第67話 柚木さんの急な提案
のんびり旅行していてもいいのだろうか。
漫研との勝負を二ヶ月後にひかえているのに、小説の執筆はおろか、原案すらまともにできていない。
旅館のロビーに大学ノートを広げる。
薄い灰色の罫線しか引かれていない紙面を、腕組みしながら見下ろしている。
シャーペンを右手でにぎりしめて、何分間こうしているのだろう。
狐塚先輩の高笑いする姿が、脳裏に焼きついて離れない。
旅館に戻ってからも、狐塚先輩の幻影はあらわれつづけて、俺を上から見下ろして嘲っていた。玉座に君臨する王者のような目で。
――そんな坊ちゃんを俺に宛がうのかよ。冗談きついぜ。
狐塚先輩の幻影が、またあらわれたっ。
――ま、俺らの勝ちはもう決まってるんだけどよ。
やめてくれ! たのむから、俺の前に姿をあらわさないでくれっ。
分厚いガラスの向こうで、雀がちゅんちゅんと鳴いている。
真夏の朝陽が差すロビーで、俺は頭を抱えている。
どうすれば狐塚先輩に勝てるんだ。
泉京屍郎を真似て、異世界系の小説でも書いてみるか?
取ってつけたような付け焼刃で、プロの漫画家に勝てるのか?
それなら、小説の王道であるミステリーで勝負するか。
漫画でミステリーが描かれることは少ないから、ミステリー小説なら勝負しやすいかもしれない。
狐塚先輩は、きっと少年誌のようなバトルものか、少女漫画みたいな恋愛系で勝負してくるはずだ。
それらのジャンルを避けば、一矢くらいは報いることができるかもしれない。
本格ミステリーだから、殺人事件の解決やトリックが話のメインだ。
主人公は有名な私立探偵で、第一の殺人に鮮やかな密室トリックが仕掛けられている。
いわくつきの洋館のようなところが舞台で、八人の容疑者が、主人公のとなりで次々と殺されていく。
犯人はすごく意外な人で、殺人を犯した理由も意表を突いたもので……。
こんなプロ顔負けのプロットを、俺なんかがつくれるのか?
それ以前に、文章力がついてこないだろう。
それと、密室トリックってどうやってつくるんだ?
だめだ。持ち得る知識を総動員しても、狐塚先輩に勝てる気がしない。
シャーペンをテーブルに置いて、椅子の背もたれに倒れ込む。今さらになって睡魔が襲ってくる。
俺では狐塚先輩に勝てない。
部長に会ったら、相談しよう。
現状を素直に打ち明けて、これからどうするかを、対――。
「先輩?」
だれもいないロビーに女子の声が響いた。
お茶や饅頭のお土産が並べられている受付カウンターのそばに、浴衣姿の女子が立っていた。
彼女は白いバスタオルを抱えて、俺を見返している。
お風呂上がりなのか、肩にかかる黒髪はしっとりしている。
頭頂部に煌めく艶が、丁寧に手入れされた髪であることを示していた。
「柚木さん」
「こんなところで、何してるんですか?」
柚木さんは、スリッパをぱたぱたと鳴らしながら近づいてきて、向かいの椅子に腰を下ろした。
「昨日は眠れなくてね。ちょっと考え事だよ」
「また、難しいことを考えてたんですか?」
「そうかな。柚木さんは朝風呂に入ってたの?」
「はいっ。せっかく旅館に来たんですから、少しでもたくさん銭湯に入らないと、もったいないじゃないですかっ」
柚木さんが、湯上りのほっこりした笑顔を向けてくれる。頬に差す赤みが、とても可愛らしい。
「ひなは、まだ寝てる?」
「はい。ひなちゃんの寝顔、めちゃくちゃ可愛いですよ! 先輩も見ますかっ?」
「いや、いいよ。あいつにばれたら、殺されるから」
柚木さんが、口に手をあてて笑った。
「先輩は、何を考えてたんですか?」
「ああ、ちょっとね。文化祭で発表する小説のことを考えてたんだよ」
「そうだったんですね。こんなに朝早くから執筆してるなんて、すごいですっ!」
「あ、いやいや。そんなんじゃないよ」
柚木さんのきらきらと輝く目を直視することができない。
「昨日は寝られなかったんだ。いろいろ考えたら、寝付けなくなっちゃって」
「えっ、本当に何かあったんですか?」
