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第87話 柚木さんがまたうろたえて

「ひなは柚木さんを置いて、どっかに行っちゃったの?」


 柚木さんを見ずに口を切る。


「どこかに行ったというか、空手部の部長が、強引に連れていった感じでしたけど」


「そうだったんだ」


「わたしたちこそ、すみませんでした。先輩を置いて、勝手に行ったりして」


「いいんだよ。俺はひとりでも平気だから」


 土手の坂に座り込む。柚木さんも俺のとなりに座った。


「先輩はどこにいたんですか?」


「その辺だよ。木戸先生にばったり会ってね。文化祭の勝負の話をしてた」


「木戸先生も花火大会に来てたんですね」


「考えごとをしてたら、人にぶつかっちゃってね。驚いて謝ったら、その人が木戸先生だったんだよ」


「木戸先生にぶつかっちゃったんですかっ? だいじょうぶですか」


 柚木さんが驚いて、俺の顔や身体を見まわす。


「怪我はないから気にしないで。木戸先生も怪我はなかったよ」


「そうだったんですか。よかったです」


「ぶつかったのが木戸先生じゃなかったら、危なかったかもね。酔っ払いの性質たちの悪い人がいるから」


「それは、想像したくないですっ」


 柚木さんが縮こまって唸った。


 会話が不意に途切れる。


 話したいことは、まだたくさんあるはずなのに、心が妙に意識して、口を開かせてくれない。


 花火が打ち上がる夏祭りの土手で、浴衣姿の柚木さんとふたりで花火を見上げている。


 言葉にならないくらいのシチュエーションだ。


 柚木さんとふたりでいることは多いのに、今日はどうしてこんなに意識してしまうんだ。


 心臓が、いつもの倍以上の速さで脈動している。


 こんな事実を知られたら、同じ部室にいられなくなるかもしれない。


 だけど、緊張して余裕のない今の状況がずっと続けと思うのは、なぜだろう。人の心は不思議だ。


「小説は書けましたか」


 柚木さんの細い声が聞こえる。


「三国志の小説の修正は、だいたい終わったよ。今は二作目を検討中」


「もう二作目に取りかかってるんですね。さすがですっ」


「柚木さんは?」


「わたしは、まだ一作目の修正が終わってないです。修正のイメージはついてるんですけど、パソコンの操作が苦手で」


 柚木さんらしい悩みだ。


「先輩は、パソコン使うの得意ですよね」


「そんなことはない。普通だよ」


「でも、文章を書くの速いじゃないですか。部室のパソコンを使うのも、一番上手ですし」


「うちにはノートパソコンがあるから、他の人より慣れてるだけだよ。柚木さんだって、練習すればすぐにうまくなる」


「そうなんですか?」


「そうだよ。文研のパソコンがあるから、練習すればいいんじゃないかな。タイピングが速くなれば、執筆するのも楽しくなるよ」


 柚木さんが言葉を詰まらせる。そっぽを向く感じで、


「パソコンは、いいですっ。わたしは書くより、読む方が好きですから」


 意地を張るように言った。


 会話がまた途切れる。


 沈黙するのは嫌なのに、ゆであがった頭は、いい話題を思いついてくれない。


 打ち上げ花火は終盤だ。盛大な花火が夜空に打ち上がっている。


 大砲のような轟音を、ただただ聞いていると、


「先輩は、部長のことが本当に好きじゃないんですかっ」


 そんな言葉が聞こえたから、俺は思わず振り返ってしまった。


 柚木さんは、花火を見ずにうつむいている。横顔が影で見えづらい。


「どうしたの? 急に」


「すみません。部長に電話してたって、ひなちゃんがさっき言ってたので」


 あいつの無駄なひと言が気になってるのか。


 商店街の道路でごはんを食べていたときは、柚木さんは気にも留めていない様子だったのに、今の柚木さんは全然違う。


 俺の返答を静かに待つ姿から、真剣さが伝わってくる。


「部長のことが好きじゃないというのは、一学期の最初の頃に言ったはずだけど」


「はいっ」


「気持ちは、あれから変わってないよ。部長に電話したのは事実だけど、文化祭の勝負のこととか、文研の活動の連絡くらいしか話してないし」


 いや、枕のこととか、プリンについても、部長から聞かされているような気がするぞ。


 でもそれは、部長が一方的にしゃべった内容だから、俺から興味を持ったわけじゃないんだ。


 柚木さんは、うつむいたまま口を閉ざしている。


 なんて弁明すればいいんだろう。


「部長はいい人だけど、マイペースでつかみどころがない人だからね。部長と副部長の間柄でお腹いっぱいだから、付き合ったらきっとしんどいと思――」


「でも、先輩と部長は仲いいですっ」


 柚木さんが強い言葉で遮る。


 きみは、どうしてそんな余裕のない顔をするんだっ。


「まさかと思うけど、俺が嘘ついてると思ってるの?」


 打ち上げ花火の会場から、観客が土手の石段を上がっていく。大名行列のように、ぞろそろと二列に並んで。


 俺たちも帰ろうか。そう提案しようと思ったけど、無言で固まっている柚木さんの横顔に言葉を投げかけることができない。


 柚木さんが急に動いた。三角座りしている膝を抱えて、うずくまり、


「ごめんなさい、違うんです! 先輩のことを疑ってるわけじゃないんですっ」


 捲くし立てるように早口で言う。


「ゆ、柚木さん?」


「ごめんなさい、忘れてくださいっ」


「忘れろって言われたって――」


「わたしを見ないでくださいっ!」


 それは無茶だよっ。


 花火が終わって、観客もどんどん減ってるんだから、俺は何を見ればいいんだ。


「見ないでって言われても、困ったなあ。花火は終わっちゃったしなあ」


 手持ち無沙汰で頬を掻いてみる。寝不足のせいか、肌が少しがさついている。


 柚木さんはいつも大人しいけど、感情豊かな姿をたまに見せてくれる。


 それが、実は嬉しい。そうとは言えないけど。


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