第76話 さおとめらん
岩袋駅の改札を抜けて、各駅停車の電車で二分ほど。
川名町の駅前は、岩袋のとなりとは思えないほどに閑散としている。
巨大な商業ビルも有名なデパートもない。あるのは一軒のコンビニと、小さな薬局くらいだ。
ホームや改札の傍に人の姿もない。
駅員はいるみたいだけど、駅の佇まいは田舎の無人駅と大差がない。
「本当にここでいいんだよね」
「はい。おそらく」
柚木さんも、駅の静けさに呆気にとられている。
「ここって、住所は東京だよね。衣沢や小間の駅より人が少なくない?」
「そうですね。どうしてなんでしょう」
スマートフォンのメモ帳のアプリを開いて、先生から教えられたメモを確認する。
早乙女さんの住まいは、川名町の駅から道をまっすぐ歩いた先にあるらしい。
三つ目の信号のある交差点の近くに古本屋があって、その本屋の裏手のアパートで生活しているようだ。
柚木さんが、となりからスマートフォンの画面を覗き込む。
「場所はわかりますか?」
「先生に教えてもらったから、なんとかわかるよ。この道をまっすぐ進むみたいだね」
言いながら、中央線のない道路を指す。
人気のない道を、柚木さんが不安げに見つめる。
「ここに本当にプロの方がいるんですかね」
「先生から教えてもらったんだから、間違いないよ。さあ、行こう」
静かな道を歩きながら不安が募ってくる。
先生は、悪い人にだまされたんじゃないか?
プロの小説家の知り合いがいるというのは、真っ赤な嘘で、教えられた住所には何もない。そんな結末なのか。
売れっ子の小説家は、都心の一等地に居をかまえて、豪華なマンションで生活しているんじゃないか?
三LDKの広いマンションで、犬なんか飼っていたりして、夕食にはワインを欠かさずに用意している。
マンションの和室は書斎兼仕事場になっていて、部屋の四隅には、天井につきそうなくらいに高い本棚が置かれているのだ。
本棚には当然だけど、新旧あまたの小説がぎっしりと詰め込まれている。
そんな麗しくてストイックな生活を送っているのが、プロの小説家なんだ。
「人が全然いないですね」
「そうだね」
駅前なのに、道の近くに建っている民家はぼろくて、住人の気配を感じない。
その背後には、築年数が二十年くらい経っているであろうアパートが、静かに佇んでいる。
歩行者のいない道を五分くらい歩いて、三つ目の信号が見えてきた。
交差点の左に、古本屋らしきお店の姿がある。お店は閉まっているみたいだけど。
「ここが目印の本屋だね。この本屋の裏側にアパートがあるみたいだけど」
「行ってみましょう」
歩行者専用の信号が青に切り替わる。
本屋の裏に伸びる細い道に入ると、それらしきアパートがすぐに見つかった。
「このアパートが、先生から教えてもらった場所なんですか」
「メモの通りに探すと、そうなるね」
俺と柚木さんの前に建つアパートは、老朽化が著しい。
白い壁に砂埃の汚れが付着している。
二階建てで、一階に扉が三つ取りつけられている。アパートの前には、黒の軽自動車が停められていた。
肌着のおじいさんが独りで住んでいそうなこの場所に、プロの小説家が暮らしているなんて、絶対に嘘だっ。
「先輩、行ってみるんですかっ」
「行くしかないよ。ここまで来たんだからっ」
こんなぼろアパートの扉をノックしたら、とてつもなく怪しいアルコール中毒の中年男性に襲われるかもしれない。
早乙女さんが住んでいるのは一○一号室だ。
固唾を呑んで扉へ近づき、手が震えるのを我慢しながら扉をノックする。
扉の前でどきどきしながら、相手が出るのを待つ。扉の向こうから物音がしない。
「先輩っ」
「おかしいな。留守なのかな」
気を引き締めて、もう一度ノックする。
さっきよりも強めに扉を叩いてみるけど、反応はなかった。
「すみませんっ。早乙女さん! いませんかっ」
「わたしたち、早乙女さんに会いに来たんですっ」
柚木さんもいっしょになって叫ぶと、アパートのドアノブががちゃりと動いた。
軽そうな扉が重々しく開かれる。
「んだよ。ぎゃあぎゃあ、うるせえなあ」
あらわれたのは、無精髭を生やした男性だった。
白の肌着にズボンは灰色のスウェットで、眠たそうに目を右手の指でこすっている。
前髪は目を隠すほど長い。昨日は頭を洗わなかったのか、髪に脂がべっとりついている。
肌着やスウェットのズボンには、髪の毛がたくさんついている。
扉の向こうから、もわっと酸っぱい臭いが漂っていた。
柚木さんと思わず目を見合わせる。
この人が早乙女さん? てっきり女の人だと思っていたのに。
いや、待てよ。
この人は早乙女さんと同居しているだけで、早乙女さんはこのアパートでルームシェアをしているのでは――。
「おい、お前」
無精髭の人が、じろりと睨んでいた。
「お前らが、あれか。俺に用があるという、がき共か?」
この人が、やっぱり早乙女さんなんだ。俺の頭が混乱して思考を停止させる。
早乙女さんが柚木さんに目を向ける。柚木さんが半歩下がった。
「智子から聞いたのは、男がひとりで来るっていう話だったぞ。なんで女子がいんだよ」
智子? だれだ、その人。
疑問に思う前に、俺と柚木さんのことを紹介しなければっ。
「あ、あのっ、挨拶が遅れてすみません。俺は、小間市の富岡高校から来ました、宗形と言います。そして、この子は文研の後輩の柚木さんです」
柚木さんが、おそるおそる頭を下げる。
「今日は高杉先生のご紹介で、早乙女先生にお伺いさせていただきました。小説の話をぜひお聞かせくださいっ」
俺も姿勢を正して頭を下げた。腰の角度が九十度になるくらいまで深々と。
よくわからないことだらけだけど、この無精髭の人がプロの小説家の早乙女蘭さんなんだ。
下げている頭の向こうで、舌打ちする声が聞こえた。
「めんどくせえけど、中に入んな。小説を見てやるっていう約束だからな」
早乙女さんが頭を掻きながら部屋の奥へ消えていく。
俺は柚木さんともう一度目を見合わせて、中へ入る決意を固めた。




