第60話 今日ものんきな部長と、比奈子も合宿に行く?
『漫研に勝たへんと、うちやむなくんが、くびになっちゃうんか』
帰宅して、カレーライスと鯵の干物という微妙な組み合わせの夕食を食べて、二階の自分の部屋へ駆け上がる。
制服を着替えて、午後八時くらいの落ち着いた時間に部長へ電話すると、意外にもすぐに電話がつながった。
顛末を部長に伝えたけど、電話越しの部長のおっとりとした口調には、一切の変化がない。
「そうなんですよ。俺は執筆なんて、ほとんどしたことがないので、みんなで執筆しようと言ったんですけど」
『なるほどなぁ』
「みんなは、俺や部長に書かせる気で、まともに執筆しようとしないんですよ。これ、どう思います?」
思いのたけをスマートフォンの通話口へぶつけると、けらけらと笑う声が受話口から聞こえた。
『みんな、責任をとるんが、かなんのね。うまいかわし方しはるなぁ』
「関心してる場合じゃないですよ。このままだと、俺と部長だけで執筆させられる羽目になるんですよ。みんなをなんとか説得しましょうよ」
『そやなぁ』
部長の声には、いつにも増して覇気がない。
「部長は、今のままでいいんですか?」
『ええよ。むなくんがかなんなら、うちだけが執筆してもええし』
「そんな簡単に納得しないでくださいよ! この勝負は、文研の全員で乗り越えないといけないんですから、部長がそんなことを言ったら、みんな部長に甘えますよっ」
『ほほ。怒ってるむなくんも、かいらしいなぁ』
椅子から思わず落ちそうになった。
『そないに心配しなくても、だいじょうぶよ。さおたんも、ただの人間なんやさかい』
「簡単に言いますけどね。あの人はプロの漫画家なんですよ。部長だってわかってますよね」
『そら、もちろんわかってるわよ』
「わかってるんでしたら、もっと焦りましょうよ。先生なんか、キャラが変貌するくらい取り乱してたんですよ」
『ん、でも、うちはくびになってもええし』
だから、全然焦ってないんですね。
「とにかくっ、夏休みにも何度か部活をやるので、部長もちゃんと来てくださいよ」
『はあい。でな、むなくん。今日、枕をこうたんやけど、めっちゃすごい枕なんよ! ようわからんけど、うちの頭にジャストフィットしはるんよっ』
部長の枕および寝具の談義がはじまって、一時間以上も電話してしまった。
今の俺の心情をアニメのキャラクターで表現したら、大量の涙を流しているところですよ。
「めずらしく長電話したたけど、ことちゃんと電話してたの?」
背後から首筋をなでられて、ぞくっとする。
慌ててよけると、比奈子がそこに立っていた。
「首は触るなって言っただろっ」
「だってえ、何回呼んでも、全然気づいてくれないんだもんっ」
比奈子が、ぶすっと頬を膨らませる。
比奈子はシャワーを浴びた後なのか、白のTシャツとハーフパンツに着替えていた。
Tシャツの中に着ているピンク色のキャミソールが少し透けている。
ハーフパンツは、普段から穿いているチェック柄のものだ。
「電話してたんだから、しょうがないだろ。部活でいろいろあったんだよ」
「ふうん。よくわからないけど、さっき電話してたのって、ことちゃんじゃないよね?」
「ああ。そうだけど」
比奈子が俺のベッドに腰を下ろした。
「だろうね。口調がちょっと荒かったし」
「そうか? 普段から、こんな調子だと思うけど」
「そうかなぁ。ことちゃんには、もっと優しいと思うけどなぁ」
比奈子が嫌らしい目つきで舐めまわすように見てくる。
「言っとくけど、ことちゃんに乱暴なことをしたら、僕が許さないからねっ」
「はいはい。わかったよ」
「で、だれと話してたの?」
比奈子の笑顔が、蝋燭の消えた炎のように消え失せる。
疑わしげに詮索してくるけど、お前はイギリスの陪審員か。
「なんでそれを、お前に言わないといけないんだよ」
「口答えしないの。僕に素直に白状しなさいよっ」
「嫌だね。お前は夏休みに補習があるんだろ。こんなところで遊んでないで、勉強しろよ」
椅子にもたれながら背を向けると、後ろから首を絞められた。
「なんだとぉ! にい死ねっ。このやろう!」
「ぐわっ、やめろ!」
比奈子の空手で鍛え上げた腕力が、俺の首をものすごい力で圧迫する!
