第79話 文研が漫研より有利なところとは
「早乙女さん。すみません。入りますよ」
扉をノックして部屋へ入る。
生ごみと酸っぱい臭いを含んだ空気が、もわっと玄関から出てくる。
居間に早乙女さんの姿がない。早乙女さんはどこに行ったんだ?
「怒りは俺にぶつけるんじゃなくて、小説にぶつけようってかあ」
後ろのトイレの扉が開いて、早乙女さんがへらへら笑いながら出てきた。
いや、それより――。
「くさい台詞で彼女を慰めるたぁ、お前さんもなかなかやるねえ」
「さっきの話、聞いてたんですかっ!」
「そりゃまあ。台所にいたら聞こえてきたからよ」
なんということだ。
あんな恥ずかしい台詞を、よりによって、こんな性格の悪そうな人に聞かれてしまうなんて。
「おうおう。目に見えて落胆してるなあ。そんなに恥ずかしかったのかぁ?」
「その話は、もうしないでくださいっ」
「よくわかんねえけど、彼女は元気になったのか?」
「彼女じゃなくて、文研の後輩です。誤解を与えるようなことを言わないでくださいっ」
「あん? 付き合ってるんじゃねえのか。それなのに、随分と熱心に口説くんだな。今どきのがきどもは、変わってるなあ」
早乙女さんが、冷蔵庫から麦茶の入ったペットボトルを取り出す。
ペットボトルのキャップを開けて、そのまま、ぐびぐびと麦茶を飲んだ。
「早乙女さんだって、まだ若いでしょう。智子さんっていうのは、付き合ってる人なんでしょ?」
「あん? 智子は彼女なんかじゃねえよ。俺の同い年の従姉弟だ」
「そうなんですか?」
「そうだよっ。そいつが、お前の顧問の先生と知り合いだったから、こんな暑い日にお前らみたいな、めんどくせえやつらの相手をしねえといけなくなっちまったんだ」
「めんどくさいのに、よく引き受ける気になりましたね」
「仕方ねえだろ。借りた金を返すか引き受けるか、どっちか選べって言われちまったんだから、やるしかねえだろっ」
早乙女さんはお金に困ってるのか。
意外な弱みがわかって、わずかだけど親近感が沸いた。
「お前、俺がさっき女を泣かせたことを、先生に言うなよ。言ったら、ぶっ殺すからな」
「わかってますよ。先生には言いませんって」
早乙女さんの、腕組みしながら虚勢を張っている姿がおかしかった。
「お金に困ってるんですか?」
「そんなの見りゃわかるだろ。金がありゃ、こんな汚えアパートに住まねえよ」
アパートが汚いのは、あなたのせいだと思いますが。
「なんだ、お前、小説家になれば、たんまり稼げると思ってたのか?」
「そんなことは思ってませんけど」
「嘘つけ。俺が売れてないから貧乏なんだろって、お前の顔に書いてあるぜ」
早乙女さんの偏屈が、またはじまった。こういうところは、パソコン部の部長にそっくりだ。
「お前は、小説家になればたんまり稼げると思ってるみてえだが、そんなもんは幻想だぜ。小説家になったって、全然稼げねえよ」
「そうなんですか? たんまりとまではいかなくても、それなりに稼げそうな感じがしますけど」
「それが甘えんだよ。小説家でたんまり稼いでるやつなんて、ほんの一握りだぜ。ベストセラーを出しまくってる大御所だけさ。俺らみたいな下っ端は、自分の作品が出版してもらえるだけでもありがてえ。売れるなんて、遠い夢の話だぜ」
早乙女さんの言葉が、また胸に沁みる。
小説家や漫画家になってもあまり稼げないという話は、インターネットで見たことがある。
それを踏まえると、早乙女さんのアドバイスがより説得力を増してくる。
「早乙女さん。俺の小説は、どうすれば面白くなりますか」
早乙女さんが、布団に寝転びながら俺を見る。まっすぐに、強烈な視線で。
「どうすればと言われても、よくわからん。俺は売れてない小説家だからな。だが、俺ならこうするなっていうのは、さっき言った通りだ」
「陸遜を美形キャラにして、戦いなんかももっと派手にした方がいいと」
「そうだな。朱然とか、他に武将がいるだろう。そいつらもキャラを立てた方がいいな。ゲームじゃ、夷陵の戦いに馬超や黄忠が出てくるから、そいつらも登場させたら、話がもっと盛り上がるんじゃねえか」
