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第72話 夏休みと不機嫌な比奈子

 お盆を数日後に控えた夏休み。


 青空に浮かぶ太陽はアスファルトを焦がし、放射熱で空気をさらに熱くしている。


 自宅の勉強机の椅子に座り、頭の後ろで手を組む。


 部屋の冷房は、お昼過ぎからがんがんにかけている。


 カーテンを開けた窓の外から、アブラゼミかミンミンゼミかわからないせみの鳴き声が聞こえてくる。


 蝉と真夏の暑さをテーマにした論文を書けば、学校でそこそこ注目を集めることができるだろうか。


「そんな下らないことを考えてる場合じゃないだろ」


 身体を起こして背中を伸ばす。口に銜えているアイスクリームの木の棒をごみ箱へ捨てた。


 三国志のだれの話を書こうか。


 三国志に登場する武将の人数は、二百名を超える。その大半はモブキャラだけど。


 しかし主人公にした武将によって、執筆する内容がかなり変わるから、人選は最重要項目だ。


 武将にスポットを当てるのではなくて、赤壁の戦いやしょくの北伐みたいに、有名な戦いやシーンを書くのも妙案だ。


 この場合は、武将ひとりひとりを深く掘り下げることができないけど、こっちの方が好きだという人も多い。


 机に肘をついて頭を抱える。


 三国志のわかりやすい主人公は、趙雲と諸葛亮だ。


 趙雲はゲームで主人公の扱いを受けているし、諸葛亮は三国志演義の主人公だ。


 三国志のコアなファンを狙うのだとしたら、曹操を選ぶべきか。いや、この発想はもう古い。


「趙雲や曹操を主人公にするのは、ありきたりだ。違う武将を主人公にしないとだめだ」


 三国志で未だに評価が低い武将は、呉の武将だ。


 周瑜しゅうゆ陸遜りくそんなんかは、美形キャラで描かれたりしている。


 だけど、や蜀の武将たちと比べると、呉の武将たちは全体的に冷遇されている。


 呉の武将ではないけれど、袁紹えんしょう袁術えんじゅつなんかも日本では評価が低いかな。


 しかし、袁紹や袁術を題材に扱うのはマニアックすぎる。


 来月の文化祭で人気を出さないといけないのだから、ニッチな路線を突き進むのは危険だよな。


「にい、入るよ」


 声がしたのと同時に、比奈子が部屋へ入ってきた。


 比奈子は、部屋着の白いキャミソールにショートパンツを穿いている。


 胸もとにレースの飾りがついた、お気に入りの服だ。髪は後ろでひとつに括っている。


 額から汗を流しながら、だらしない顔で団扇をぱたぱたと扇いでいる。


「あっちい。なんで、今日もこんなにあっついの?」


 比奈子が団扇を扇ぎながら、俺のベッドに腰を下ろした。


「夏なんだから、暑くて当たり前だろ」


「自分の部屋で、冷房をがんがんかけてる人に言われたくないんだけど」


「今日は部活じゃなかったのか?」


「今日は休みだよ。部長が熱中症になっちゃったんだって」


「マジかよ。それ、やばいんじゃないのか?」


「だいじょうぶでしょ。うちの部長、水分を絶って精神を鍛えるとか、意味わかんないことをしてたから、罰が当たったのよ」


 この酷暑で、そんなことをしていたのか。心配して損したぞ。


「にいは珍しく冷房なんかかけてるけど、宿題でもやってんの?」


「いや、小説の執筆だよ。そろそろ書きはじめないと、文化祭に間に合わなくなるからな」


「ああ、漫研と勝負するっていうやつ? そんなの、頭が痛いとか言ってさぼればいいのに。にいは真面目だねえ」


 勝負がかかっていなければ、俺もさぼるんだけどな。


「なんか、ことちゃんも、やたら張り切ってるんだよね。久々に休みだったから、どこかに遊びに行きたかったのに」


「そうなのか?」


「そうなのか、じゃないわよ。にいが変なことを吹き込んだんでしょ。ことちゃんにっ」


 比奈子が身体を起こして俺を睨む。


「なんだよそれ。なんで、俺のせいになるんだ」


「だって、それしか考えられないもん。俺のために小説を書いてくれ、とか、ことちゃんにあることないことを言ったんでしょ」


 合宿の最後の夜に、いっしょにがんばろう的なことは言ったような気がするけど。


「人聞きの悪いことを言うなよ。それじゃあ俺が、だま――」


「さっき、ちょっと間があった」


「はあ? なんだよそれ」


「とぼけるんじゃないわよ。さっき、ことちゃんに吹き込んだことでも考えてたんでしょ。僕は、すべてお見通しだかんねっ」


 比奈子がさらに目を細めて、俺に顔を近づけてきた。


 俺が比奈子を押し出すと、比奈子が俺の手をつかんできた。空手部の部長を倒すほどの力で。


「いてて! やめろっ」


「僕に白状しないと、手首がぽきっといっちゃうよ」


「やめろっ。柚木さんが遊んでくれないからって、俺に八つ当たりするな!」


 死に物狂いで叫んだら、比奈子が手を離した。


 この馬鹿力め。数秒間つかまれただけなのに、手首がひりひりするぞ。


「俺を病院送りにしたら、それこそ柚木さんに怨まれるぞ。それでもいいのか?」


「ふん。わかってるわよ。だから、手加減してやったんでしょ」


 あの馬鹿力で手加減してたのかよ。


 アニメの女の子みたいな細腕なのに、お前は恐竜でも倒したいのか?


 比奈子は扉の近くで立ち止まっている。


 白い素肌が見える背中は寂しげで、どことなく元気がない。


「お前、暇なのか? コンビニでアイスでも買いに行くか?」


「暇じゃないっ。そんなに小説を書きたいんだったら、ことちゃんでも誘って、部室にでも行ってくればっ?」


 比奈子は扉を乱暴に開けて、部屋から出ていってしまった。


 手首の痛みをひしひしと感じながら、机に置かれているスマートフォンを手に取る。


 ブラウザを立ち上げて、検索サイトに「呉 武将」と打ち込む。


 検索結果を適当にクリックすると、小さくデフォルメされた呉の武将たちがWebサイトに出てきた。


 三国志で少し変化球を狙うのなら、呉の武将を選択すべきだ。


 周瑜や陸遜なら知名度が高いから、三国志をそれほど知らない読者でも読みやすいだろう。


 周瑜が主人公なら、赤壁の戦いが舞台になるな。


 陸遜が主人公だったら、夷陵の戦いがやっぱり楽しいだろうな。


 立ち上がって、窓の向こうを眺める。


 熱線のような直射日光が、マンションの白い壁を焦がしている。


 蝉の鳴き声は相変わらずうるさくて、今日も止む気配がない。


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