第70話 どんな小説を書けばいいのか
鶴岡八幡宮へ行った後は、侍になる体験をして、奇妙なようで心地よい時間を過ごした。
鎌倉の武士の格好に着替えて、写真を撮ったり、庭園を散歩したりした。
女の子のお侍さんって想像以上にいい設定だ。
比奈子はともかく、柚木さんの可憐な姿を想像すると、胸が甘い気持ちでどきどきしてしまう。
「だめだ。せっかく合宿で鎌倉まで来たんだから、貴重な時間をだらだら過ごしたら、勿体ないじゃないか」
浴衣に着替えて心機一転。夜の旅館のロビーで、ノートと再び対峙する。
「しかし、どんな小説を書けばいいんだ?」
この小説の読者の大半は、うちの学校の生徒たちだ。彼らが満足するものを書けばいいんだ。
腕組みして、ふかふかしている椅子の背もたれに背中を預ける。
木目の天井は、ところどころが傷んだり黒ずんだりしている。
うちの学校の生徒たちは、どんな小説が好きなのだろうか。
文学っぽいものより、ライトノベルの方がこのまれるんだろうな。
それ以前に、彼らは小説を読まないんだろうけど。
口から大きなため息が漏れる。
よくよく考えると、文研は圧倒的に不利なんだ。
狐塚先輩の存在以前に、漫画を読ませる方が簡単なんじゃないか。
狐塚先輩は、そんなことまで考えて、今回の勝負を持ち出してきたのか? そうだとしたら、あの人は卑怯だ。
「なめやがってっ」
ロビーのガラスのテーブルを叩いた。
こんなに馬鹿にされて、黙っていられるか。
何が勝負だ。何がプロだ。
あんな、スカートを穿いた男みたいな人に屈してたまるか。
「先輩っ」
柚木さんの聞き慣れた声が聞こえる。顔を上げると、二歩くらい離れた位置に彼女が立っていた。
柚木さんは浴衣姿に、炎のように赤い上着を羽織っている。
「今日も一階のロビーで執筆されてるんだと思ってました」
「よくわかったね。執筆は全然進んでないけどね」
「昨日もひとりで執筆されていましたから。となり、お邪魔してもいいですか?」
「いいよ。そこに座りなよ」
柚木さんは、大学ノートと筆記用具を抱えている。
俺のとなりの椅子に腰かけて、ノートをテーブルへ広げた。
「先輩がひとりで抱え込んでいるのを見て、わたしもがんばらなきゃって思いました。だから、わたしも執筆します!」
柚木さんが両手でガッツポーズをしてくれる。
「わたしは小説を読んでばかりで、執筆なんて一度もしたことがありませんから、足を引っ張ってしまうかもしれないですけど、精一杯がんばります。ですから、先輩はひとりで抱え込まないでくださいねっ」
その健気な思いに、俺の胸が熱くなる。
「ありがとう。そう言ってもらえると助かるよ」
「本当ですかっ?」
「本当だよ。いっしょにがんばってくれる人がいると、気持ちがだいぶ楽になるから」
「そうですよねっ。わたしもそうだと思うんです。ですから、いっしょにがんばりましょう!」
きみの迷いのない顔を見ていると、すごく安心できるよ。
「がんばるのはいいんですけど、どんな小説を書けばいいんでしょう」
「そこなんだよ。俺も何を書けばいいのかわからないから、昨日から執筆が進まないんだ」
「書きたいものがないんですから、小説なんて書けないですよね」
柚木さんの言う通りだ。気持ちだけで小説は書けない。
「来月の文化祭で発表する小説を書くんだから、俺たちの書く小説の読者は、うちの学校の生徒ばっかりだよね」
「はい。そうだと思います」
「ということは、文学っぽいものより、ライトノベルに近い小説の方がいいと思うんだ。読みやすい方が、お客さんを呼び込めるからね」
「あ、そうですよね。読みやすさについては、考えていなかったです」
柚木さんが驚いた顔で言う。
「ライトノベルだと、どんなものがいいんだろう。魔法学校的なものか。ゲームを舞台にする小説がいいのか。純ファンタジーみたいなものは、最近ではあまり見かけないし」
「ライトノベルって、レーベルによってジャンルが異なりますし、男性の読者と女性の読者でもこのみが分かれますから、難しいですよね。そういう意味ですと、純文学やミステリー小説は方向性を決めやすいですよね」
「そうだね。小説に慣れ親しんでいる人が対象だったら、小細工はいらなくて、純文学やミステリーで勝負すればいいんだよね。書くのは相当難しいんだろうけど」
「そうですよね。純文学なんて、わたしじゃ絶対に書けないですっ! ましてや、プロの方や読み専の方を対象にするなんて、怖くて腕が震えますっ」
柚木さんの意見に激しく同意する。
「そう思うと、俺たちが執筆する小説は、内容のうまさよりも、ジャンルを考える方が大切ということになるね」
「はい。でも、どんな小説を書けばいいんでしょうか」
「そうだね。うちや柚木さんのクラスメイトが喜びそうなものを書けばいいんだけど、それを考えるのが難しいんだよなぁ」
柚木さんが書くのは、きっと少女系のライトノベルに近いものだから、恋愛系のライトノベルを書けばいいんだろうけど。
「柚木さんが書くのは、少女系のラノベがいいんじゃない? 自分の読み慣れてるものの方が書きやすいだろうし」
「はい。でも、それだと男性の読者を無視することになっちゃいますっ」
「仕方ないよ。男子と女子ではこのみが違うから。女子の票を集められるだけでも、大成功だと思うよ」
柚木さんは言葉を詰まらせていたけど、やがて「はい」とうなずいてくれた。
「なら先輩は、男子の票を集めるんですか?」
「そうなるだろうね。女子の票なんて、そもそも集められないし」
「そんなことないですよ。前に読ませていただいた小説、とても面白かったですし」
俺が去年に書いた小説は、市販の小説を真似しただけなんだけどな。
「あれは初めて書いた小説だから、大してうまくなかったと思うけどね」
「そんなことないです! 先輩は小説を書くのがすごく上手だと思いますっ。わたしはそう思います」
柚木さんの瞳はいつでも純粋だ。
俺をまっすぐに見つめる瞳は、少しも曇っていない。
「ありがとう。じゃあ、他の人たちにも面白いって言ってもらえるように、がんばろうか」
「はいっ」
俺は、柚木さんに慰められてばかりいる。こんな情けない先輩じゃだめだ。
ああ、みんなから面白いと言ってもらえる小説を書きたいな。




