第83話 比奈子も意外と傷つきやすい
夜になっても、蒸し暑さは変わらない。
自分の部屋でじっとしていても、汗が身体中から吹き出してくる。
テーブルに置いているノートパソコンを放置して、床に寝転ぶ。
小説の修正は予想以上に面倒だ。
キャラクターの個性をいちから見直してるけど、どうやって見直せばいいのかわからない。
主人公の陸遜をとりあえず美形キャラにしてみる。
しかし、小説は漫画と違って絵がないから、見た目の設定を変えても物語に反映されないんだよなあ。
他のキャラクターも個性をつけたいけど、どんな個性をつければいいのだろうか。
朱然を火が好きなチャッカマンにすればいいのだろうか。
「ひと言で個性と言ってもなあ。どうすればいいんだよ」
遠い川名町にいる早乙女さんに毒づいて、ふと部屋の扉を見やる。
比奈子と前に言い合いをしてから、あいつは俺の部屋に来なくなった。
食事をしているときも、ほとんど目を合わせてくれないし。
たまには、俺からあいつの部屋へ行ってみるか。
重い身体を持ち上げて部屋を後にする。
俺が比奈子の部屋へ行くのは、何年ぶりだろうか。
俺が入ろうとすると、やれ変態だの、やれ妹の気持ちがわかってないだのと、あいつが喚き散らすから、かなり入りづらいんだよ。
あいつはノックすらせずに俺の部屋に入ってくるのに。なんか不公平だ。
「ひな。いるんだろ。入るぞ」
おっかなびっくりノックする。比奈子からの応答はない。
ドアノブをゆっくりまわして、扉をそっと開けてみる。
勉強机が目に留まったが、そこに比奈子の姿はない。
忍び足で部屋に入ると、テーブルにうずくまる比奈子の姿があった。
比奈子は寝息を立てていない。石化した女のキャラクターみたいに縮こまっているが、
「なに?」
俺が顔を近づけると、身体の中から返答があった。
「なんだ、起きてたのか」
「疲れてるんだから邪魔しないでよ」
比奈子がむくりと身体を起こした。細めた目でベッドを見つめている。
今日もやっぱり元気がないなあ。
「今日も部活だったんだもんな」
「うるさいなあ。どっかに行ってよ」
「そう言うなって。俺とお前の仲だろ」
比奈子が仇敵を恨むような目で睨んできた。
「はったおすわよ」
「怒るなって。ちょっと話したいだけなんだから、拳を引っ込めろって」
怒れる比奈子を説得するのは命がけだ。こいつと、本当に血がつながってるのかな。
比奈子は阿修羅のような剣幕のまま、振り上げた拳を静かに降ろした。
「言っとくけど、くだらない話だったら速攻でぶん殴るからね」
「わかったって。そこ、座るぞ」
比奈子の正面に腰を下ろす。
「来週の金曜日、暇だろ。柚木さんがお前と遊びに行きたいんだってよ」
比奈子の眉間の皺がすぐになくなった。
「えっ、うそ」
「うそじゃねえよ。今日、柚木さんと部活のことで、ちょっと用があってな。そのときに言われたんだよ。柚木さんがお前のこと、気にしてたぞ」
比奈子は何も言葉を発さない。目に見えて戸惑っているのがわかる。
「前に断っちゃったから、ひなが気を悪くしてるんじゃないかって。だから、電話しとけって言ったろ?」
「うん」
比奈子が肩を落とす。
しょんぼりしている姿は、先生に叱られている生徒みたいだ。
「今日、プロの小説家に小説を見せに行って、こっちの活動は一段落したから、柚木さんも少しは余裕ができたはずだ。今日はきっと疲れてるだろうから、明日にでも電話してやりな」
元気のない比奈子を見続けるのは、つらい。
俺は、テーブルに手をついて立ち上がった。
「話はそれだけだ。じゃあな」
「来週の金曜日って、どこに行くの?」
比奈子のか細い声が後ろから聞こえた。
「巴山で花火大会があるから、見に行きたいんだってさ」
「そうなんだ」
「花火大会だから、浴衣とかを着てみたらいいんじゃないかな。うちにも一着くらいはきっとあるだろうから」
あったとしても、背の低いこいつに合わないかもしれないけど。
「俺も行くことになってるから、待ち合わせ場所とかはお前たちで話し合って決めてくれ。俺はそれに合わせるから」
「うん」
「明日、柚木さんに電話しろよ」
「待ってっ」
ドアノブをにぎったら、比奈子に呼び止められた。
振り返った先の比奈子の表情は真剣だった。
「今日のことちゃん。どんな感じだった?」
「どんな感じ? お前のことでか?」
「違うっ。機嫌がよかったかどうかを聞いてるのっ」
「そういうことか。機嫌は、たぶんよくないと思うぞ」
「えっ、そうなの?」
比奈子の表情にまた翳が差した。
「今日は執筆した小説をプロの小説家に見せに行ったんだが、その人にぼろくそ言われちゃったんだよ」
「ことちゃんが?」
「ああ。俺も言われたんだけどさ。こんな小説じゃ、文化祭の勝負に勝てないってな。それで柚木さんが落ち込んじゃったんだよ」
「それはまずいよ! ことちゃんを慰めなきゃっ」
比奈子が幼稚園児みたいに、俺の手を引っ張った。
「だいじょうぶだよ。フォローはいっぱいしたから。でも、今日は疲れてるだろうから、そっとしておいた方がいいよ」
「うん。そうだよね。僕が今電話したら、迷惑かけるかもだし」
お前はほんと、柚木さんに対して素直なんだな。
「でも、そいつ、うざいよね。ことちゃんにいっぱい文句言うなんて、超むかつく」
「仕方ないだろ。あっちはプロなんだから。アマチュアの俺たちじゃ勝てないって」
「にいは、どっちの味方なのよっ。そんなやつのフォローなんてしなくていいでしょ!」
痛いっ。痛いから力まかせに腕を引っ張るなっ!
「それ、柚木さんにも言われたぞ」
「当たり前でしょ。女心が全然わかってないんだから」
女心っていうのは、男に理解できないようにつくられてるんだよ。
お前と話してると、いつもそう思うぞ。
「そんなことばっかり言ってると、ことちゃんに嫌われるからね」
「はいはい」
「はいは一回でいいのっ」
ぴしゃりと言われてしまった。相変わらず口の減らない妹だ。
「その、ね」
床に座る比奈子の顔が赤くなっていた。
珍しく口どもっている姿がすごく可愛らしい。
「なんだよ。まだなんかあるのか?」
「う、うるさいなっ! にいにしては珍しくいいことするから、褒めてあげようと思っただけよっ」
俺を、褒める?
「用はもう済んだんでしょ。だったら、早くあっちに行ってよっ!」
可愛くないお前も、珍しくいいことを言うんだな。
「予定が決まったら言えよ」
「ふんっ」
ほっこりする気分を抑えて、俺は部屋を後にした。