「ひ、な。ギブ、ギブ」
薄れかけている意識の中で、比奈子の腕を叩くと、比奈子は腕の力を解いてくれた。
ぜえぜえと息をして、室内から空気を取り込む。
「僕に言えないってことは、文研の他の女子と疚しいことでもしてるんでしょ。正直に言わないと、本当にぶっ殺すからね」
「わかったっ。言うから、殺すのだけは勘弁してくれ」
「で、だれと話してたの?」
「部長だよ。部活のことで相談してたんだよっ」
「嘘つけ。枕がどうとか、駅前のプリンがどうとか、いろいろ言ってたじゃん」
「仕方ないだろ。部長から話してきたんだから。無視したら感じ悪いだろ」
比奈子が腕を俺の首もとへまわしてくる。
「っていうかさあ、部長ってたしか女子だったよね。男子だったら、プリンとかスイーツの話なんてしないし」
「いや、わからんぞ。最近の男子はスイーツが好きだから、うちの部長が――」
「女子だよね?」
「はい、そうです」
比奈子の腕に力が、じわりじわりと込められたので正直に白状した。
「その部長って、にいと仲がいいんでしょ。ことちゃんが言ってたもん」
「そうなのか?」
「で、その仲がいい部長と、なんでスイーツの話をしてたの? 長々と」
「いやだから、話の流れでそうなって――」
「んもう! いいからさっさと白状しなさいよ!」
「や、やめっ」
このままだと埒が明かない。昨日と今日に文研で起こったことを比奈子に話そう。
「ふうん。じゃあ、プロの漫画家をやってる、すんごい人に勝たないと、にいは副部長を辞めさせられちゃうんだ」
小一時間をかけて説明して、比奈子はやっと納得したのか、俺から腕を振りほどいてくれた。
「そうだよ。こんな大切なときに部長がいなかったから、合宿の件も含めて電話したんだよ。これでも俺を疑うんだったら、柚木さんに電話して確認でもしろよ」
比奈子は不満げな表情でベッドに寝転んだ。
「ことちゃんに確認してもいいけど、今回はこれで勘弁してやるわよ。なんか面倒になってきたし」
今回はってなんだよ。次回もその次も、俺は窒息の苦しみに耐えないといけないのか。
「でもさぁ、僕、その部長を一度も見たことがないんだよね」
「それはまあ、そうだろうな。あの人はほとんど部室に来ないし」
「だからさぁ、鎌倉だっけ? 今日のにいの主張が正しいことを証明するために、僕もつれてってほしいなあって、思うんだけど」
お前はいきなり何を言い出すんだ?
「何を言ってるんだよ。お前は空手部だろ。文研の合宿に参加なんて、できるわけないだろ」
「そんなことないでしょ。適当に理由をつけて、その部長とやらを説得しなさいよ」
比奈子がむくりと起き上がり、意地悪する気で満ちた笑みを浮かべる。
「そんなの無理に決まってるだろ! わがままも休み休み言えっ」
「できないの? それだったら、今日のことを、ことちゃんに言いつけちゃおっかなぁ」
比奈子がさらに悪辣な顔で哄笑する。
こいつ、俺を完全に舐めくさってやがる。しかし、柚木さんに妙な誤解を与えられるのも怖いわけで。
「わかったよ。部長っていうか、確認するのは先生だけどな。だめもとで聞いてみてやるよ。先生がだめって言ったら、だめなんだからな」
「わかってるって。やったあ! ことちゃんと鎌倉に遊びに行けるぅ」
鎌倉に行く名目は合宿だし、今は俺や先生の命運がかかってるのだから、断じて遊びに行くんじゃないけどな。
諸手を挙げて部屋を出て行く比奈子の小さな背中を眺めて、俺はひとりごちた。




