第89話 追いこまれる文研
二学期の始業式を終えた、昼下がりの放課後。部室には夏の暑さが残っている。
脇や背中から吹き出す汗が、ワイシャツの中の肌着に染み込んで、身体にべっとりと付着する。
柚木さんや文研の後輩たちの視線を感じる、
文研のノートパソコンの画面を睨みつける。テキストエディタの白いウィンドウが表示されている。
エディタを埋め尽くしているのは、俺の書いた横書きの文章だ。
一作目の三国志の小説を書き終わり、二作目のミステリー小説の短編を途中まで執筆した。
だけど、落ちが思いつかない。
市販のミステリー小説を元にして、密室殺人のトリックを執筆したところまではよかった。
犯人をだれにするのかも考えている。
けれど、殺人の動機が弱い。犯人と被害者の関係が弱いせいなのかな。
トリックばかりに焦点が当たっていて、犯人や主人公の心情が書き切れていないんだよな。
こんなマニアックな小説ではだめだ。テキストエディタを閉じて頭を抱える。
自分の思うように小説が書けない。
こうしたいという願望があるのに、文章や主人公がひとり歩きして、俺の意図しない方向へ進んでいってしまう。
「あの、先輩」
柚木さんがおずおずと尋ねる。
「どうかした?」
「いえ。あの、執筆は進んでるのかなと思いまして」
「執筆は全然進んでないよ。ひと通り書いたんだけど、落ちが決まらないんだ」
ノートパソコンの画面を柚木さんへ向ける。
柚木さんが、身体を少し屈めて画面を見やる。
「すごくたくさん書いてますね。これは二作目の小説ですか?」
「そうだよ。市販の小説を真似てミステリーを書いてみたんだけど、内容はそのまんまだね」
俺の技術力と経験では、ミステリー小説をいちから書くのなんて無理だ。
でも、市販の小説を真似すると、内容がほぼ同じになってしまう。
主人公やサブキャラクターの名前は変えているけど、わかる人には真似したことが見抜かれるんだろうな。
柚木さんが、ノートパソコンの上下のボタンを操作して、テキストエディタのウィンドウを動かす。
「これだけ書かれてるんでしたら、充分だと思いますけど」
「そうかな。結末がいまいちじゃない?」
「そうですか? 密室殺人のトリックの種明かしがされていますから、問題ないじゃないですか」
「トリックは問題ないか。書き足りないのは犯人の動機かな。どうして被害者を殺したのか。理由がわからないんだ」
「あ、そうですね。犯人と被害者は、あまり面識がないので、無差別殺人みたいな感じになってます」
「なんか、いい方法はないかな」
柚木さんが向こうの机から椅子を持ってくる。俺のとなりに腰かけた。
「ミステリー小説とか夜のサスペンスのドラマだと、犯人と被害者が実は知り合いだったっていうパターンが多いですよね」
「そうだね。よく見るパターンだ」
「この前、サスペンスを観たんですけど、そのドラマだと、犯人は被害者に脅されてて、仕方なく犯行に及んだっていう感じでしたっ」
そういう理由なら、犯人は殺害というリスクを冒すかもしれない。
「脅されたっていうのは、お金のことで脅されてたの?」
「えっと、そうだったと思います。犯人が過去にも別の人を殺してたとか、そんな内容でした」
犯人の過去の殺人を隠すために、被害者の脅しに負けてお金を渡していた。かなりミステリーっぽい内容だ。
「いいね、それ。参考に使わせてもらうよ」
「本当ですかっ!?」
「うん。話に一貫性があるし、聞いててとても納得できる動機だったから、ぜひ採用したい。柚木さんが許可してくれたらだけど」
「わたしは、全然っ。この前に観たドラマの内容を、そのまま言ってるだけですからっ」
柚木さんが右手を忙しく振った。
「柚木さんって、サスペンスなんて観るんだね。なんか意外だ」
