第63話 夜の旅館のお約束
そう思っていたのに、
「あり得ないわ。あの人っ」
江ノ島のホテルの銭湯の前で、白い浴衣に着替えた比奈子に、腕組みしながら宣言されてしまった。
「あり得ないって、だれがだよ」
「部長に決まってるでしょ! なんなの、あの完璧な体型。嫌味にもほどがあるわっ!」
何かと思ったら、部長のナイスバディを根に持っただけかよ。
初日と二日目は、江ノ島の安い旅館を探した。
小さな旅館だけど、女将さんたちが丁寧に挨拶してくれる。
館内はきれいで、ロビーの椅子はふかふかで気持ちいい。銭湯も広くて、湯加減がちょうどよかった。
二人用の部屋も冷蔵庫やテレビが完備されていて、窓から眺める海の景色もいいから申し分ない。
「部長って、あんなにスタイルよかったんだね。わたしも知らなかった」
銭湯の近くの休憩所で、柚木さんが苦笑する。そのとなりの椅子に、比奈子がどかっと腰を下ろした。
「スタイルがいいってもんじゃないわよっ。なに、あの足の長さ。腰のくびれ方。入念に手入れされた流れるような髪っ。完璧すぎて、非の打ち所がないじゃん!」
「う、うん。そうだよね」
「そして、そして、む、む――」
比奈子が自分の胸を悲しく見下ろして、身体をふるわせる。
両手を出してわなわなと動かして、部長を呪い殺しそうな形相になってるぞ。
あたりを包む禍々しいオーラに柚木さんも引いてるしっ。
比奈子が顔を上げ、ものすごく血走った目で俺を睨む。
強力なばねで、背中を押されるように俺に飛びついて、
「僕がこんな惨めな思いをしたのはっ、全部にいのせいなんだからね! なんとかしなさいよっ」
「ふざけんなっ! 勝手についてきたお前が悪いんだろっ」
よくわからない理由で罪を俺に擦り付けるなっ。
「あ、こないなとこにおったんね」
お風呂上りの部長が廊下の角から出てきて、比奈子に後ろから抱きついた。
「ひっ」と比奈子の口から悲鳴が漏れる。
「あんた、めっちゃかいらしいなあ。お人形はんみたいでずるいわ」
湯船で温まった部長の顔に赤みが差している。
イタリアンだかフランチだかの絶品料理に舌鼓を打っているかのような笑みだ。
一方の比奈子の顔は引きつり、蛇に睨まれた蛙みたいに縮こまっている。
地球の終わりを迎えたような顔をするな。
「うちも、あんたみたいな、ちっこい子になってたかったなあ」
部長が比奈子に頬ずりする。
足を絡めて、両手で比奈子の胸や腰をまさぐる。本物の蛇みたいに。
「あんた、名前はなんて言うん? もう一回おせてほしいなあ」
「さ、さっき、言った、のに――」
「ん? ひなちゃん言うんか? かいらしい名前やな。うちも今日から、名前をひなちゃんにしようかしら」
部長に蹂躙される比奈子を見て、柚木さんが絶句している。
見かねて部長から比奈子を引き離すと、比奈子がさっと身を翻して、俺の背中に隠れた。
「部長。やりすぎですよ」
「ええっ、そないなことないわよぅ。ひなちゃんのこと、もっとしりたいんに」
「僕はお前なんかに興味ないもん! いいからあっちに行けえ!」
比奈子の全身全霊の拒絶を聞いて、比奈子ラブな部長は、さぞかしショックを受けるのかと思いきや、嫌らしい口もとをさらに歪ませて、悪意に満ち足りた顔になった。
「ひぃっ!」と背中から悲鳴が聞こえた。
部長が煉獄に住まう悪魔のように両手を広げて、
「そないなら、むなくんともども、うちの餌食になってもらおうかしら」
「いい加減にしてくださいっ!」
堪らずに部長の額をチョップすると、「あうっ」と声を漏らして、元の部長に戻った。
「夕食の時間になるんですから、こんなところで遊んでないで宴会場に行きましょう」
「はーい」
教室の三個分くらいの広さの宴会場に、お膳が二列に並べられている。
お膳には、刺身や鉄板に乗った牛肉の料理が、所狭しと用意されている。
宴会場の右側では、他の団体さんの宴会が既にはじまっている。
「じゃあ、他の団体さんの迷惑にならないように、早く食べちゃいましょう」
先生たちと合流して、いただきます。
二種類の小鉢やお吸い物までついている。かなり豪華だ。
醤油皿に醤油を入れて、刺身といっしょにご飯を掻き込む。ああ、うまい。
刺身とご飯って、どうしてこんなに相性がいいんだ。これだけで、ご飯がなくなってしまいそうだ。
茄子の小鉢に箸を伸ばして、お吸い物で流し込む。
汁にあさりの出汁がよく利いている。
明日は江ノ島を散策して、明後日と明々後日の二日間で鎌倉を見てまわるのか。
鎌倉は歴史のある街だから、執筆のヒントを探したいよな。
鎌倉と言えば、大仏。鎌倉幕府。大仏と言えばお寺。
鎌倉幕府なら源頼朝。義経の方が人気はあるか。
義経や源平合戦をテーマにすれば、べただけど歴史ものの小説が書けるなあ。
「むなかたきゅうん」
右から腕をまわされて、左の肩をむんずとつかまれた。
「先生!?」
「んん? らーにぃ?」
先生の顔が間近にあると思わなかったから、つい叫んでしまった。
先生の顔は真っ赤で、目はまどろみかけている。
黄色の液体の入ったコップを持って、頭をふらふらさせていた。
「むなかたきゅんもびーるがほしいの? のませてあげよっかあ」
先生が顔をさらに近づけて、ビールの入っているコップを押し付けてくる。
「だめですよっ。俺は未成年なんですから!」
「そんらあ、かたいこといわないのお」
だめだ。この人、完全に出来上がっている。
「先生、宗形くんで遊んじゃだめですよ」
「あんっ」
上級生のふたりが見かねて、先生を取り押さえてくれた。
「なによっ、せんせーのさけが、のめないっていうの!?」
「当たり前ですよっ。わたしたちは未成年ですよ!」
「みせいねんがなによっ。ちょっとくらい、のんだっていいじゃない!」
先生が酔って暴れ出している。べたなことを叫ばないでくださいっ。
「ほんまに、あいりちゃんは手のかかる子やなぁ」
終いには部長までが席を立って、先生を取り押さえてくれた。
部長に抱きかかえられていく先生を見ていると、どっちが保護者なのか、わからなくなってくる。
「よかった。これでやっと安心してごはんが食べられる」
俺の左どなりでひと言も発していなかった比奈子が、ぼそりとつぶやいた。




