第84話 夏祭りと元気な比奈子
八月十八日。小間川の商店街は、人波で大混雑になっている。
交通規制がかけられている片道二車線の道路には、子連れの家族や、学生たちの集団が所狭しと歩いている。
白や紺の浴衣を着ている美女もあちこちにいて、つい見てしまう。
陽の落ちた空の下。色とりどりの横幕や、のぼりで飾り付けられている屋台が軒を連ねている。
たこ焼きに焼きそば、おこのみ焼き。かき氷に綿飴。
ケバブに、トルネードポテトなんていう変り種まで販売されていた。
「にいっ」
比奈子の明るい呼び声が聞こえる。
ピンク色の華やかな浴衣を着た比奈子が、人ごみからにょきっと姿をあらわす。
右手の中指から、水ヨーヨーをぶら下げている。
柚木さんも真っ赤な水ヨーヨーを持っていた。
浴衣は紺色で、白とピンク色の鮮やかな花柄が素敵だ。
「おっ、ヨーヨーとれたのか」
「ううん。僕もことちゃんも取れなかったから、おじさんがサービスしてくれたんだよ。ねえ」
「ねえっ」
比奈子が柚木さんに声をかけると、彼女がにこやかに相槌を打つ。
「いっぱいとってやろうと思ってたのに、釣り上げようとしたら、紐がすぐに切れちゃうんだもんっ」
「ヨーヨーの紐って、すぐに切れちゃうよね。あれじゃあ絶対に取れないよ」
「だよねえ。ま、僕の魅力で、おじさんがサービスしてくれたけどっ」
比奈子が腰に手をついて、ぺたんこな胸を張る。
お前の魅力に屋台のおじさんが屈したんじゃなくて、水ヨーヨーの屋台って、そういうシステムを採用してるんだろ。
そうしないと、お前みたいな下手っぴが文句を言うから。
比奈子が緑色の水ヨーヨーを俺に見せ付ける。
「どうだあ。羨ましいだろぉ」
「羨ましくねえよ。がきじゃあるまいし」
「うそだあ。にいって、お祭りに行くと、いっつもヨーヨーとってくるじゃん。今日はことちゃんがいるから、かっこつけてるのお?」
比奈子の言葉に柚木さんが反応する。意味深な視線に、どきっとする。
「かっこつけてねえよ! っていうか、それは子どもの頃の話だろっ」
「うそお。去年だって、僕に見せ付けてきたじゃん。馬鹿みたいな顔で、ヨーヨーを三つくらいぶら下げてさ」
去年の話を、なんで覚えてるんだよ。
「うるさいっ。お前、それよこせ!」
苦し紛れに比奈子から水ヨーヨーを取り上げようとしたら、比奈子に逃げられてしまった。
「嫌だよお。ほしかったら自分で取りなぁ」
比奈子はあっかんべーをして、人ごみの奥まで走っていった。
比奈子が元気になってくれて、よかった。
「ひなちゃんが来てくれて、よかったです」
柚木さんが感慨深くつぶやく。
「ひなちゃんに嫌われちゃったら、どうしようって思ってましたから」
「そうだったんだ」
「先輩のお陰で、ひなちゃんとまたいっしょにいられます。先輩、ありがとうございますっ」
柚木さんに感謝されるようなことは、何もしていない。
「俺は、あいつに伝えただけだから。感謝されても困るって」
「そんなことないですっ。先輩がひなちゃんを説得してくれなかったら、ひなちゃんはきっと来てくれなかったと思いますし」
「そうかな。俺が言わなくても、あいつは来たと思うけどね」
柚木さんは薄い化粧をしているのか、ピンク色の唇がすごく女子っぽい。
「ひなは、きっと何も言ってないと思うけど、あいつも柚木さんのことをずっと気にしてたんだよ」
「そうなんですか?」
「うん。先週なんか、ずっと静かで、ごはんも喉に通らなかったんだから。あの姿を柚木さんに見せたかったなぁ」
普段は、夕食で白米を掻き込むように食べるのに、先週は箸の先を銜えて、ぼーっとしてたからな。
柚木さんがあたふたして、
「だめですよ! そんなことをしたら、ひなちゃんが怒りますっ」
比奈子を懸命にフォローする。
「そうだね。あいつをからかったりしたら、飛び蹴りくらいじゃ済まされないだろうからね」
「そうですよっ。ひなちゃんは、めちゃくちゃ強いんですから。蹴られたら、腕の骨とかが折れちゃいますよっ!」
そういえば、中学生の頃にあいつと喧嘩して、肋骨にひびを入れられたことがあったっけ。
「ひなも、柚木さんのことを大事にしてるから、そんなに心配しなくてもだいじょうぶだって」
「そうなんでしょうか。わたし、兄弟がいないから、そういうのがよくわからないんです」
「ひとりっ子だと喧嘩する相手がいないから、気まずくなるとつらいかもね」
「そうなんです。仲直りできなかったら、どうしようとか、いっぱい考えちゃって、ずっと困ってました」
「なるほどね。あいつは、俺といつも喧嘩してるから、そういうのは気にしなくても平気だよ。喧嘩しても立ち直るのは早いから」
「そうなんですか」
向こうの焼きそばの屋台から、比奈子の呼び声が聞こえた。
「放っておくと拗ねるから、そろそろ行こうか」
「はいっ」
比奈子と合流して屋台を巡る。昼から何も食べていないから、お腹と背中がくっつきそうだ。
たこ焼きと焼きそばを買って、道路の縁石に三人で並んで腰を下ろす。
「江ノ島でも、たこ焼きと焼きそばを食べましたよねっ」
口をもごもごさせながら、柚木さんがほほえむ。比奈子が柚木さんに振り向いた。
「えっ、そうなのっ?」
「うんっ。ひなちゃんは、部長と遊んでたから、いっしょに食べられなかったけど」
「うげっ、あのときね」
江ノ島の砂浜を想像して、比奈子がうなだれる。
「ひなちゃん、部長にすっごい気に入られてるよねっ」
「気に入られてるんじゃなくて、おもちゃにされてるだけだよ。なんなのあの人、超きもいんだけど」
比奈子が、たこ焼きの入っているフードパックを俺に渡して、がたがたと震えだした。
「部長は可愛い子が大好きだからな。羨ましいぞ、お前」
「全然羨ましくないでしょ! だったら、にいが替わってよっ」
「無茶言うな。俺が部長と抱き合ったりしたら、まずいだろっ」
「そこをなんとかするのが、にいの役目でしょ。ね、ことちゃんっ」
柚木さんは、俺たちの下らないやりとりに呆れてるのかと思いきや、幽霊のお岩さんみたいな白い顔で、
「先輩。部室で、いっつも部長といちゃいちゃしてますけど」
とてつもない爆弾を投下したので、比奈子の怒りに火がついてしまった。
「にいっ!」
「待て待て! いちゃいちゃしてるなんて誤解だっ。俺がそんなことをするはずがないだろうっ」
「積極的なのは部長ですけど、先輩だって、嫌だったらもっと抵抗しますよね、ひなちゃんみたいに」
「そんなあ」
冷や汗でシャツが胸と背中に張り付く。
比奈子が俺からたこ焼きを奪った。俺からわざと離れて、
「ことちゃん。この人、意外と浮気性だから、気をつけた方がいいよ。この前だって、部長に電話してたし」
「そうなんだあ。先輩って、だれに対しても優しいんだね。知らなかった」
俺に聞こえるように、柚木さんとひそひそ話をはじめてしまった。
夏祭りでごはんを食べてるだけなのに、俺の評価がみるみる下がっていく。こんなのありか。




