安静にしているほうがいい。ここのところ、ずっと大変な思いをしていたから疲労がたたったのだろう。それに、もしかしたら他に要員があるかもしれない。すぐに医師を呼ぶ」
「陛下、あの……クラヴィス、様は……」
「クラヴィス? 彼女とはまだ会っていないが。……マティルダから聞いたところ、この最近はますます容態が思わしくないらしい」
「……そうですか」
「彼女がどうかしたか?」
「いえ」
クラヴィスについて話す時、陛下は顔を曇らせた。
こんな顔をするところを見ては、クラヴィス=クレイスを追放して欲しいとは言えなかった。
とは言え、あの女を陛下の側に置いておくべきではない気がする。
目を伏せた時、私は息が止まりそうなほど驚いた。
陛下の左腕に、例の黒い靄が纏わり付いている。
今の今までずっと視えなくて、もしかしたら消えたのではないかと楽観視さえしていたのに。
正確に言うと、その……「交歓の儀」を行ったことで、望む結果を得られたのではないかとも思った。
背中を嫌な汗が伝う。
小刻みに震える私の肩を、陛下がそっと抱いてくれる。そのまま抱き上げて寝台の上へと寝かせてもらった。
その心遣いを有り難く思うと同時に、言いようのないもどかしさを覚える。
本当に案ずるべきは、私ではなく陛下なのだ。
「陛下、こちらの世界に戻って来てから左腕の調子はいかがですか?」
「ん? ああ、特に問題ないが」
その返事を聞きながら、陛下の表情や仕草をじっと観察する。
見たところ、誤魔化している様子はないみたい。
そのことに一先ず胸を撫で下ろすけれど、左腕に纏わり付く靄が不吉の象徴にしか見えなくて、嫌な予感を拭えない。
陛下は暫くの間、寝台に横たわった私を穏やかな表情で見つめていた。
名残惜しそうにしながらも離れようとする彼に、腕を伸ばしてしがみつく。
「美夜?」
首に腕を回した私の背中に手を添え、身体を支えてくれる。
肩口に顔を埋め、暫くの沈黙の後に口を開く。
「次は、いつ……いえ、今夜お会いできませんか」
「今夜か。今夜は……」
言い淀む様子に、ちくりと胸が痛むのを感じた。
ああ、そうだった。
あちらの世界にいた時は、四六時中陛下を独占することができた。
でも、ブラギルフィアに帰って来た今はそうもいかない。
多忙な日は、自室に戻らず執務室の簡易寝台で仮眠を取ると聞いたことがある。
とは言え、これは陛下の命にも関わりかねないことだ。
問題は、その辺りのことをどう言語化するかだ。
そんなことを考えていると、陛下が私の髪をそっと撫でた。
それから肩に手を添えて、互いの顔が見える位置まで私の身体を持って行く。
「承知した。今夜、もう一度ここに訪れることにする。……可能な限り早く戻るから、眠らずに待っていてもらえるとありがたい」
それを聞いて、心に花が咲いたような気持ちになる。
でも、そんな気持ちをおくびにも出さず、ついと目を逸らす。
「……別に、ご多忙ならば無理にとは」
「いや……」
陛下は言葉を濁したきり黙りこくった。
沈黙が続いている間も、まだ私の肩に手を添えたままだ。
さり気なく身を引こうとしたけれど、肩を掴む力は思いの外強くて、容易には離れられそうにない。
まさか……怒らせた?
さすがの私も、少しばかりひやりとする。
「美夜」
不意に陛下が私の名を呼んだ。
恐る恐る顔を上げたところで、強く抱き締められた。
思わず小さく心臓が跳ねた。
陛下の温もりと鼓動とを感じながら、同時に息苦しさを覚える。
苦しい、けれども離して欲しいとも言えず、暫くの間そのままの体勢でじっとしていた。
「……一つ、言っておきたい」
「は、はい」
陛下は私を抱き締めていた腕を解き、穏やかな口調に言った。
でも、その金色の双眸には……言うならば、狂気めいた煌めきが宿っている気がした。
……目の錯覚だろうか。
私は小さく息を呑む。
「本当は、片時でも美夜から離れたくない。常に手を伸ばせば届く距離にいて欲しいと思う。……とは言え、そういうわけにもいかないからな」
そう言って小さく笑った。
私は「そうですか」と呟くように言って、ついと視線を逸らす。
「正直、安心しました。会いたいという気持ちは、陛下も同じなのだとわかって」
「同じ……だろうか、果たして」
「え?」
今、何と言ったのか聞き取れなかった。
目を瞬かせる私に、陛下は「いや」と首を振った。
「そろそろ行かないと」
「はい。……その、お疲れ様です。それと……」
陛下を見上げたまま、そっと目を閉じる。
数時間後に会える、それはつまり、これから数時間は会えないということだ。
だったら、その数時間を我慢するために、これぐらいのご褒美はあって然るべきである。
ところが、陛下はすぐには行動に移さなかった。
痺れを切らせた私が自ら動くべきかと思い始めた時、陛下が私の髪の一房を掬い上げる気配があった。
目を開けると、掌中の髪に口付ける陛下の姿が見えた。
「では、また後ほど」
目を瞬かせる私にそう告げると、今度こそ陛下は部屋を後にした。