「いや、しかし、それでは――」
早乙女さんが、むくりと身体を起こした。
「お前の言いたいことはわかるぜ。馬超も黄忠も、史実じゃ、あの火計に参加してねえからな。でもな、さっきも言ったが、小説なんていうのは読者を楽しませれば勝ちなんだよ。だから三国志演義だって、事実をあんなに歪曲させてるんだろ」
三国志演義は、三国志の歴史から考案されたつくり話だ。
三国志演義には、史実と異なる創作がたくさん盛り込まれている。
そうなった理由はただひとつ。読者を楽しませるためだ。
「俺だったら、こう書くなって思ったことを言ってるだけだ。俺の意見が絶対に正しいわけじゃない。だから、俺の意見を聞くかどうかは、お前ら次第だ。俺の意見だって、大して当てにならねえからな」
「いえ、そんなことはないです。充分な検討材料がいただけました。帰って書き直したいと思います」
「そうかい」
早乙女さんが寝転んで背中を向けた。
「あの、もうひとつ聞いてもいいですか」
「あんだよ。まだあんのか?」
「はい。あの、うちの部で小説を書いている人が少ないので、小説を書く人を厳選した方がいいという意見が出たのですが、早乙女さんはこの意見をどう思いますか?」
「厳選って、なんだそりゃ。コーヒー豆でもつくるのか?」
「要するに、執筆のうまい人だけで小説を書いて、漫研に対抗しようとしてるんです」
「ほう。つまりお前らは、部のエリートだったっつうわけか」
早乙女さんが「どっこらせ」と言って、身体を起こした。
「そいつはまずいな。お前らの部員全員で、今すぐに小説を書け」
「やっぱり、そう思いますか」
「当たり前だろっ。向こうはプロの漫画家がいるっつうのに、こっちは数で勝負しないで、何で勝負すんだよ。お前ら、本当に小説を書いてねえんだな」
「すみません」
早乙女さんが、右手で頭をぽりぽりと掻く。
この頭を掻く仕草は、頭の中の考えをまとめているときに出る癖なのかな。
「小説の技術的な話は無視するぞ。小説と漫画の媒体だけで考えるなら、小説は漫画よりもはるかに書きやすい。小説はパソコンに文章を書くだけなのに対し、漫画は絵やコマ割りまで考えないといけないからだ。
最近はパソコンで漫画を書くやつも増えているみたいだが、それでも漫画の作業量が、小説のそれより圧倒的に多いことに変わりはない」
早乙女さんは小説と漫画の作業量に着目しているのか。その発想はなかった。
「漫画を一話描き切るのと、小説を一話書くのでは、作業量が全然違う。漫研のやつらが、いかに漫画を描いていようと、来月までに仕上げるのは苦難だろうよ。だが小説の短編を書くのなら、作業量はさほど多くない。お前らが有利な点はここにある」
早乙女さんが、テーブルに置いていた麦茶のペットボトルをつかんだ。
「これは、小説と漫画という媒体の違いから発生する問題だから、簡単には越えられない壁だ。たとえ向こうに、プロがいようとな」
「では、文研の全員で執筆した方がいいんですね」
「それは間違いない。お前やさっきの女だったら、来月の期限までに、あと二つくらいは小説を書けるだろ。今後の勉強だと思って、たくさん小説を書くんだな」
「はい。わかりました」
文研の全員で、なるべく多くの小説を書く。早乙女さんの強い言葉に、目から鱗が落ちた。
「話はそれだけか?」
「はい。あ、これからも相談したいことが出てくると思うので、電話番号を聞いてもいいですか」
「お前、俺に電話する気かよ。こんなうぜえ相談に乗るわけねえだろっ」
「だめですか」
「だめだね。用が済んだんなら、さっさと消えな」
早乙女さんが布団に寝転んで、左手で追い払う仕草をする。
これからもいろんなことを教えてもらいたかったのに、残念だ。
「わかりました。では、俺はこれで失礼します」
「おう。大事な彼女によろしくな」
「だから、彼女じゃありませんって!」
俺が声を張り上げても、早乙女さんは追い払う仕草をつづけるだけだった。
俺は玄関で深々と頭を下げた。