柚木さんが胸に手を当てて、不安そうに俺を見つめる。
狐塚先輩に怖気づいているだなんて、告白してもいいのか。白状したら、柚木さんに軽蔑されやしないか。
「昨日さ、江ノ島を部長と散策してたんだけど、そのときに狐塚先輩と会ったんだ」
「狐塚先輩も、江ノ島に来てたんですか」
「うん。漫研も江ノ島に観光しに来てたみたいでさ。本当に偶然だったんだけど、ばったり会って、言われちゃったんだよ。お前ごときじゃ、俺に勝てないってさ」
江島神社で見た狐塚先輩の、勝ち誇った態度が脳裏に浮かぶ。
「悔しかったけど、反論できなかったよ。狐塚先輩は、プロの世界で結果を出している人だから、あの人の言葉は重みが違うんだ。悔しいけど、あの人の実力を認めている自分がどこかにいた」
俺の弱音を、柚木さんはどんな顔で聞いているのだろうか。
「部長は、俺を狐塚先輩に対抗させたいみたいだけど、俺なんかじゃ完全に力不足だよ。俺は小説の執筆なんて、数えるくらいしかやったことがないんだ。勝敗なんて、火を見るより明らかだよ」
何も書かれていないノートに目を落とす。
狐塚先輩だったら、きっと数分でこのノートを漫画のプロットやネームで埋めてしまうんだろうな。
「昨日は寝られなかったから、仕方なくノートを開いて、ずっと考えてたんだ。けど、小説のプロットなんて何も思いつかないね。はは、参ったよ」
苦し紛れに笑ってみる。
わざとらしい笑い声は、ロビーの静寂に消えて、悲愴な佇まいをより強めてしまった。
柚木さんは、口を開かずにずっと聞いてくれた。
彼女の瞳は、悲しさで溢れているような気がする。
「朝から暗いことを言っちゃって、すまないね」
「あ、いえ。そんなっ」
「漫研の勝負を引き受けたときから、ずっと考えてたから、急に込み上げちゃったのかな。嫌になるな、こういうのは」
立ちはだかる困難に、頭がいらいらする。頭の後ろをわしわしと掻いた。
「わたしこそ、先輩のお役に立てなくて、すみません。わたしも小説を執筆したことがありませんから、どうすればいいのか、わからなくて」
「いや、話を聞いてくれるだけでいいんだよ。だれかに話すことができれば、気持ちも少しは楽になるし」
「そうですか?」
「そうだよっ」
俺は強がって伸びをした。テーブルに転がるシャーペンを手にとって、
「じゃあ、もうちょっとがんばってみようかな。小説のテーマくらいはしぼり出しておきたいから」
俺はまた白紙のノートへ向き合った。
小説のテーマなんてない。
俺の弱り切った心では、狐塚先輩はおろか、柚木さんを満足させるアイデアすら、出すことはできない。
柚木さんが席を立つ。スリッパの足音が、ぱたぱたとエレベーターへと向かっていく。
俺の浅はかな本心を見抜いて、呆れたんだろうな。
彼女にこれ以上失望されないために、俺はがんばらないと――。
「先輩。今日、いっしょに鎌倉を観光しませんかっ?」
柚木さんの弾ける声が突然聞こえて、俺は思わず顔を上げてしまった。
「いっしょに、鎌倉を?」
「はいっ。江ノ島はひなちゃんとふたりでまわりましたし、鎌倉には、有名なお寺がたくさんありますから。お薦めのお寺を、わたしに教えてください!」
「別にいいけど、お薦めの場所なんて知らないよ。鎌倉なんて、行ったことないんだから」
「じゃあ、いっしょに探しましょう! ひなちゃんも喜びますよっ」
柚木さんが子どものようにはしゃぐ。嬉しそうにロビーを飛び跳ねている。
比奈子は、俺といっしょに観光なんて、したがらないと思うけどな。
柚木さんの気持ちがわからない。
「鎌倉に着いたら、まずは大仏を見に行きましょう! あ、鎌倉って、忍者とかお侍さんの格好で写真が撮れる場所もあるんですよねっ」
「そうなの? 俺は知らないけど」
「お寺ばっかりじゃなくて、鎌倉のスイーツなんかも食べてみたいですねっ。ああ、今から楽しみですね!」
柚木さんって、こんな子どもっぽい一面もあったんだな。
目を輝かせてガッツポーズしている姿を、茫然と眺めるしかなかった。