「いえ、いつもは全然観ないですっ。そのときは、リビングのテレビにそのドラマがついてたので、なんとなく観てたんです」
お父さんかお母さんが観てたから、いっしょに観てただけか。
「先輩は、サスペンスとか観ないんですか?」
「観ないね。ドラマ自体をまったく観ないから」
「先輩はテレビより、小説を読む方が好きですもんね」
「そうだね。うちで小説を読んでると、ずっと時間をつぶしちゃうからね。悪い癖だよ」
小説を書くんだったら、ドラマを観た方がいいんだよな。
柚木さんの書く小説は、ドラマが元になってるわけだし。
柚木さんが首を横に振る。
「悪い癖じゃないですよ。読書に没頭できるのは、とてもいいことだと思います」
「そうかな」
「はいっ。わたしも先輩と同じ感じですし」
柚木さんが顔を少し赤らめて笑う。胸の高鳴りをとっさに抑え付ける。
顔が熱くなってるけど、だいじょうぶかな。団扇を使ってごまかそうっ。
「こんにちはぁ」
教壇側の扉が、がらがらと横に開く。
カットソーというのかな。白い半袖のシャツと、薄いグレーのロングスカートを穿いた先生が、ひょっこりあらわれた。
髪は後ろで括っているだけで、手入れがあまりされていない。
背中がだらりと曲がって、なんだか体調が悪そうだ。
「先生、だいじょうぶですかっ」
柚木さんに支えられて、先生が苦笑する。
「いいのよ。先生のことは気にしないで。それより小説は書けた?」
顔も少し細くなってる? 頬がもうちょっと、ふっくらしてたはずなのに、今日はあまり張りがない。
「小説は一作しか書けてないです。短編を書くだけで、やっとなので」
「そうよね。小説なんて普段から書いてないんだもん。仕方ないよね」
そう労う先生の落胆の色がすさまじい。
空いている椅子にどすんと腰を下ろして、明後日の方向を見ている。「あはは」と、小さな声が漏れる。
教頭先生から、相当なプレッシャーを与えられてるんだろうな。
「宗形くぅん」
後ろの首もとから両腕を入れ込まれて、ぞくっと鳥肌が立つ。
先生がっ、後ろから俺に抱き着いて――。
「先生っ、ちょっと!」
「あたし、もう宗形くんだけが頼りよぉ。お願いだから、なんとかしてっ!」
先生の薄く化粧された頬がっ、すぐそこにっ! シャンプーか化粧水かわからない、いい香りが、俺の鼻を刺激するっ。
先生の細い腕が――っていうか胸が、俺の背中にめちゃくちゃ当たってるし! 大きなマシュマロのような、柔らかい感触が――。
「先生っ、先輩が困ってますっ!」
「だってぇ、みんなが小説を書いてくれないんだもん。宗形くんに頼るしかないじゃないっ!」
柚木さんの懸命な制止にも、先生は動かない。
「そんなことないです! わたしたちも、先輩方も小説を書いてくれてますっ」
「そうなのぉ?」
「夏休みに先生から連絡してもらって、みんなで書きましょうっていうことになったんですから。部長は、ちょっとわからないですけど――」
「ほらぁ、やっぱり書いてないんじゃない! 先生のことなんて、みんなどうでもいいと思ってるんだっ」
先生が俺の両肩をつかんで、前後に――目が、まわりますから、やめてくださいっ。
「先生、やめ――」
「みんなひどいわっ! みんなはあたしのこと、大事にしてくれると思ってたのにっ」
「先生のことは、大事に思ってますから! ですからっ、落ち着いてくださらないと、先輩が――」
がたん、と後ろの扉の開く音がした。上下左右に回っていた視界がぴたりと止まる。
「だれっ?」
文研の部員たちが一斉に振り向く。
後ろの扉を左手で押さえつけて、女子生徒が仁王立ちしている。
悠然と胸を張って、制服のブレザーを肩にかけて。
「騒がしいと思ったら、随分と盛り上がってるじゃねえの」
狐塚先輩の襲来に部室が静まり返る。
俺は、あの人から目を離すことができなかった。




