第86話 柚木さんと綿飴の屋台
ズボンの左のポケットから、ぶるぶると細かい振動が伝わってきた。
「先生、ちょっとすみません」
スマートフォンの側面のボタンを押して、画面を明るくする。
画面の真ん中に、メッセージアプリの緑色のウィンドウが表示されている。メッセージの送り主は柚木さんだ。
ウィンドウに「今、どこにいますか?」と書かれている。
「だれからだい?」
「柚木さんからです。俺を探しているみたいです」
「そっか。じゃあ僕は、この辺で失礼しようかな」
先生に合わせて俺も立ち上がる。
柚木さんに返信しようとしたら、先生にがしっと肩を組まれた。
「いたっ。なにするんですかっ」
「彼女とは、あれからうまくいってるの? ん?」
「彼女じゃありませんって! 離してくださいっ」
先生がにやにやしながら、俺のスマートフォンを覗き込む。
「なんだあ。まだ付き合ってないのかあ。お似合いなのになあ」
「茶化さないでくださいっ。先生だって、どうなんですか。高杉先生とは、うまくいったんですかっ」
苦し紛れに反撃すると、先生が半歩下がって頭を掻いた。
「はは、そうきたか」
「当たり前ですよ。俺だって、先生の気持ちは知ってるんですからね」
「そうだよなあ。うまくいってれば、きみとふたりで遊んでないだろうねえ」
寂しげな先生の姿に罪悪感を覚える。心の中で謝罪しよう。
「高杉先生って、どんな人が好きなんですかね」
「さあなぁ。僕も、がんばって高杉先生と話してるけど、その辺が、さっぱりわかんないんだよなあ」
先生が腕組みして唸る。
「きみは、僕よりも近くで高杉先生を見てるだろう。なんか、いいヒントはないかい?」
「そんなことを言われましても、困りますよ。高杉先生と話すのは、部活のことと、学校のことくらいしかないですから」
「そうだよなあ」
「柚木さんとか、女子の部員だったら、高杉先生とガールズトークなんかをしてると思いますけど、俺からは聞きづらいですよ」
「そうだよな。いや、すまん。失言だった」
土手の石段を上る。夜の八時に近づいているから、花火の打ち上げがそろそろ終わりそうだ。
「それじゃあ、宗形くん。この辺で」
「はいっ」
「デートの相談だったら、いつでも受け付けるよ。彼女の喜ぶ、いい店を紹――」
「そういう話はやめてください!」
「はは、冗談だって」
先生が、「じゃ」と右手を出して挨拶する。何歩か離れたところで、ふと立ち止まって、
「文化祭で、多くの人から人気を集めないといけないんだろう? バトミントン部のやつらに応援に行かせるよ」
「いいんですかっ?」
「きみたちは僕の恩人だ。そのくらいはさせてくれ」
先生の小さくなっていく背中に、俺は頭を下げた。
メッセージアプリで素早く返信して、花火大会の会場へ向かう。
会場は、何百人という観客がひしめき合っている。この中から柚木さんを探すのは、至難の業だ。
メッセージアプリでちまちま連絡を取っていたら、合流するのに時間がかかってしまう。
電話帳で柚木さんのアドレスを表示して、画面下の通話ボタンを押した。
スマートフォンの受話口から呼び出し音が聞こえて、通話はすぐにつながった。
『もしもし』
「もしもし。今、どこにいるの?」
『はいっ。あの、打ち上げ花火の会場の、近くにいますっ』
花火の轟音と人の話し声で、通話が聞き取りづらい。
「他に目印になるものはっ?」
『目印になるものですかっ。あ、近くに、綿飴を売ってるお店がありますっ』
綿飴を売っている屋台は、俺の真後ろにもある。
目印としては弱いけど、混雑している会場の人波に揉まれているのだから、これ以上の情報は引き出せないだろう。
「わかった。すぐに行くっ」
通話を切って石段を駆け下りる。花火の会場は、向こうに見える広場の真ん中だ。
人の間の狭い空間を、身体をひねりながらすり抜ける。
花火会場を囲うように、屋台が店をかまえている。
綿飴の店はすぐに見つかったが、柚木さんの姿は見つからない。この店の前じゃないのか。
会場のまわりを小走りで探す。焼きそばと、たこ焼きの屋台ばかりが目に付く。
二軒目の綿飴の店の前にも、柚木さんはいない。
だんだんと焦りが募ってくる。
これだけの情報で、柚木さんを探すのは難しいか。そう諦めかけたときに、三軒目の綿飴の店が見つかった。
その店の前で所在なげに立ち尽くす、紺色の浴衣を着た彼女の姿があった。
「柚木さんっ」
「先輩っ」
やっと見つかった。ふくれあがっていた焦りが、一気に吹き飛んだ。
「ごめんなさい。勝手に呼び出したりして」
「いいんだよ。それより、ひなは――」
左側から人の気配を感じる。
振り返ると、大学生らしきカップルが困惑しながら、俺たちを眺めていた。
綿飴が買いたいけど、俺たちが邪魔なんだな。
「柚木さん、こっち」
柚木さんの手首をつかむ。走らない程度の速さで花火会場を離れる。
人ごみから避難するためとはいえ、俺は大胆な行動に出てしまった。柚木さんの手首をつかむなんてっ。
顔がまた緊張と恥ずかしさで熱くなる。
花火会場から少し離れた土手で、俺は手を離した。
柚木さんと目を合わせることができない。
「ひなは?」
「ひなちゃんは、空手部の人たちに連れられて、どこかに行っちゃいました」
うちの学校の空手部もここに来てるのか。部長やクラスメイトは、来てないよな。
急いで辺りを見まわす。知り合いらしき人は見当たらない。
「先輩?」
「あ、ごめん。なんでもないよ」
柚木さんは、両手で籠巾着の持ち手をつかんでいる。
少し余裕のない表情がたまらなく可愛い。
普段では見られない浴衣姿に、彼女の背後で打ち上がる優雅な花火。
男心を刺激するいくつもの色気が重なって、彼女の魅力を爆発的に高めている。
この情景は、まずい。
違うところを見ないと心が持っていかれてしまうっ。
――彼女とは、あれからうまくいってるの?
木戸先生の意地悪な言葉が、不意に頭によみがえった。




