第74話 柚木さんを誘うが乗り気じゃない?
何気なく空を眺めると、陽が落ちかけていた。
スマートフォンの電話帳から、柚木さんのアドレスを探す。
柚木さんに電話するのは、これが初めてだ。
スマートフォンの呼び出し音を聞くと、胸が少しどきどきする。
呼び出し音がしばらく聞こえて、
『もしもし』
柚木さんの聞き慣れた声が、受話口から聞こえてきた。
「もしもし。急に電話しちゃって、ごめんね」
『あ、いえ、そんな。わたしは全然かまわないです』
「さっき、先生から電話があってね。ちょっと話したいことがあったんだけど、小説の執筆は進んでる?」
『はい。短い内容なので、大したものは書けてませんけど。先輩はどうですか?』
「俺は、やっと書きはじめたところだね。明日には形だけでも仕上がるかな」
実際に書き終わるのは、早くて明後日だろうな。
『そうですかっ。さすが先輩ですっ』
「いやあ、それほどでもないよ」
胸にぐさりと数本の火矢が突き刺さる。矢を放ったのは、パソコンのメモ帳にいる陸遜だ。
『先輩は、三国志のお話を書いてるんですよね』
「そうだよ。陸遜が主人公で、夷陵の戦いが舞台だよ」
『りくそん、ですか?』
「そうっ。陸遜は呉の武将でね。夷陵の戦いで七十万という劉備軍を撃退した、すごい人なんだ! ゲームなんかでも人気で、周瑜とセットで美化されてるんだけど――」
しゃべりながら、はっと気づいた。こんな話をしたくて、柚木さんに電話したんじゃない。
「ごめん。話が逸れちゃったね。さっき、先生から電話があって、俺の書いている小説を、プロの小説家に読んでもらうことになったんだ」
『えっ、プロの小説家にですか?』
柚木さんの声が、ワントーン跳ね上がる。
「先生の知り合いに、プロの小説家がいるらしくてね。ラノベを書いている人なんだけど。先生の口利きで、その人を紹介してもらえるから、お盆休みに、その人に会いに行くんだよ」
『すごいですね。プロの小説家に小説を読んでもらえるなんて。先輩は、やっぱりすごいですっ』
すごいのは俺じゃなくて、先生や早乙女さんっていう女の人なんだけどね。
「ありがとう。それで、もしよかったら、柚木さんもいっしょにどうかな」
『わたしも、ですか?』
「うん。またとない機会だし、柚木さんも小説を書いてるでしょ。相手は、早乙女さんっていう人なんだけど、いっしょに訪問できたらなあって、思ってるんだよ」
『わたしは、プロの方に見せられるようなものは書けてないんですけど』
柚木さんは乗り気ではない? この話をしたら、放しで喜んでくれると思ったんだけど。
「それは俺も同じだよ。プロに読ませられるものなんて、書けてないから」
『先輩は小説を書くのが上手ですから、問題ないですよ。わたしは、全然そんな感じじゃないですし』
柚木さんは、自分の小説に自信がないのか。
「そうか。なら仕方がないけど。でも、できれば柚木さんにも来てほしいなぁ」
柚木さんが嫌がってるんだったら、無理強いさせるわけにはいかない。
話をつなげることができなくて、会話が途切れる。
要件を伝えたから、通話を切ろうと思っていると、
『その、先輩が、どうしてもと言われるのなら、行ってもいいですけど』
柚木さんの弱々しい声が返ってきた。
「頼むよ。本音を言うと、俺ひとりでプロに会いに行くのは不安なんだ」
『そうですよね。わたしも緊張しますし』
「だから、柚木さんに来てもらえると心強いんだよ」
『そうなんですか?』
「うん。だから、頼むよ。そこをなんとか」
心の中で両手を合わせる。
また、しばらくの沈黙が流れて、
『わかりました。それなら、わたしもごいっしょしますっ』
柚木さんの明るい声が返ってきた。
「ありがとう。すごく助かるよ」
『いえ、そんな。わたしもプロの方にお会いしてみたいですから。電話してくださいまして、ありがとうございます』
「いや、そんな」
柚木さんに感謝されると、顔が少し熱くなってしまう。
「日にちはまだ決まってないから、後で連絡するよ」
『はい。お願いします』
柚木さんと執筆のことを少し会話して、通話を切った。
* * *
お盆休みを迎えた衣沢駅。陽の光がアスファルトを燦々と照り付けている。
駅の商店街を歩く人たちは、半袖のTシャツの袖をまくっている。
二十歳くらいの若い女性たちの、日に焼けた背中に目を奪われそうになる。
外国人の観光客は、レンズの大きなサングラスをかけている。
チェック柄のショッピングカートを杖の替わりにしているおばあさんは、首にかけているタオルで顔をごしごしと拭いていた。
駅の改札の傍に立っているだけで、朦朧としてくる。
ジュースを買って水分を補給しようか。そう思って、足を動かそうとしたときに、
「先輩っ」
柚木さんが、商店街から駆け足で来てくれた。
柚木さんの服装は、水色の涼しそうなシャツに、白のミニスカートを穿いている。
シャツの袖の丈は、二の腕が見える程度の長さで、夏っぽさを感じさせるシャツだ。
スカートは、裾の口が広いフレア・スカートっぽいものだ。腰で蝶々結びにされたリボンが可愛らしい。
「ごめんなさい。遅くなっちゃいました。先輩は早く来てたんですか」
「いや、さっき着いたばっかりだよ」
待ち合わせの時間よりも十分早く着いていたことを、喉の奥深くへ閉じ込める。
「小説は印刷してきた?」
「はい。昨夜にプリンターで印刷しましたっ」
柚木さんが微笑んで、肩掛け鞄から二つ折りにされた印刷用紙を見せてくれる。
「それなら準備万端だね」
「はいっ。あの、先輩。お昼ごはんを食べてから、プロの小説家のうちへ向かいますよね。お昼ごはんを食べているときでいいので、先輩の小説を読ませてもらえませんか?」
自分の書いた小説を見せるのは、かなり恥ずかしい。ましてや相手が柚木さんだ。
「だめですかっ」
「いや、だいじょうぶだよ。プロに見せる前に柚木さんに読んでほしいし。俺も柚木さんの書いた小説を読んでもいいよね」
「はい。恥ずかしいですけど」
柚木さんの首を引っ込めそうな姿が可愛らしい。
「じゃあ、とりあえず電車に乗ろう。お昼は向こうで探そう」
「はいっ」
ズボンのポケットから定期券を取り出す。
自動改札機にかざすと、改札の扉が後ろへ開いた。




