第78話 反発する柚木さん
「さっきから、わかりやすくって、そればっかり言ってますけど、わかりやすくするのがそんなに大事なんですかっ」
静まり返るぼろアパートの居間に、柚木さんの声が響いた。
「少しくらい、わかりづらくたって、いいじゃないですか。わたしたちは、自分の好きな小説を書きたいんです。それなのに、あなたはどうして読者に媚を売るようなことばかり勧めるんですか。そんなの、おかしいじゃないですかっ」
柚木さんは心の底から早乙女さんに怒っている。
唇をふるわせながらも、冷静さを失わないように気を張っていた。
「自分の好きな小説を書く、か。いい意見だ。あんたの考えは嫌いじゃねえよ」
早乙女さんが、ささやくように言う。
「自分の書きたいものを書くのは重要だ。自分のこのみや趣味が、作品の個性につながるからな。俺はこんな作品が書きたいんだ、っていう思いを持っていた方がいい。けどな、そういう一端のことを言うのは、プロの世界で通用するようになってからなんだよっ」
早乙女さんが右手を強くにぎりしめる。
「いいか。小説ってえのは、読者がついて初めて意義が生まれるんだ。あんたの書いたその小説が、いかにすばらしくても、文章表現に涙が出るほど卓越していても、だれかに読まれなきゃ、まったく意味がねえ。それなら、読者に媚を売ってる、つまんねえ小説を書いた方がましだ」
柚木さんが、目を赤くして早乙女さんを睨みつける。
「お前らみたいな下手っぴが、個性だとか自分のこのみだとかを言ったってな、お前らの学校の連中には一ミリも気持ちが伝わんねえんだよ。
だからな、個性だとか生意気なことを言わねえで、今は読者に媚を売る、つまんねえ作品を書けばいいんだよ。書いている小説が、どんなにもつまんねえ作品でも、書いていれば腕が上達するんだからよ」
早乙女さんの言葉は、とても厳しいけど一貫性があると思った。
この人は、柚木さんの意見を決して否定していない。
むしろ、今後のためにとっておけと言ってくれてるんだ。
俺や柚木さんがやっていることは、言わば背伸びだ。
小説を碌に書いたこともないのに、あえて難しいものを書こうと息巻いている。
早乙女さんは、そんな無理をしないで、自分たちの身の丈に合った小説を書けと言っているんだ。
柚木さんの瞳が涙で溢れる。肩をふるわせて、両手で顔を覆ってしまった!
「柚木さん!」
柚木さんが泣くなんて、どうしようっ。
慌てて駆け寄るけど、どうやって慰めたらいいのかわからない。
どさくさに紛れて肩なんか触ったら、まずいよなっ。
「わりっ。ちょっと言いすぎた」
後ろで、早乙女さんが申し訳なさそうに頬を掻いている。
「女を泣かせちまったら、また智子に怒られんな」
また智子さんっていう名前が出た。
いや、そんなことより柚木さんを慰めなければっ。
「とりあえず、外に出よう。ここは空気が悪いから」
しくしくと泣く柚木さんの肩を支えて、アパートの外へ出る。
アパートの日陰に柚木さんを座らせて、そのとなりに俺もしゃがみ込む。
今日は女性の小説家と麗しい交流を重ねるつもりだったのに、真逆の結果となってしまった。
早乙女さんの主張は正しいと思う。
けれど、柚木さんが再起不能になってしまったら、小説を書く人が俺だけになってしまう。
この孤軍奮闘的な状況はどうにかならないのかな。
いい加減に限界を感じますよ、部長。先生っ。
「すみません。また、足を引っ張っちゃいました」
柚木さんが右手で涙を拭きながら言った。
「無理しないで。何か飲む?」
「いいえ。だいじょうぶですっ」
その涙声を聞いていると、だいじょうぶそうに見えないけど。
「悔しいですっ。あんなにたくさん言われて。先輩だって、一生懸命に小説を書いたのに、ひどいじゃないですかっ」
「いや、ひどくはないよ。早乙女さんはプロの視点で、冷静に評価してく――」
「先輩は悔しくないんですか!」
柚木さんが、ふるえる声で叫んだ。
「わたしは、悔しいですっ。あんなにめちゃくちゃ文句を言われてっ。こんなの、絶対に受け入れられないですっ!」
柚木さんは両手をにぎりしめて、俺に殴りかかりそうな勢いだっ。
「柚木さん。落ち着いて」
「落ち着いていられませんっ! わたしたちの小説をあんなに馬鹿にされて、許せないですっ」
静かな柚木さんが、こんなに負けず嫌いだったなんて、知らなかった。
早乙女さんに叱られて、心が折れてしまうと思っていたのに。
でも、これなら、だいじょうぶだ。
「先輩は、どうして笑ってるんですかっ」
「いや、柚木さんは強い子だなと思って」
「全然強くないですよっ」
柚木さんが、駄々をこねる子どもみたいに叫ぶ。
「早乙女さんは、俺たちを馬鹿になんてしてないよ。俺たちの技量や考えを見抜いて、的確なアドバイスをしてくれたんだ。言い方は、ちょっときつかったけどね」
俺は拳をにぎりしめた。
「俺だって悔しいさ。早乙女さんに好きなだけ言われて、かちんときたさ。でも、早乙女さんの意見は最もだ。俺たちは小説なんて書いたことがないんだから、無理しないでもっと気楽に書いた方がよかったんだ」
真夏の青い空に、積乱雲のような大きい雲がたくさん浮いている。
空の彼方まで広がる無限の空間には、どれくらいの可能性が広がっているのだろう。
柚木さんが赤く腫れた目で俺を見つめている。
「今のこの悔しい気持ちを小説にぶつけよう。早乙女さんじゃなくて、小説にぶつけて、文化祭の勝負に勝つんだ。そうすれば、俺たちが正しいことを少しは証明できるんじゃないかな」
しゃべっているうちに、言葉がくさくなってしまった。
愚かな言葉を吐いて、柚木さんを見ることができない。
「わかりましたっ」
柚木さんの弾んだ声が、左の頬から聞こえた。
「先輩がそこまで言うんでしたら、わたしもそうします。すんごく悔しいですけど」
「そっか。よかったよ」
「それで、まだあの人に話を聞くんですか。わたし、あの部屋に入りたくないんですけど」
俺だって、あんな臭い部屋に入りたくない。
だけど、早乙女さんにまだ聞かなくてはならないことがあるんだ。
「もうちょっとで終わるから、我慢してくれないかな。そうしたら、コンビニでアイスでも奢るから」
「わたしは子どもじゃないですっ」
食べ物で釣る作戦は効かないか。比奈子や部長だったら効くんだけどな。
柚木さんがすっくと立ち上がった。
「わたしは、駅前のコンビニで時間をつぶしてますから、終わったら電話してください」
「わかったよ。すまないね」
柚木さんはアパートを離れると振り向いて、不安げに頭を下げた。




